2012年のロンドン五輪では、競泳男子200mバタフライで当時世界最強といわれた怪物、マイケル・フェルプス(米国)に肉薄。日本代表チームの主将も務め、長きにわたって日本競泳界を牽引した松田は現在、JOC理事・アスリート委員長ほかさまざまな役職を務め、日本のスポーツの普及と発展に力を注ぐ
多くの感動と課題を残して閉幕した東京五輪2020大会から3年。今年また、五輪イヤーがやって来た。
2004年のアテネ大会から4大会連続で五輪に出場し、うち3大会で計4つのメダルを獲得した日本競泳界が誇るレジェンド・松田丈志がアスリートの視点で、そしてアスリートを支えるさまざまな活動をしている現在の立ち位置で、日本のスポーツ界が抱える問題を考察。読み手を<手ぶらでは帰さない>、そんな連載を目指して――。
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東京五輪2020大会の開催が決まったのが2013年。自分が選手として出場できる可能性は低いと感じながらも、自国開催の五輪というだけで胸が高鳴る思いでした。プロリーグのない競技にとって、五輪は最高の舞台です。4年に一度、世界中の選手がそこに向けて本気で準備をしてきます。
私にとっても五輪は子供の頃からの憧れで、まさに人生をかけて挑戦してきた舞台でした。五輪という目標があったから長年競泳と向き合うことができたし、強くなるために試行錯誤し、課題を克服するその過程でさまざまな人との出会いがあり、今の自分が形成されてきたと思っています。
東京2020大会は、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるった世界的なパンデミックの中、1年の延期を経て2021年に開催されました。〝バブル方式〟といわれる感染対策が敷かれ、無観客試合になるなど、多くの制限がある大会になりました。
また、コロナ以外にも多くの問題に直面しました。メインスタジアムの建て替え、公式エンブレムをめぐる盗作疑惑、組織委員会トップの交代、開閉会式の演出チームをめぐるトラブルも相次ぎました。予算も当初より大幅に増加し、大会後には汚職や談合も明らかに。五輪とお金の問題はより後味の悪いものとしてクローズアップされました。その影響で、2030年冬季五輪の札幌招致も昨年10月に断念するに至りました。
目に焼きついている光景があります。東京2020大会後、まだ札幌招致活動が推進されている頃のことでした。私が日本オリンピック委員会(JOC)を訪ねた際、ビルの入り口に札幌招致反対を訴える人たちが集まり、横断幕を掲げ、叫んでいました。自分が人生をかけて勝負してきた五輪の自国開催に反対している人たちの前を、私は俯きながら歩きました。
私は考えました。なぜこんなに批判されるのだろう。誰にも文句を言われない状態で五輪を開催することはできないのだろうか。例えば、「税金を使わない五輪」を開催することは、本当に不可能なのだろうか、と。
五輪開催を考える上で問題となるのは、(汚職や談合など取引上の不正は言語道断ですが)巨額の開催経費がかかるということです。東京2020大会にも、膨大な公的資金が投入されました。その内訳は組織委員会が6404億円、東京都が5965億円、国が4668億円で、全体の62%が公費(税金)で賄われました。税金の割合が多いほど多くの人に利害関係が及ぶため、五輪開催の意義やビジョンは広く国民に共有・理解される必要があります。
では実際、東京2020大会のビジョンは広く国民に理解され、達成できたのでしょうか?
東京2020大会のビジョンは、
スポーツには世界と未来を変える力がある。
1964年の東京大会は日本を大きく変えた。2020年の東京大会は、
「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」、
「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」、
「そして、未来につなげよう(未来への継承)」を3つの基本コンセプトとし、
史上最もイノベーティブで、世界にポジティブな改革をもたらす大会とする。
と掲げています。
素晴らしいビジョンですが、これらの抽象的な言葉は大会の成功を具体的に定義する難しさがあり、東京2020大会でこのビジョンが具現化されたかどうかは明確に答えが出ないと感じています。
五輪をひとつのエンターテインメントと定義したときに、現代の日本にはほかにも多種多様なエンターテインメントが存在しています。その現状において、多額の公的資金投入を国民に納得してもらえる、そんな五輪開催の意義やビジョンを掲げるのはもはや難しいと私は思っています。
東京五輪2020大会の閉会式にて。「観客のいない五輪は、私が子供の頃から憧れ、経験してきた舞台とは異なる印象を受けました」と、松田は複雑な心境を吐露した
公的資金を使わずに開催し、興味のない人にはなるべく負担をかけず、アスリートはその自立した舞台で堂々とプレーする――そうした五輪が、実は40年も前に実現しています。
1984年のロサンゼルス五輪は、五輪が商業化された最初の大会として有名ですが、公金を使わずに約2億1500万ドルの黒字を達成した大会でもあります。
主導した南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)のトップであったピーター・ユベロス氏は、公募によって選ばれた会長として知られています。公募の条件は、40歳から55歳であること、南カリフォルニア在住、起業経験者で、スポーツ愛好者であること、経済的に独立していること、そして国際情勢に通じていることの6つでした。
ユベロス氏は、五輪の資金源としてテレビ・ラジオの放送権料、スポンサー協賛金、グッズ製作と販売、入場料、聖火リレー参加料などを挙げ、これらの収入を最大化する一方で徹底的なコスト削減策も実施しました。
競技会場は既存の施設を活用し、新設は必要なものに限定され、選手村は大学の学生寮を活用するなど経済的な効率を重視しました。その結果、ロサンゼルス五輪は黒字で幕を閉じました。
この成功の要因を考えると、資金源の適切な活用と徹底的なコスト削減が重要であったといえます。翻って東京2020大会はどうだったのか。東京2020大会では、結果的に多くの競技会場が新設されました。新設された施設や競技会場の整備や運用は今後、国民と都民が長期にわたって背負うことになります。
また、コストを抑えるには日本の組織委員会と、大会開催の権利を持つ国際オリンピック委員会(IOC)との交渉も重要になります。IOCと対等に交渉ができなければ、「五輪開催に必要なもの」と要求されるままにコストが増え、組織委員会側が考えたとおりの大会にはなりません。実際に東京2020大会でもマラソンコースが東京から札幌に変更になり、女子はスタート時間も直前に変えられたという経緯があります。
ロサンゼルスでは2028年に3度目の五輪を控えていますが、今回も税金は使わずに開催する意向です。1984年の五輪で使われたメインスタジアムも再び使用される計画で、すでに改修工事は完了しています。そのほか、地元プロスポーツチームの本拠地施設や大学の施設を活用することでコストを抑えます。ちなみにプールは、南カリフォルニア大学の野球場に仮設プールを建てる計画となっています。
4回目の五輪となった16年リオデジャネイロ大会では、日本競泳界最年長となる32歳での出場を果たし、4×200mフリーリレーで52年ぶりのメダル獲得に貢献。有終の美を飾った。五輪の苦しさも、素晴らしさも、誰よりも知る松田だからこそ、人々に愛され、選手が誇りを持って挑める最高の舞台であってほしいと強く願っている
私は五輪が好きです。アスリートにとって憧れの舞台であり続けてほしい。しかし、無駄なお金の使われ方をする五輪はもう終わりにしてほしいと願っています。
競技会場だってフェアな状況ならそれでいい、贅沢は言わない。五輪が次世代のアスリートの夢の舞台であり続け、応援され続けるためには、かつてロサンゼルス五輪で示したように、五輪が公的資金を使わずに黒字化することを成功とし、興味のない人には極力負担をかけず、アスリートは胸を張ってその舞台でパフォーマンスを発揮し、五輪ファンやスポーツファンが心から楽しめる大会となることが必要なのではないでしょうか。
日本での五輪開催は多くの公的資金に支えられてきました。その方法を変えることは容易ではありません。しかし、前例がある以上、知恵と工夫によって目指すことはできると思うのです。