九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。
つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は昭和のレジェンドたちと実際に一緒にプレーをして、その実力を肌で感じていた松岡に、彼らがもしメジャーに行っていたら活躍できていたのかどうかを尋ねてみた。
■もしONがメジャーでプレーしていたら
2001年にイチロー(シアトル・マリナーズなど)と新庄剛志(サンフランシスコ・ジャイアンツなど)が海を渡り、2003年に松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキースなど)がそれに続いた。それから20年以上が経ち、昨年2023年には大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス→ロサンゼルス・ドジャース)が日本人として初めてホームラン王を獲得した。
「昔は日本人選手がメジャーリーグでプレーするなんて夢のまた夢。ルール的に難しかった。同じプロ野球選手の僕たちも、『長嶋さんや王さんがアメリカに行ったらどれくらい活躍するんだろう』と思っていました。
王さんの打撃技術をもってすれば、かなりの数のホームランを打ったんじゃないかと思います。長嶋さんがどれくらいの数字を残せたかは想像もつきませんが、本場のファンの心をつかんだことは間違いない。あの躍動感とスター性はアメリカでも認められたはずです」
王貞治(左)と長嶋茂雄(写真:時事)
打撃力はもちろん、ふたりとも走力があり、守備にも定評があった。
「メジャーリーグでもやれるんじゃないかと思ったのはそのふたりですね」
誰もが認める通り、王・長嶋が1960年代、70年代のプロ野球を代表する最高のプロ野球選手だったことは間違いない。
「時代があまりにも違い過ぎるので単純な比較はできませんが、今、大谷だけじゃなくて、吉田正尚(ボストン・レッドソックス)、鈴木誠也(シカゴ・カブス)がメジャーリーグで活躍できるのは、長嶋さん、王さんをはじめ偉大な先人たちがいたからです。選球眼や勝負強さ、チームに対する献身、日本選手の特性を生かした打撃は、彼らにも受け継がれていると思います」
■杉浦のカーブに腰が引けてノムさんに笑われる
初めて日本人でメジャーリーガーとなったのは村上正則(1944年生まれ。南海ホークス、サンフランシスコ・ジャイアンツなど)だが、1995年に時代の扉を開いたのは野茂英雄(近鉄バファローズ→ロサンゼルス・ドジャースなど)だった。彼がいなければダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)や大谷、山本由伸(ロサンゼルス・ドジャース)がアメリカでプレーすることはなかったかもしれない。
「昭和の時代、のちにメジャーリーガーになる日本人選手に負けないピッチャーはたくさんいました。金田正一(1933年生まれ。国鉄スワローズなど)と対戦したこともあります。もう選手としては晩年でしたが背が高くて(身長185センチ)、2階から投げ下ろされるように感じたものです。
この人はすごいと思ったのは杉浦忠さん(1935年生まれ。南海ホークス)ですね。オープン戦で対戦したんですが、アンダースローから投げるストレートが速くて、カーブの曲がりがすごい。思わず腰を引いて逃げたら、キャッチャーの野村克也さんに笑われてしまいました」
杉浦忠(写真:時事)
杉浦は立教大学時代に、チームメイトの長嶋とともに一時代を築いた。南海に入団後の3年間で96勝を挙げている(1959年は38勝4敗。通算勝利数は187)。
「私が対戦したのは、現役を引退される少し前のこと。全盛期がどれだけすごかったことか。想像できません」
アンダースローと聞くと技巧派をイメージするが、杉浦は真っ向勝負が信条だった。
「阪急ブレーブスで通算284勝を挙げた山田久志(1948年生まれ)さんのストレートも速かったけど、杉浦さんのほうが上だったと思います」
■かつての大投手とメジャー投手との共通点
また、当時の各球団のエースは"魔球"とも言える変化球を持っていた。
「通算320勝の小山正明さん(1934年生まれ)は、揺れながら落ちるパームボールを3種類も投げていました。バッターが必死に食らいつこうとしても、まともにミートできない。1973年に大洋で一緒にプレーした時には『次、パームだぞ。バッターが詰まるから気をつけろ』と教えてくれました。それで、計算通りにゴロを打たせていましたね。
大洋のエースだった平松政次(1947年生まれ)のシュートは切れ味抜群で、対戦相手が嫌がるのが守備位置にいてもよくわかりました」
当時、松岡が苦手としていたのが、サウスポーの高橋一三(かずみ、1946年生まれ。読売ジャイアンツなど)だ。
「最近の選手で言えば、山本昌(元中日ドラゴンズ)みたいな癖のあるフォームで、スクリューボールを得意としていました。コーチに『打つな!』と言われても、どうしても手が出てしまうんですよ」
同じサウスポーで印象に残っているのは、通算300勝を挙げた鈴木啓示(1947年生まれ)だ。
「リーグが違うので、オープン戦でしか対戦していませんが、ヒットを打った記憶があります。体も大きくて(181センチ、86キロ)ボールに力があったし、コントロールが抜群でした。時間があればとにかくよく走っていたと聞きます」
150キロのストレートと魔球を駆使して、堂々と勝負を挑む昭和の投手たち。それに加えて、コントロールのよさと落ち着いたマウンドさばき、巧みなフィールディングは、日本人メジャーリーガーに共通するものだ。
ダルビッシュ有、大谷翔平など、190センチを超える大型投手たちも、日本プロ野球で一時代を築いた投手たちの長所をしっかりと受け継いでいる。
第7回へつづく。次回配信は2024年3月9日(土)を予定しております。
■松岡功祐(まつおかこうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。