布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第19回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。
いつの日からだろうか、プロ格闘技はキックボクシングに代表される立ち技と、MMAを筆頭とする組み技に大別されるようになった。しかし、少なくとも90年代前半はそうではなかった。立ち技系と組み技系が激しくクロスオーバーする時代があったのだ。
93年2月28日、東京・後楽園ホールでスタートしたファイティング・ネットワーク・リングス主催の『後楽園実験リーグ'93 ROUND1』のメインイベントで行なわれた平直行(たいら・なおゆき)vs後川聡之(あとかわ・としゆき)はまさにそれだった。
漫画『グラップラー刃牙』の主人公、範馬刃牙のモデルとしても知られる、平のベースはシュートボクシング。一方、後川のそれは空手だった。ルールは大会名に"実験"と謳(うた)っているとおり、キックボクシングとリングスの混成ルールで争われることになった。
試合時間は3分5ラウンドで、1、2、5ラウンドはヒジ打ちなしのキックボクシングルール、3、4ラウンドはリングスルールと設定された。当時のリングスルールは、端的に言えばグラウンドでの顔面打撃なしの総合格闘技ルールで、スタンドの掌底はOKだった。現在のMMAが確立する前、総合格闘技「前」史のルールとしては非常にオーソドックスなものといっていい。
平vs後川の1年前に開催された『格闘技オリンピック』では、佐竹雅昭とモーリス・スミスの間で空手とキックで交互に闘う一戦が行なわれている。競技自体がクロスオーバーしていたからこそ、今でいうミックスルールが好まれる時代だったのか。
そもそも92年暮れから後川は東京・大久保のスポーツ会館(現・GENスポーツパレス)に顔を出し、その道の第一人者だった萩原幸之助からサンボを学んでいる。サンボとは旧ソ連で生み出された組み技格闘技で、柔道のようなジャケットを着用したうえで、投げ・関節技による一本、一本に準ずる投げや抑え込みによるポイントによって勝負を争う格闘技だ。のちにPRIDEヘビー級王者になったエメリヤーエンコ・ヒョードルのベースとなった格闘技としても知られる。
当時の後川といえば、90年と91年に所属する正道会館の全日本選手権で優勝していた。いわば団体の看板を背負ったトップである。にもかかわらず、なぜ対岸にあるというべき組み技格闘技をやろうと思ったのだろうか。
それは、もともと後川がプロレスラーになりたかったことに起因する。その夢は膨らむ一方で、平と混成ルールで闘うことで結実すると思ったのだ。
しかし、理想と現実のギャップは大きい。後川は当時を振り返り、「自分は要領を掴むのが下手なので、サンボの練習はメチャクチャしんどかった」と頭をかいた。「毎回練習が終わったら、サンボ衣が汗でビショビショになっていて、体重は2㎏も落ちていました」
打撃が基本の立ち技格闘技と、組むことが基本の組み技格闘技では使う筋肉が大きく異なる。その部分でも後川は苦しんだ。
「打撃を打つときには一瞬力を抜く。でも(サンボの)寝技だと掴んだら掴んだままじゃないですか。どこかで抜いたらいいんでしょうけど、キャリアが浅いのでそのタイミングがわからない。しんどいと思いながら、ガチガチでやっていました。おかげで練習の途中から腕の筋肉はパンパンだし、全身の筋肉がえらいことになっていました」
サンボはアキレス腱固めやヒザ十字固めなどの多様な足関節技に特徴がある。後川もその洗礼を受けた。「効きましたねぇ。あと僕にカニ挟みをかけた人がいたんですけど、その人は指導者に『相手は慣れていないんだから、かけたらいけない』と怒られていましたね」。カニ挟みとは両足で相手の足を挟んで倒す捨て身技で、危険なため柔道では禁止されている。
サンボだけではない。平戦が決まった時点で、後川は当時神奈川県にあったリングスの道場で2ヵ月ほど泊まり込みで練習することになった。その練習だけに専念できるならよかったが、後川は所属する正道会館東京本部の指導や他の出稽古も怠ることはなかった。
「夜に高田馬場にあった正道会館の道場の指導が終わったら、そのままリングス道場に行って寝る。朝起きたら、みんなと一緒に練習する。そして昼過ぎには(下北沢にあったキックボクシングの)山木ジムやスポーツ会館で練習する。それから夕方には正道会館に戻って指導をしていました」
リングスでは、サンボと違い掴むところのないグラップリングを初めて経験した。リングを使った練習も新鮮だった。その詳細について聞くと、後川は押し黙った後、「すいません。ほとんどもう記憶がボヤけていますね」と呟いた。「もうしんどかった記憶しか残っていない」
後川の記憶を補てんするために、リングスでの練習の模様を伝える『格闘技通信』No.82をめくると、後川がリングス道場で前田の指導を受ける記事がある。アキレス腱固め、腕ひしぎ十字固め、ケサ固めからのエスケープを徹底的にやっていたことがわかる。どの部位を極められることが多かった?
「あ~、それは首も腕も足もまんべんなくですね。とられてタップし、またとられてタップする。その繰り返しだったと思います」
やっていくうちに少しずつグラウンドの自分の形ができあがっていく感覚はあった?
「それは、ほぼなかったと思います。徐々に形にはなっていたかもしれないけど、自分では全然しっくりとはいかなかったので」
興味深いのは、試合前にもかかわらず平と後川は『格闘技通信』で対談を実現させ、後川のほうから深夜に平に電話するなど私生活では非常に仲が良かったことをまったく隠さなかったことだろう。信頼しあっているがゆえに、思い切り闘えるということか。その関係は昨今の格闘技エンターテインメントで見られる試合前の常軌を逸した乱闘劇とは正反対だ。
平vs後川は評判が評判を呼び、前売り券は発売1時間で完売したという。実はこの一戦にはもうひとつテーマがあった。ふたりの試合は、格闘家も闘うだけで生活ができるのではないかという希望の光でもあったのだ。今でこそ闘うだけで飯が食える格闘家はさほど珍しくないが、この時点では皆無に等しかった。その意味でも、この一戦の行方は期待されていた。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。