175cm、80kg台の小兵ながら、K-1の無差別の闘いに打って出た後川聡之 175cm、80kg台の小兵ながら、K-1の無差別の闘いに打って出た後川聡之

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第20回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながる1993年、格闘技界では何が起きていたのか――。

■3ヵ月連続、異なるルールでの真剣勝負

後川聡之(あとかわ・としゆき)にとって、1993年は最も忙しい1年だった。

1月31日は『第2回トーワ杯カラテ・ジャパン・オープン』に出場し3試合も闘った。準決勝では佐竹雅昭と同門対決を行ない、延長2回の末に判定負け。第3位に終わったが、もう一方のブロックからの決勝進出者は当時なにかと後川と比較されることが多かった金泰泳(きん・たいえい)だったので、表彰台は正道会館勢が独占した。

佐竹、金、後川の3ショットは、当時のグローブ空手の中での正道会館の際立った強さを象徴するワンシーンとして格闘技史に刻まれている。

続いて2月28日、リングスの『実験リーグ』で実現した平直行とのミックスルールマッチでは、慣れないリングスルールのラウンドでは逃げる場面が多かったが、ヒジなしキックルールのラウンドになると後川が試合を優位に進める展開もあり、引き分けた。

キックルールの第1ラウンドを終えリングスルールになった第2ラウンド、平の余裕を滲ませた微笑とは対照的に、後川の恐怖でひきつった形相が今も脳裏にこびりついている。現在のMMAとは違い、まだロープエスケープがある時代だったので、平のチョークによって後川は一度だけエスケープしている。前年開催の佐竹雅昭vsモーリス・スミスのミックスルール同様、内容的には名勝負にならなかったが、やったことに意義のある一戦だった。

リングス『実験リーグ』で平直行(左)と混成ルールで対戦(写真/東京スポーツ新聞社) リングス『実験リーグ』で平直行(左)と混成ルールで対戦(写真/東京スポーツ新聞社)

後川に休みはない。K-1前哨戦として開催された3月30日の『聖戦Ⅰ』ではメインイベントで、当時神秘のベールに包まれていた〝6冠王〟スタン・ザ・マン(豪州)との一騎討ちを実現させた。

K-1前哨戦で実現した「6冠王」スタン・ザ・マンとの一戦 K-1前哨戦で実現した「6冠王」スタン・ザ・マンとの一戦

試合が組まれた時点では「スタン有利」の声が圧倒的に多く、「この日は後川の命日」と心ないことを呟く関係者もいたが、後川は「たとえ転んでもただでは起きませんよ」と強気だった。

「この一戦を無謀ととるか、あるいは冒険ととるかと聞かれたら、僕は冒険をとる。これから僕のことを『格闘技界のドン・キホーテ』と呼んでください」

今でこそドン・キホーテは海外進出も果たすディスカウントストアのチェーン店として有名だが、元を正せば騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった主人公が冒険の旅に出るスペインの小説だ。

宣言どおり、後川はスタンと真っ向勝負を繰り広げ、後楽園ホールに集まった観客を何度もどよめかせた。結局、5回TKO負けを喫したが、決して評価を下げる内容ではなく、むしろ後川の高いポテンシャルを感じさせてくれる一戦だった。

それにしても、1月から3月まで3ヵ月連続で真剣勝負を行なっていたことには驚くしかない。しかも、いずれもルールが異なる環境での挑戦だっただけに、密度が濃く難易度の高い3連戦だったといえる。

そして記念すべき4月30日の第1回『K-1グランプリ'93』(代々木第一体育館)では平直行との再戦がエキシビションマッチで計画されていたが、このリマッチは幻に終わる。

同日、後楽園ホールでリングスの実験リーグが開催されることになっていたからだ。ややもすると興行戦争になりかねないが、当時正道会館とリングスは友好関係を保っていたので、正道会館が一歩引いた形だった。

■K-1開催1週間前、石井館長からの電話

しかし第1回K-1は、スタン・ザ・マンのドタキャンで急遽ピンチヒッターとして後川に本戦出場の大役が回ってきた。他の選手やマスコミにスタンの欠場が伝えられたのは、決戦3日前に行なわれた記者会見の席上だったが、後川は正道会館館長でK-1のプロモーター、石井和義から1週間ほど前に電話で、「スタンが欠場することになったので、モーリス・スミスと1回戦で闘ってくれ」と告げられたという。

空手の世界では目上の者からの指示に対し、「押忍(おす)」と答える習慣がある。後川もこの返事を頻繁に使っていたが、イントネーションによって「YES」「NO」「YESとNOのどちらでもない」という3種類の押忍を器用に使い分けていた。このときは迷うことなく、「YES」の押忍を発した。後川が当時を振り返る。

「1週間前だったのでビックリしてためらいもあったけど、どうせやるなら強い人間とやって、その強さがどんなものなのかを感じてみたい。もちろん怖さもあったけど、命まではとられないだろうと思っていました」

当時、後川の試合時の体重は85~86㎏。『トーワ杯』など日本国内の空手の大会では大柄の範疇だったが、ヘビー級ぞろいのK-1の中ではミドル級のチャンプア・ゲッソンリット(タイ)に次ぐ小兵だった。体格的なハンディを感じることはなかったのかと聞くと、後川は首を横に振った。

「(少年時代は)プロレスしか頭になかったので、基本は無差別級なんですよ。アントニオ猪木さんだって、自分より30㎝以上も高いアンドレ・ザ・ジャイアントと闘っていたじゃないですか。だったら自分もヘビー級のキックボクサーと闘っても大丈夫だと思っていました」

急遽代打出場した第1回K-1では、1回戦で優勝候補のモーリス・スミスに挑んだ 急遽代打出場した第1回K-1では、1回戦で優勝候補のモーリス・スミスに挑んだ

スミス戦でも後川は想像以上の頑張りを見せた。2ラウンド、スミスが放った左フックでグラつくも倒れない。想像をはるかに凌ぐタフさに大観衆からは拍手が沸き起こった。しかし続く3ラウンドになると、ついにモーリスの連打に捕まってしまい、左目を潰されてしまう。終盤には右ストレートでダウンを奪われ万事休す。大差の判定負けを喫したが、初めての顔面ありのワンデートーナメントに後川は手応えを感じていた。

「僕にとってはK-1も空手もそう変わらないものだった。なんとかなると思っていた。ただ、グローブを付けて叩き合うのは消耗度が激しかったですね」

その後は階級の設定に苦慮し、ここぞという大一番では勝利から見離された。10月3日開催の『カラテワールドカップ93』では、1回戦でジェラルド・ゴルドー(オランダ)やサム・グレコ(豪州)から勝利を奪ったが、準決勝でアンディ・フグ(スイス)に敗れ、話題は佐竹とアンディの決勝にさらわれた。

『カラテワールドカップ93』準決勝のアンディ・フグ戦 『カラテワールドカップ93』準決勝のアンディ・フグ戦

12月19日に開催の『K-2グランプリ'93』は制限体重が82㎏以下に設定されていたので、後川の本領発揮が期待されていた。1回戦で本職はホンモノのギャングというタシス・トスカ・ペトリディス(豪州)と激突。〝善戦マン〟というありがたくないニックネームを払拭しようと後川が奮闘したが、1Rに回し蹴りでダウンを奪われ初戦で姿を消した。

94年1月30日開催の『第3回トーワ杯カラテ・ジャパン・オープン』では決勝で金泰泳を破って初優勝を遂げたが、もう日本一になるだけでは世間が許さなかった。佐竹同様、後川は世界の頂(いただき)に登ることを期待されていたのだ。

95年7月16日開催の『K-3グランプリ'95』は制限体重75㎏以下だったので、後川にとってはK-2以上にベストウエートだと思われた。案の定、1回戦ではキース・〝ペレ〟・ネイサン(イギリス)に先制のダウンを奪われるも、ローキックの連打でネイサンの左足を破壊。判定勝ちを収めたまではよかったが、続くイワン・ヒポリット(オランダ)との準決勝では再延長の末、僅差の判定で敗れ去った。

K-1からK-3までの3大会に全て出場した選手は後川とチャンプア・ゲッソンリットしかいない。97年、後川は「できることはやり切った」と、現役を退く決意を固めた。

「肝臓の数値が上がったり、筋肉の張りが取れなかったり、もうこれは無理と思いました。自分で動いても伸びしろを感じられなくなってきた。カッコよく言えば、速球派の投手が変化球派に転向して生き延びるより、速球を投げられないなら辞めたほうがいい、と」

現在、後川は自ら興した東大阪の修道会館で子供たちに空手を教える日々を送る。そんな後川に「今、自分が17~18歳だとしたら、どんな格闘技を選ぶ?」と問うと、後川らしい答えが戻ってきた。

「やっぱり僕は空手ですね。メジャーとかマイナーとか関係なく、強さと共に道を追求できますから」

1993年のドン・キホーテの魂は今も生きている。

(つづく)

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布施鋼治

布施鋼治

1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。

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