会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第2章 愛媛マンダリンパイレーツ監督・弓岡敬二郎編 第18回
かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は「独立リーグ」で奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第2章は、1980年代に阪急ブレーブスの名ショートとして名を馳せ、現在は独立リーグ屈指の名将として愛媛マンダリンパイレーツ(以下、愛媛MP)の指揮を執る弓岡敬二郎に密着。今回は球団代表の薬師神績(やくしじん・いさお)氏に、弓岡の背番号を「永久欠番」にした経緯を聞く。(文中敬称略)
弓岡が最初に愛媛MP監督に就任したのは2013年11月。当時阪神のスカウトで四国をまわっていた東洋大姫路高の先輩、山川猛氏の紹介で縁が繋がった。
球団代表の薬師神績は弓岡の選手時代や、指導者としてイチロー、田口壮はじめ多くの選手を育てた実績は詳しく知らなかったが、初対面で「安心してチームを任せられる方」と直感したそうだ。
「『山椒は小粒でもピリリと辛い』という言葉がありますが、まさにそんな印象を受けました。派手さはなくても経験豊富で、会話の中の言葉にも含蓄がありました。県民球団になって経営面は安定していることを伝え、『愛媛県民の願いでもある独立リーグ日本一を実現したいので、ぜひ力を貸してほしい』とお願いしました」
就任初年度の2014年シーズンは、前期は最下位と、オリックスで名コーチと呼ばれた弓岡をしてもすぐに結果は出なかった。しかし後期は、前期の終盤に加入した正田樹とカープアカデミー出身のホセ・バレンティンの活躍もあり2位に躍進した。
翌2015年シーズンは、愛媛MPの球団史に残るシーズンになった。前期は2位で折り返すと、後期は2012年シーズン後期以来の優勝を成し遂げ、リーグチャンピオンシップも制して、初の年間総合優勝に輝いた。そして、新潟アルビレックスと争うことになったグランドチャンピオンシップも制し、球団史上初の「独立リーグ日本一」に輝いたのだった。
同年のグランドチャンピオンシップは、ビジター2戦で連勝され王手をかけられた状態で愛媛に戻ってきた。しかしそこから3連勝し、逆転で独立リーグ日本一の栄冠を手にした。なお初戦2連敗からの逆転優勝は、シリーズ史上初だった。
薬師神は当時の思い出を身振り手振り交えつつ話してくれた。
「優勝を決めた試合は加戸(守行・元愛媛県)知事、中山(紘治郎・元愛媛銀行)頭取、中村(時広・元松山)市長の全員が観戦に来てくださいました。優勝が決まった瞬間、来賓席でみんな子供のようにわーっと喜び叫んで感動を分かち合いました」
薬師神にはこの試合、弓岡の人柄を再認識する忘れられないシーンがあった。
同点で迎えた6回裏、愛媛MPの攻撃。2アウト満塁のチャンスにバッターはキャッチャーの鶴田都貴(ひろき)。弓岡がこの時点で来季キャプテンに指名していた、特に信頼を置く選手だった。
「鶴田君は非常に勝ち気で男気ある、責任感の強い選手でした。弓岡監督も鶴田君のそういう所が好きだったと思います。でもあの場面では鶴田君の良い所、責任感の強さが、大きなプレッシャーになっていたように感じました」
鶴田は高校(神村学園/鹿児島)時代、2年生で出場した甲子園(帝京戦)では、のちドラフト4位で中日入りする髙島祥平から先制本塁打を放つなど、早くから長打力のあるキャッチャーとして知られていた。大学(東京国際)では元広島の名将で知られた古葉竹識氏に指導を受け、主将を任された4年時には東京新大学野球リーグの首位打者と打点王を獲得した。しかし薬師神は、この場面ではいつもの威風堂々とした鶴田とは違い、極度の緊張に縛られているように見えて不安に思った。
固唾を飲んで見守る中、あと少しで打席に入ろうとした瞬間だった。弓岡がベンチから出てタイムをかけて鶴田を呼んだ。弓岡のアドバイスに頷いた鶴田はゆっくりと再び打席に向かった。
球場に響く大声援の中、初球を思い切り叩いた鶴田。打球は三遊間を破り、勝ち越し2点タイムリーヒットに。結局これが決勝打となり、愛媛MPは栄冠を手にしたのだった。
「鶴田君は引退して何年か後に、松山の女性と結婚して、松山と長崎で結婚式が開かれました。私も松山の式に呼んでいただいたのですが、そのとき、『鶴田君、ちょっと教えてほしいことがある。あのシーンは覚えとるやろ』と尋ねて、弓岡監督から呼ばれたとき、どんなアドバイスを受けたのか聞いてみたんです。ああいう場面で、監督はどんなアドバイスをするのか非常に興味がありましたので。
鶴田君は『(弓岡監督からは)『大丈夫、普段通りやれば必ずいける(打てる)』とだけ言われました。それで急に気持ちが楽になって、自然体で打つことができました』と答えました。
実は私は、何か特別な言葉をかけたのではないかと予想していたのですが、非常にシンプルな言葉でした。でも逆に感心しました。鶴田君の性格を熟知した弓岡監督らしい、余計なプレッシャーをかけない、最適な間の置き方だったのだなと。あらためて弓岡監督の老獪さ、凄さを知った気がしました」
鶴田がキャプテンに指名された翌2016年シーズン、グランドチャンピオンシップ連覇は逃したものの、リーグ戦では前期優勝、後期優勝、そしてリーグチャンピオンシップ制覇とすべてのタイトルを制する完全優勝を達成した。
前述した通り、弓岡は惜しまれつつ同年限りでオリックスに戻ることになり、キャプテンとしてチームをまとめた鶴田も同年限りで引退を決めた。鶴田は引退後、アマチュア野球指導資格を回復し、長崎国際大学硬式野球部のバッテリーコーチに就任した。教え子が愛媛MPに入団するなど、長崎に暮らす現在も愛媛MPと深いつながりを持ち続けている。
「弓岡監督にはもちろん残ってほしかったのですが、オリックスの編成部長から電話がありまして、『若手の育成にどうしても弓岡が必要なので、申し訳ありませんが了解していただけないか』とお願いされました。本人が希望すればNPBでコーチや監督として活躍していただくために快く送り出すことも、我々独立リーグのあるべき姿のひとつだと思うんですよね。弓岡監督にとって願ってもないチャンスだと思い、了承して送り出すことにしました」
勇退に伴い、薬師神は弓岡の背番号「77」を球団初の永久欠番にすることを決めた。
独立リーグ日本一に輝いたときは、地元愛媛新聞の一面トップ記事を飾り、テレビのニュースでも大きく取り上げられるなど、「県民にとっても最上位の『感動という配当』をもたらしてくださった」と薬師神は話した。
もうひとつ、薬師神が背番号「77」を永久欠番にした理由は、功績を讃えると同時に「いつかまた愛媛MPに戻ってきてほしい」という願いも密かに込められていた。そんな薬師神の願いは6年後、現実になる。額縁に入れて球団オフィスに飾られていた永久欠番「77」を付けたユニフォームは、ふたたびグラウンドで土埃にまみれることになる。
2021年11月18日、愛媛MPは弓岡の監督復帰を発表した。
(第19回につづく)
■弓岡敬二郎(ゆみおか・けいじろう)
1958年生まれ、兵庫県出身。東洋大附属姫路高、新日本製鐵広畑を経て、1980年のドラフト会議で3位指名されて阪急ブレーブスに入団。91年の引退後はオリックスで一軍コーチ、二軍監督などを歴任。2014年から16年まで愛媛マンダリンパイレーツの監督を務め、チームを前後期と年間総合優勝すべてを達成する「完全優勝」や「独立リーグ日本一」に導いた。17年からオリックスに指導者として復帰した後、22年から再び愛媛に戻り指揮を執っている
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。