2月24日のWBC世界バンタム級タイトルマッチに向け、アメリカと日本で多くのスパーリングを重ねてきた中谷潤人 2月24日のWBC世界バンタム級タイトルマッチに向け、アメリカと日本で多くのスパーリングを重ねてきた中谷潤人

現在、日本ボクシング界は7人の世界王者がひしめき、さらにこれから世界を狙う逸材も豊富にそろうなど、黄金期ともいえる時代だ。そんな中、異色のボクシング人生を歩んできたのが、2月24日(東京・両国国技館)、バンタム級に転向して世界3階級制覇に挑む中谷潤人(じゅんと=26歳、M.Tボクシングジム)だ。

中学卒業と同時に単身渡米し、今も日本とアメリカを行き来してトレーニングを積む中谷に、昨年末から密着取材した。(全5回の5回目)

■リモート撮影による師匠ルディの指導

2月12日――。ロサンゼルス合宿から帰国した中谷の練習を見るため、M.Tボクシングジムを訪ねた。ロスでは師事するルディ・エルナンデスの下、多いときで1日16ラウンド、1ヵ月間で146ラウンドものスパーリングを消化し、5日に帰国した。

練習は午前11時開始予定。M.Tジムの村野健会長からは当初、夕方からスパーリング予定と聞いていたが変更になった。これにはある理由があった。ロスのルディにスパーリングの様子をリモートで見てもらうためだった。時差は17時間なので、日本時間の午前11時はロスでは夕方6時になる。

スパーリング相手は日本ライトフライ級ユース王者、9戦9勝8KOで世界ランキング入りもしている坂間叶夢(ワールドスポーツボクシングジム)と、昨年度鹿児島国体で優勝(バンタム級)、全日本選手権で準優勝(バンタム級)したアマチュアの実力者、岡聖(駒澤大学3年)だった。実績ある2選手を相手にひとり4ラウンドずつ、計8ラウンド予定されていた。

「お疲れ様です」

練習開始15分前、中谷はいつものように弟の龍人マネージャーとふたりで現れた。試合前日、23日の公式計量まであと11日。リミットまではあと4kgだそうだ。身長172cmの中谷にとって53.52kgのバンタム級リミットは決して楽ではないだろうが肌艶は良く、スーパーフライ級から階級を上げたことで、本来のポテンシャルをより発揮できるのではないか。

軽く体を動かしてすぐリングに上がり、スパーリングを開始した。

最初の相手は坂間。ライトフライ級では驚異的なKO率を誇る選手らしい、力強いパンチとスピードで攻めてきた。プロデビューは2021年5月で、若干20歳にしてはかなりレベルの高い、将来が楽しみな選手だ。

龍人マネージャーがスパーリングの様子をスマートフォンで撮影。隣では一緒に帰国した岡辺大介トレーナーがルディからのアドバイスを伝えた。

「右サイドステップ!」
「ステップ、ステップ、身体は起こして1、2、3、サイド!」
「距離をコントロール!」

岡辺トレーナーは、普段はロス在住でルディと共に中谷を15歳のときから指導、サポートしている。

ルディからのアドバイスをリング上の中谷に伝える岡辺大介トレーナー ルディからのアドバイスをリング上の中谷に伝える岡辺大介トレーナー

中谷はリングを大きく使って動きつつ、場面に応じて細かなステップを刻んだ。渡米前のスパーリングで見た、右リードジャブを軸にして左を叩き込むスタイルとは大きく違う戦法だった。

攻撃をかわし、隙を見つけては距離のある位置から飛び込むようにして鋭いパンチを打ち込んだ。リズム良く攻守を切り替える姿は、コロシアムで華麗に舞う闘牛士のよう。赤い布で闘牛を翻弄し、最後に剣でとどめを刺す。そんなふうに思えた。

 スパーリングで相手を翻弄する中谷 スパーリングで相手を翻弄する中谷

4ラウンドが終了し、すぐさま2人目に交代。アマチュア全日本準優勝の岡がリングに上がる。一転、中谷は相手を懐に誘い込み、時には膝を落として岡よりも低い位置から左アッパーを突き上げるなど接近戦を挑んだ。テンポアップした2ラウンド途中、岡が鼻から出血した。パンチを打ち込むたび中谷の白いシャツは返り血に染まった。スパーリング終了後、岡はこんな感想を話した。

「僕はアマチュアボクシングをしているので、テンポの良さで、相手のペースにさせずに戦おうと考えていました。でも、予想以上にパンチが強くてやられてしまいました。遠い距離のうまさは想定内でしたが、近い距離の身体の使い方もうまくて、対応が難しかった。近い距離でも怖いし、遠くからも強いパンチを連続して打ってくる。こちらが攻撃しても、打たれる位置にいない。アッパーも見えない位置からとんでくるので、それが嫌でした」

大学卒業後はプロ転向を予定している岡は、出血しながらもパンチを打つたびに声を出して、自分を鼓舞し最後まで戦い抜いた。「技術の引き出しの多さ。場面に応じた判断と実行力が勉強になりました。(将来プロ転向に向けて)貴重な経験になりました」と言う。

相手が出血し、パンチを打ち込むたびに中谷のシャツに返り血が飛んだ 相手が出血し、パンチを打ち込むたびに中谷のシャツに返り血が飛んだ

スパーリング終了後、中谷はこう話した。

「『リングを大きく使って動く』ということは、今回の試合に限らず大切にしています。相手が追いかけてくるならばあえて追いかけさせる。ロープに詰まるような場面では、今度は少しずつ横に動いて、アングルを変えて攻撃を仕掛けました。

坂間選手は、動体視力の優れた選手なので、遠い距離からいろいろな種類のフェイントをかけて、リーチ差を生かしてパンチを打つ。足も使って飛び込んで打ち込むことを意識しました。岡選手は、アマチュア選手ならではの動きの速さ、パンチを当てる技術だけでなくて気持ちも強いファイターでした。でもその勢いに付き合うのではなく、ガードでしっかり攻撃をブロックした上でパンチを入れることを意識しました。

(2月24日の相手であるアレハンドロ・)サンティアゴもそうですけど、機動力ある選手に合わせて殴り合いになると、自分のスタイルが崩れてしまう。そのあたりはしっかりブロックで対応しながら、攻撃のポイントをこじ開けることが大切です。相手を誘って、動かしてパンチを打たせて、外して、入ってくるタイミングを狙って一発当てればいい。でも、それができなかった場合も想定して、違う引き出しを選択することも想定して練習しています。今日はそのあたり、うまく対応できたかなと思います」

リングで対峙した相手の特徴を感覚でつかみ、それに合わせて自分のペースをつくって対応できる。それは15歳からロスでスパー三昧の日々を過ごし、技術の引き出しをたくさん持ち、あらゆるスタイルの戦い方、オールラウンドに対応できる技術を身につけた中谷ならではの強みだ。

弟の龍人マネージャーにも話を聞いた。龍人マネージャーはルディから「今のうちに伝えられることはすべて伝える。でもいずれお前がコーチとしてジュントをしっかり支えていかなければいけない」と期待されている。今回のロス合宿では、「ジュントのスタイルは、いろいろなことができてどんなことにも対応できるボクシング。次のサンティアゴ戦に限らず、毎回、追い求める完成形にどれだけ近づけるかどうかが大切だ」と言われたそうだ。

弟の龍人マネージャーには厚い信頼を寄せている 弟の龍人マネージャーには厚い信頼を寄せている

■「ジュントは俺の孫だ」

今回のロス合宿で、中谷にはまたひとつ大切な思い出ができた。

滞在中、ルディの父、ロドルフォが91歳の誕生日を迎え、50人以上集まったファミリーや友人らと一緒に祝った。初めてロスで暮らし始めた15歳のとき、中谷はロドルフォの家に暮らし、毎日ジムまで送迎してもらっていた。

「当時すでに80歳くらいですね。とてもパワフルで陽気で、いつも口笛を吹いているようなおじいちゃんなんですけど、本当に助けられながらここまで強くさせてもらったな、という思いがあります。

誕生日パーティーでは僕をそばに呼んで、みんなに僕のことを『日本から来てここで練習して世界チャンピオンになった俺の孫だ』と紹介してくれて、『15歳のときから面倒を見ているんだ』と嬉しそうに話していました。自分のことを誇らしく思ってくれているのだなと思い、とても嬉しかったですね。

日本だけでなく、アメリカにもファミリーがいることは本当に心強い。世界で戦っていく上で、いつも見守ってくれる人たちがいることは僕の活力になっています。ルディ、おじいちゃん、ファミリー、みんなのおかげで、ボクシングの技術だけでなく心も成長させてもらえた。自分にとってロスは、いろいろな意味で原点の場所です」

昔から極度の病院嫌いだったロドルフォは、左脚の血行不良を「気持ち次第」と長年放置していたせいで病状が悪化。昨年末から入院し、医師からは「左脚を切断するしか命の保証はできない」と宣告された。それでも「これが俺の寿命だ」と切断を拒否していたそうだが、ルディら家族に説得されて手術を受け、91歳の誕生日を迎えることができた。

91歳を迎えた〝おじいちゃん〟ロドルフォと(M.Tボクシングジム提供) 91歳を迎えた〝おじいちゃん〟ロドルフォと(M.Tボクシングジム提供)

龍人マネージャーによれば、手術を頑なに拒否したロドルフォにルディは、「『親父はヘナロに頑張れと言って病気と戦わせたのに、自分は諦めるのか』とかなり強い口調で責め立てた」という。ヘナロとはルディの弟で、病により45歳で亡くなった元世界王者、ヘナロ・エルナンデスのことだ。

「ルディもロドルフォも、お互い思ったことはストレートに伝えるので、普段から些細なことでも意見がぶつかり激しく言い合うことも多い」そうだが、弟ヘナロや父ロドルフォとの逸話を聞いて龍人マネージャーは、ルディはファミリーを心から大切にし、深い絆で結ばれていることを実感した。

昔から憧れていたというWBCの緑のベルト獲得を目指して、初めて挑戦者という立場で臨む試合まであと12日(2月12日取材時)。帰国後もすでにこの時点で46ラウンドこなしていたが、実戦形式の練習は直前まで続ける。

「WBCのバンタム級のベルトは、ファイティング原田さんに始まって、これまで名チャンピオンと呼ばれるような日本人ボクサーが腰に巻いてきました。僕がそのベルトをかけて挑戦させていただけることに感謝して、しっかりと結果を残してお世話になった方々に良い報告がしたい。まだまだ成長できると自分自身にも期待しているので、24日は結果で恩返しをして、さらに上の舞台を目指していきたいと思います」

決戦まであとわずか。減量の苦しい時期にもかかわらず、昨年末に初めて取材したときと変わらず穏やかな口調で取材に応じ、ジム仲間にも丁寧に挨拶をして中谷はジムを後にした。

中谷と王者サンティアゴ(撮影/ヤナガワゴーッ!) 中谷と王者サンティアゴ(撮影/ヤナガワゴーッ!)

2月23日――。

東京ドームホテル内で行なわれた公式計量。中谷はバンタム級リミットより200g軽い53.3kgでクリア。先に計量を終えた王者サンティアゴと握手を交わして、お互いの健闘を誓い合った。

会場を後にして部屋に戻る途中、廊下で大勢の記者に囲まれた。スタッフから手渡された経口補水液を少し口に含んで喉を湿らせた中谷は、囲み取材にも丁寧に応じた。

「(明日は)自分の中でもターニングポイントになるような試合。より期待してもらえる、よりビジョンを持ってもらえるような戦い方をすれば、もっと未来は開いていくと思います。明日はそこも自分自身に期待をして挑みたいと思います」

自分はなぜ戦うのか――。

ボクシングを始めた頃から自問し続ける答えを探すため、中谷はプロ通算27回目のリングにまもなく上がる。

■中谷潤人(なかたに・じゅんと)
1998年1月2日生まれ、三重県東員町出身。M.Tボクシングジム所属。左ボクサーファイター。2015年4月プロデビュー。2020年11月、WBO世界フライ級王座獲得。2023年5月にはWBO世界スーパーフライ級王座を獲得し2階級制覇達成。26戦全勝19KO。2月24日、東京・両国国技館にてアレハンドロ・サンティアゴ(メキシコ)の持つWBC世界バンタム級王座に挑戦する

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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