布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第18回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
1980年代、巷にはプロレスに憧れる少年たちが溢れていた。それはそうだろう。毎週ゴールデンタイムで地上波が2局もレギュラー放送していた時代だったのだから。
金曜日20時からはテレビ朝日系列で『ワールドプロレスリング』が放送され、"燃える闘魂"アントニオ猪木らの熱戦の影響で、翌日学校でプロレスごっこに講じる者はあとを断たなかった。
1968年生まれで、のちにK-1の日本人ファイターの中では佐竹雅昭に次ぐナンバー2として活躍する後川聡之(あとかわ・としゆき)もそのひとりだった。"狂える猛虎"タイガー・ジェット・シンや"大巨人"アンドレ・ザ・ジャイアントを相手に流血を厭わない猪木の過激なファイトぶりに感化され、「中学を卒業したら、新日本プロレスに入ろう」と真剣に考えていた。
しかし、周囲の大人たちは口を揃えて、「まずは高校に行ったほうがいい」と諭し、決まり文句のように言葉を続けた。「プロレスはその後でもいける」
後川は中学から大阪の親元を離れ、甲子園の常連校である一方で、スキャンダラスな名横綱・朝青龍を輩出したことでも知られる高知県の明徳義塾に通っていた。寮内でお菓子を口にすることは厳禁とされるなど、規則に縛られた学校生活だった。
「脱走する生徒もいるので、学校や寮のまわりには金網が張られていたし、定期的に警備員も巡回していました。まあ刑務所みたいなものですよ(笑)。でも、僕はそんな寮生活を楽しんでいましたね」
高校を卒業すると大阪に戻り、兄のつてを頼り正道会館に入門した。
「最初は空手をプロレスに入るためのステップと捉えていました」
当時は極真空手の創始者・大山倍達の半生をフィクションを交えて活写した劇画『空手バカ一代』の影響で、ケンカに強くなりたかった少年たちはこぞって極真空手に入門する時代だった。
80年代半ば、独自の世界観を構築していたボクシングや大相撲を除けば、プロレスと空手こそ"最強"を論じやすい格闘技だったのだ。この世に総合格闘技はまだ生まれていなかった。そうした中、極真と同じフルコンタクト(直接打撃)系の正道会館は、他流派の大会でも優勝者をあまた輩出する関西の雄として知られていた。
入門から2年後、後川は通いから内弟子になった。雑用は一気に増えたが、ネガティブな気持ちになることは皆無だった。
「だって明徳義塾のほうが厳しかったので(微笑)。内弟子になってからは強くなる、全日本王者になる、異種格闘技戦をやるという3つの目標を立てていましたね」
1989年7月2日、後川は願ってもない一戦に立ち合うことになる。東京で行なわれる『89年格闘技の祭典』で大仁田厚との異種格闘技戦に臨む空手家・青柳政司の応援部隊のひとりとして駆り出されたのだ。
『格闘技の祭典』とは『空手バカ一代』の原作者でもある梶原一騎の追悼興行として、実弟で作家の真樹日佐夫が中心となり88年から年に一度開いていた格闘技イベントだ。その中身は真樹が深く関わっていた空手やキックボクシングのみならず、プロレス、異種格闘技戦も盛り込むなど何でもありだった。
今でこそ格闘技とプロレスは異なるジャンルとして区分けされているが、当時はまだクロスオーバーしている時代だった。その受け皿として『格闘技の祭典』は格好の舞台だった。
このときの大仁田はFMWを旗揚げする直前で、好敵手を欲していた。そこで白羽の矢が立ったのが愛知県で空手道場を切り盛りしながら空手家として現役を続けていた青柳だった。プロレスが勝つのか? それとも空手が勝つのか? 奇しくも、ともにこれが異種格闘技のデビュー戦だった。
試合中、大仁田が青柳に対して思い切り反則をする場面を目の当たりにすると、リングサイドにいた後川は激昂した。
「何をやっているんや!」
大仁田と青柳が場外でやり合う中、セコンド同士も熱くなってしまい、リング上は大乱闘に。大仁田のセコンドには若手時代のスペル・デルフィン、邪道、外道らが就いていたが、後川は「殴り合いになってしまいました」と振り返る。
「ガチでやっていましたね」
後川にとっては、これが幻のプロレスデビュー戦だったのか。当時まだプロレスが何なのかが全くわからない純粋な少年だった。そうした中、格闘技とプロレスの違いを教えてくれる人がいた。ショックだったが、前を向くしかなかった。「真剣勝負で闘いたい」という揺らぎない信念を胸に抱いていたので、やることはひとつしかなかった。
「だったら僕は空手のほうで頑張ろう」
当時の正道会館は"K-1前夜"ともいえる過渡期で、年に一度開催の全日本選手権では1988年開催の第7回大会から闘う舞台を4本ロープに囲まれたリングとしたうえで、再延長からボクシンググローブ着用による顔面ありルールを採用していた。K-1のKはKARATEのそれでもある。旗揚げ5年前の正道会館のグローブ導入こそ、K-1のルーツと言えるのではないか。
筆者は90年大会から取材しているが、出場選手は正道会館勢にとどまらず、プロファイターにも門戸を開放していた。同年の大会にはシュートボクシングからのちに漫画『グラップラー刃牙』のモデルとなる平直行も出場していた。平のトーナメントの枠順は絶妙のマッチメークで、勝ち上がるにつれ強い対戦相手が用意されていた。
その流れはまるで映画『死亡遊戯』のクライマックスで主人公のブルース・リーが五重の塔を上がるにつれ強敵が待ち受けているシチュエーションと酷似していた。筆者は「やり方次第では真剣勝負でもこんな面白いマッチメークができるのか」と感銘を受けた記憶がある。
後川は「僕が初めて全日本選手権で優勝した90年、あるいは2連覇を達成した翌91年あたりから正道会館にはK-1みたいなものが始まっていくだろうという空気がありましたね」と言う。「だから僕はグローブ着用をすんなりと受け入れることができました」
92年1月には過去の回で記した『トーワ杯 第1回カラテ・ジャパン・オープン』が開催された。後川のトーワ杯への出場は翌年の第2回大会からとなるが、「第1回トーワ杯がある頃には、もう完全に顔面ありの試合を想定した練習をしていましたね」と言う。
しかし、後川にとっての試練はのちにK-1として結実するグローブ空手だけではなかった。時の流れに呼応するかのように、寝技や関節技を駆使する組み技格闘技の世界にも足を踏み入れていったのだ。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。