【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第17回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
■「本当ですか? 初めて聞きました」
1987年4月に長田賢一(おさだ・けんいち)がムエタイの本場タイでルンピニースタジアム認定ウェルター級王者・ラクチャート・ソーパサドポンと対戦したことで、所属する大道塾の他の面々からも大道塾主催の全日本選手権──北斗旗とは別の舞台に積極的に上がる選手が出てきた。
94年3月開催の『UFC2』には市原海樹が参戦し、初戦でホイス・グレイシーと激突した。市原はミャンマーでベアナックルでの殴り合いや頭突きもOKという"世界一危険な格闘技"ラウェイにも挑戦している。
"小さな巨人"加藤清尚は欧米でキックボクサーとして活動し、ふたつの世界王座を奪取した。現在はMMAやキックボクシングの名トレーナーとしても活動するテクニシャンの飯村健一は、ムエタイのもうひとつのメジャースタジアムであるラジャダムナンで闘った。
所属選手たちの「他の格闘技に挑戦したい」という思いは膨らむ一方だったのだろう。92年から2002年にかけ、大道塾はムエタイやMMAのワンマッチを主体にした大会『THE WARS』をのべ6回も開催している。
92年7月7日、東京・後楽園ホールで開催の第1回大会のメインイベントには長田が登場し、ポータイ・チョーワイクンと3分5ラウンドのムエタイルールで激突。ムエタイで2階級を制覇した実力者を相手に引き分けた。
ラクチャートと対戦したことで、日本国内のキックボクシング界での長田の評価は高まっていた。こんな逸話がある。90年6月30日、日本武道館で全日本キックボクシング連盟主催のビッグマッチが行なわれ、K-1のルーツともいえる空手VSキックの異種格闘技戦、佐竹雅昭VSドン・中矢・ニールセンが行なわれた。実を言うと、この一戦はプロレスラーとの異種格闘技戦で知名度が高かったニールセンありきのマッチメークだった。
対戦相手は最初から佐竹だったわけではない。結局実現しなかったが、当初この日系キックボクサーの対戦相手として長田に白羽の矢が立っていたのだ。確認すると、長田は「本当ですか? 初めて聞きました」と少しばかり身を乗り出して驚きの表情を浮かべた。
「もし(大道塾の創始者である)東孝先生から『大道塾のためにやれ』と言われたら喜んでやっていたと思います」
しかしながら、長田VSニールセン戦は幻に終わった。計画の段階で対戦相手は佐竹に移行してしまったのか。それとも長田の耳に届く前になんらかの事情で話そのものが立ち消えになってしまったのか......。その経緯はわからないが、このときニールセンの相手が佐竹ではなく長田だったら、佐竹を日本人エースとするK-1が93年に旗揚げされることはなかったような気がしてならない。
■大道塾の『トーワ杯』参戦
また、この時代には長田と佐竹の直接対決を期待する声も多かった。もっと言うと、この夢の対決には、一度は実現寸前までいった痕跡が残されている。舞台は93年1月31日、東京武道館で行なわれた『トーワ杯 カラテジャパンオープン93』。ちょうど1年前に開催された第1回大会では優勝賞金1000万円の無差別級トーナメントということで大きな話題を呼び、優勝候補だった佐竹が優勝している。
続く93年の第2回大会には"リアル日本一決定戦"というべき佐竹との一戦を実現させるために、長田が他の大道塾勢と共に出場する動きがあったのだ。「もう言ってもいいんでしょうけど」と前置きしてから、長田は「トーワ杯に出る動きは確かにありました」とあっさり認めた。
「東先生から『正道会館と決着をつけなきゃいけないからトーワ杯に出ることにしたいが、どうだ』と支部長会議の席上で話がありました。そのときは(同席していた)市原も加藤も『わかりました』と了承しています。血が湧きました。身震いしました」
もし、このとき大道塾勢の参戦が実現していたら、長田VS佐竹だけではなく、市原や加藤絡みの夢の対決、例えば、正道会館では佐竹に続く戦績を残していた後川聡之や金泰泳らとの一騎討ちが続々と実現していたのではないか。
しかし、最終的に大道塾勢の参加は見送られた。その具体的な理由について突っ込むと、長田は残念そうに言った。
「東先生から『正道会館は出ないという話になった』と聞きました。そして先生は『トーワ杯を主催している方には失礼な話だけど、正道会館が出ないのであれば、我々が出る意味はない』とおっしゃっていました。我々はみんな渋々『わかりました』と頭を垂れるしかなかったけど、内心ガッカリしていました。加藤とかは出たかったと思う。わたしは『佐竹さんが出ないのであれば......』という思いもあったけど、(本音を言えば)やっぱり出たかったですね」
水面下でどんな駆け引きがあったのか。確かに直前まで正道会館勢は出る出ないという話になっていた微かな記憶がある。しかしながら最終的には参戦し、優勝=佐竹、準優勝=金、第3位=後川と表彰台を独占した。
長田は「自分たちが出ていたら、どうなっていたんですかね」と天を仰いだ。
「これは自分の考えでしかないんですけど、ある意味ズルいかもしれないけど、大道塾の人間として大道塾のために闘わざるをえない状況があれば、リングに上がりました。もしかしたら自分なりの覚悟が足りなかったのかもしれないですね。自分から積極的に出て行くという気持ちがまったくなかったですからね」
長田の気持ちは揺れていた。しかし最終的には総合武道というべき大道塾を発展させようという方向性に舵を切る。先に記したポータイとの一戦は大道塾内で発生した他競技への挑戦という流れに対する落し前をつける闘いでもあった。
「本来、我々が理想とする闘いが北斗旗だとすれば、そこで体現すればいいだけの話だった。しかし、他競技に目を向けさせてしまった責任の一端は自分にあると思ったわけです。わたしがラクチャートと闘ってから、みんなどんどん外で試合をしたいという流れになってしまったわけですからね」
ポータイと闘った4ヵ月後、長田は北斗旗無差別に出場し優勝した。巷では「市原や加藤が世代交代を起こすのでは?」という期待もあったが、時代は動かなかった。結果的に北斗旗史上最高の盛り上がりを見せたこの大会を最後に長田は実戦の舞台から身を引く。
「最後の無差別では、『もし自分の勝利が大道塾に必要なら勝たせてください。必要ないのなら加藤たちを勝たせてください』と、柄にもなくあの大会だけは神に祈りました。今思うと独りよがりな考えでしかありませんが、自分が勝って辞めることができたら、大道塾の方向性は守られると思ったんですよ」
翌93年4月、K-1がスタートした。その3ヵ月前の『トーワ杯 カラテジャパンオープン93』で、もし長田と佐竹が対峙していたら、格闘技界のベクトルはまったく違う方向に向いていたのか。幻となった佐竹戦から31年の歳月が流れた。現在、長田は生まれ育った仙台を拠点に大道塾の二代目塾長として、同塾が標榜する総合武道「空道」の発展に奔走している。
(つづく)