松岡がサッポロビールに入団した1966年(昭和41)、第37回都市対抗野球で熊谷組が3度目の優勝を果たした。胴上げされるのは古田昌幸監督。島岡監督の鶴の一声がなければ、松岡もこの輪の中にいたかもしれない(写真:共同) 松岡がサッポロビールに入団した1966年(昭和41)、第37回都市対抗野球で熊谷組が3度目の優勝を果たした。胴上げされるのは古田昌幸監督。島岡監督の鶴の一声がなければ、松岡もこの輪の中にいたかもしれない(写真:共同)
【連載③・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】

九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。

つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。第3回となる今回は、明大野球部からプロ入りまでの経緯を語った。

■島岡監督の鶴の一声で進路が決まる

プロ野球でアマチュア選手を対象にしたドラフト会議(新人選択会議)が初めて行われたのは、1965(昭和40)年の秋だ。松岡功祐が大学4年だった1964年にはまだ、自由競争で新人選手がプロの球団に入っていた。松岡と東京六大学でしのぎを削ったメンバーの中から、土井正三(立教大学→読売ジャイアンツ)、江尻亮(早稲田大学→大洋ホエールズ)らがひと足先にプロ野球に飛び込んだ。

4年生の秋に初めてベストナインに選ばれた松岡だが、まだプロ野球は遠い世界だと感じていた。松岡は言う。

「もちろん、子どもの頃にはプロ野球選手に憧れましたが、身長は170センチもないし、プロに行けるとは考えていませんでした。のちにプロで活躍する選手を神宮球場でたくさん見ていましたから、あそこはとんでもない世界だと思っていました」

松岡の知らぬところで勧誘があったと聞いたのは、数年後のことである。

「僕が大エラー(第2回を参照)をしたあと、『もし大学を中退するようなことがあったらうちに欲しい』と西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)のスカウトに言われたと、父親から聞きました」

当時は東京六大学が全盛の時代。精鋭が揃う日本最古の学生リーグは、プロ野球への登龍門であると同時に、近道でもあった。

「その年、土井をはじめ、東京六大学から7人がプロになりました。父親には『それなのに、明治でレギュラーだったおまえがなんでプロに行けないのか』と言われましたね。もう60年近く前のことですが、よく覚えています」

守備に関してはプロでも通用するという自信があった。ただ、それだけで渡っていける世界ではないことはよくわかっていた。松岡は社会人野球のサッポロビールで腕を磨くことに決めた。

「もともとは九州学院の先輩で、〝ミスター都市対抗〟と言われた古田昌幸さん(立教大学→熊谷組)にかわいがっていただき、グラブをもらったり、お小遣いをもらったりしていました。僕は大学で活躍できていなかったけど、古田さんに『熊谷組に来い』と誘われていました」

しかし、明大・島岡吉郎監督の鶴の一声で松岡の進路が変わった。

「『松岡、おまえはサッポロビールへ行け!』と言われました。御大には誰も逆らえません。古田さんには申し訳ないことをしましたが、結果的にサッポロビールに行ってよかったですね」

■「ドラ1」の勲章を得てプロ野球へ

サッポロビールのグラウンドは、成城学園前の俳優の故・石原裕次郎さん宅の近くにあった。

「チームのOBで巨人でも活躍された城之内邦雄さんが走り込んだ坂があって、僕たちもよく走りました。寮が自由が丘にあり、職場は銀座の本社。環境としては最高でしたよ」

当時は社会人で1年プレーすればプロ野球に進むことができた。しかし、第1回ドラフト会議で松岡の名前が呼ばれることはなかった。

「当時の社会人にはいい選手が多くて、レベルは高かったですよ。プロの誘いを蹴ってプレーする選手もたくさんいて。僕は1年目に指名がなかったので落胆したんですが、『もう1年頑張ろう』と気持ちを入れ替えました」

社会人野球の最大のイベントは、後楽園球場で行われる都市対抗野球だった。

「都市対抗は応援がすごかった。今よりも盛り上がっていましたよ。住友金属との試合で僕が三塁打を打ったんですが、それがスカウトの目に留まったようです」

第2回ドラフト会議は、1次(9月)と2次(11月)に分けて行われた。1次は国体に出場しない高校生と社会人選手、2次は国体に出場した高校生と大学生、社会人の一部が対象となった。

松岡は1次ドラフトで、大洋ホエールズからなんと1位指名を受けたのだ。

「本当にびっくりしましたよ。天から降ってきたような話に思えました。神宮球場で大エラーをしたあとに島岡御大に『頼むから死んでくれ~』と言われた男が、大学の最後の年にベストナインに選ばれ、プロ野球のドラ1にもなった。こんなに幸せな人生はほかにはない。『俺がドラフト1位だぞ』と誇りに思いました」

島岡の怒りを買ってレギュラーをはく奪されても、我慢に我慢を重ねて野球に打ち込んだ松岡に、プロ野球のスカウトが最大限の評価を与えてくれたのだ。

「エラーをしてレギュラーをはずされたあとは、命を取られたのと同じでしたから。毎日、グラウンドで泣いていました。『どうやって死のうか』と真剣に考えたこともあります。そんな日々を乗り越えてのドラフト1位。そのあとにつらいことがあっても、自分にとっては何でもない。ドラ1というのは勲章ですよ」

第3回へつづく。次回配信は2024年1月27日(土)を予定しています。

■松岡功祐(まつおかこうすけ)

1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている

★『松岡功祐80歳の野球バカ一代記』は隔週土曜日更新!★

元永知宏

元永知宏もとなが・ともひろ

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、出版社勤務を経て独立。著書に『期待はずれのドラフト1位』『敗北を力に!』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『トーキングブルースをつくった男』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』(東京ニュース通信社)など

元永知宏の記事一覧