現役引退を発表した希代のファンタジスタ・松井大輔 現役引退を発表した希代のファンタジスタ・松井大輔

またひとり、日本を代表するテクニシャンがスパイクを脱ぐことになった。松井大輔(42歳)である。ひとたび球を持てば、奇想天外なプレーの連続、スタジアムが沸き、相手は驚嘆するしかなかった。そんな"芝の上の魔術師"だった彼が明かす、引退の真相、キングカズからの言葉、そして涙の2010年W杯南ア大会――。

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■引退の契機は、大学生からの股抜き

「きっかけは、昨年の秋に大学と練習試合をやった時でした。マッチアップした学生さんが僕の股を抜こうとしてきたんです。しかも一度だけじゃなくて、二度も。舐められたもんだなぁって。股を抜かれるなんて、サッカー選手にとって最大の屈辱ですからね。僕はずっと相手の股を抜いてきたのに、それが抜かれる側になってしまった。

以前ならば、すぐに追いついてスライディングして球を奪い返すことができたんですよ。その時も意地で奪いに行ったけど、どこか諦めの感情が芽生えてしまって......。初めてでした、そんな気持ちになったのは。大学生に股を抜かれそうになった僕はもう僕じゃない。これはもう限界だと」

独創的なドリブル、意表を突いたパス、度肝を抜くようなシュート。幾度となく観る者の心を躍らせてきた松井大輔が2月20日、自身のインスタグラムのライブ配信で電撃的に引退を発表した。

15年、同い年の鈴木啓太が現役引退を発表した際、即座に松井へ連絡を入れたところ、「寂しい、泣けてくる。でも、俺はまだ続けるよ」と決意表明のように返信してきた。

以後8年間、さらに彼は戦い続けた。だが、終わりは必ずやって来る。それがアスリートの宿命である。昨年12月8日、所属先のY.S.C.C.横浜(J3)からは契約満了の発表が出された。21年から二刀流で活動してきたフットサルにも終止符を打った。

サッカー選手であれば、スタジアムのピッチ上で引退を発表、家族も呼び寄せて、セレモニーを行うのがスタンダードだ。だが、松井はインスタライブというトリッキーな選択をした。

参加者は10年W杯南アフリカ大会で3トップを形成した本田圭佑と大久保嘉人(21年引退)。そして、プライベートで親交のある元レスリングの女王(19年引退)、吉田沙保里である。

「気心知れた仲間、そしてSNSでフォロー、応援してくれている皆さんに『お疲れ様』って言ってもらいたかったんですよね。嘉人や圭祐は戦友。沙保里さんは、嘉人も含めて共通の友人が多くて。引退発表の前日も一緒にゴルフをしてたんですよ。

で、明日インスタライブやるから、交ざりません?って言ったら、快諾してくれて。興味を持ってくれた外部の人もSNSだったらパッと入ってこれるじゃないですか。今はこうして便利なツールがあるわけだから、使わない手はないなと。

ただ、圭祐にはライブで10分ぐらい絡んでくれればうれしいと言っておいたのに、なぜかスイッチが入っちゃって、"圭祐節"が炸裂しちゃったのは想定外で参りましたけどね(笑)」

18年、横浜FC在籍時に三浦知良(左)とともに。師と仰ぐキングカズとの関係は、プロ生活をスタートさせた00年の京都入団から続く 18年、横浜FC在籍時に三浦知良(左)とともに。師と仰ぐキングカズとの関係は、プロ生活をスタートさせた00年の京都入団から続く

■キングカズからもらった奇抜な言葉

引退を惜しむ声は当然ながら多かった。松井が幼少期からずっと背中を追い続け、公私ともに師と仰ぐキングカズこと、三浦知良(ポルトガル2部・UDオリヴェイレンセ)もそうだ。

「カズさんに真っ先には引退を伝えなかったんです。きちんと自分で結論を出して、正式に発表すると決めてから電話しました。そしたら、『俺はお前の引退を認めないよ。とりあえず、5月まで待ってろよ。俺が帰国するから』と。

いやいや、カズさん、僕はやめるって決めたんですよって返したら、『おまえは俺にパスもアシストも出してないだろ。それをやらないと引退なんてできないと思うんだよな』って。

ナナさん(名波浩・日本代表コーチ)も『引退を認めない』って言ってくださって、やっぱり先駆者というのは言葉選びが独特だなって、感心させられましたね。

今まで、自分の分岐点となるところでは必ずカズさんに相談していたんです。岡田(武史・JFA参与)さんや俊さん(中村俊輔・横浜FCコーチ)からもずいぶんアドバイスを頂いて助けられたけど、カズさんは非常に的確で。

例えば、03年に京都がJ2に落ちて、神戸からオファーをもらったとき、先に神戸へ移籍したカズさんに相談したら、『お前はお前の道を選んだ方がいい。(試合に)出れるチームが一番だから』と。18年にポーランド2部(当時)のオドラ・オポーレから横浜FCに移籍できたのもカズさんのおかげです。

それと21年、フットサルに転向しようと考えた時も『面白いじゃない。大輔、やりなよ』と背中を押してくれました。カズさんは僕にとって今までも、そしてこれからもずっと偉大な王様なんです」

■24年のプロ生活で最も印象的な試合

00年、京都パープルサンガ(当時)で始まったプロ生活は24年に及ぶ。およそ四半世紀の中で最も印象に残っている記憶を尋ねたところ、松井は即座に答えた。

「コマ(駒野友一)との、10年W杯南ア大会での決勝トーナメント一回戦、パラグアイとのPK戦で負けた時の場面ですね。ゴールされたわけではないし、あの試合だけは、今でも負けたという感覚がないんです。

でも、コマが外して、結局負けてしまって(PK3-5)。頭の中が真っ白になって、吸い寄せられるように泣きじゃくるコマの方へ無意識に向かっていって。

(中澤)佑二君がコマの頭をポンポンと叩きながら『大丈夫、大丈夫』って声をかけたのは覚えています。僕は......『コマ、帰ろうぜ』って声をかけたのかな。そこからはずっと無言でした。

あの大会のメンバーでいえば、コマと阿部(勇樹)ちゃんは同じ年で小6からの付き合い。幼馴染なんです。それが小さいころから憧れ続けてきたW杯へともに出場できたわけで。

合宿地でも大会期間中でも食事は基本的に彼らと卓を囲んでいたし、ずっと一緒だった。その親友がああいう結果を招いてしまったわけだから、自分も本当にわれを失ってしまいました」

ベスト8に近づいた瞬間、それは前半22分の時点で訪れた。駒野からの右クロスが入り、こぼれ球を拾った松井はすかさず右足で振り抜いた。シュートはバーを直撃。結果、ゴールには至らなかった。

「たらればの話はあまりしたくないけど、あのシュートは平地だったら入っていたと思います。というのも、試合会場のロフタス・ヴァースフェルド競技場は高地にあって(海抜1333mの首都プレトリアに位置)。

気圧の関係で、ボールが変に伸びてブレブレになるから、クロス一本上げるのにも感覚が非常につかみにくかった。本当、あれは決めたかったですね」

8強に最も近づいた10年W杯・パラグアイ戦はPK戦に突入。幼なじみでもある3人目のキッカー駒野(左)が外し敗北。寄り添う松井の姿に日本中が涙した 8強に最も近づいた10年W杯・パラグアイ戦はPK戦に突入。幼なじみでもある3人目のキッカー駒野(左)が外し敗北。寄り添う松井の姿に日本中が涙した

■すさまじい圧を感じた忘れられないDF

一方で、自身のベストゴールについては2本あるという。

1本は横浜FC在籍時代。19年7月27日のJ2第24節、アウェーのジェフユナイテッド千葉戦。DF北爪健吾がロングスローをペナルティーエリア中央へ。ニアサイドの競り合いでワンバウンドしたボールを決めた逆転弾だ。38歳にしてなおも技術の高さを示した会心の一撃だった。

「あのオーバーヘッドは、やっぱり忘れられないですね。スーパーゴールというのは、自分が所属するクラブで輝いた"証し"だと思うんです。ましてや、それが自分にとって思い入れの深いクラブであればなおさらです」

そして、もう1本は松井が第二の故郷と言い切るル・マンでの超人的なシュート。04年に移籍、1部昇格へ導いた立役者として"ル・マンの太陽"と称されるまでになった彼は07年8月26日、アウェーのモナコ戦でヒールボレーを決めた。フランスのリーグ・アンだけでも通算148試合・17ゴールを記録している。

「ル・マン時代(04~08年)は、怖いものなしでしたね。最低でも一人は必ずドリブルで抜く。誰でも来いという感じ。絶対に抜けるという自信もあったし。サッカーをしていて、すごく楽しかった。

07年8月26日、ル・マン(当時)のエースとなっていた松井はアウェーのモナコ戦において伝説のヒールボレーシュートを決めた 07年8月26日、ル・マン(当時)のエースとなっていた松井はアウェーのモナコ戦において伝説のヒールボレーシュートを決めた

今回、引退を表明した際、フランスのメディアでも取り上げていただいて、フランスのファンからもメッセージをたくさんいただいたのは本当にうれしかったですね。特にル・マンの黄金期を支えることができたのは本当に光栄なことだし、そういう歴史を地元の皆はちゃんと覚えていてくれるんですよ。

振り返れば、中3で初めて海外へサッカー留学をした先がパリ・サンジェルマン、02年トゥーロン国際大会では3位入賞とベストエレガントプレーヤー賞、03年のコンフェデレーションズ杯でA代表デビューと、いずれもフランスでのことなんですよ。やはり縁を感じずにはいられないです」

対峙した相手で忘れられないプレーヤーもいるという。

「マツさん(松田直樹)ですね。絶対に抜かせないという圧がすさまじかった。それに、ボールが奪える自分の間合いに持ち込むのがうまかったです。グッと前に出て詰めたり、自分のゾーンにおびき寄せたり。

僕なんか当時18歳の生意気な小僧だったんで、試合そっちのけでわざとマツさんに1対1を仕掛けていって。絶対に抜かしたるっていう。ずいぶん成長させてもらいました。その後、五輪やW杯、世界の各地でいろんなDFと対峙したけど、マツさんは特別な選手でしたね」

■天才ドリブラーが考える第二の人生と展望

くしくも、今年は松井が縁を感じるというフランスでパリで五輪が開催される。セカンドキャリアを歩み始めた彼の中には日本サッカーのためのさまざまなアイデアがほとばしり、実現に向けてすでに動いているものもあるという。

「パリ五輪には通訳でもいいから、代表スタッフとしてぜひ連れていってほしいです。フランスの事情を知り、土地勘のある人間がいた方が何かとスムーズではないかと。

それに、僕が今後やりたいのはポジション別の、技術に特化したコーチです。野球であれば打撃コーチや守備走塁コーチ、アメフトならばQB(クオーターバック)コーチやLB(ラインバッカ―)コーチなどがいるわけじゃないですか。

だったら、サッカーもまたドリブルコーチやMFコーチなどがいてもいいのではないかと。山本(昌邦・JFAナショナルチームダイレクター)さんや反町(康治・JFA技術委員長)さんには進言しています。

ドリブル技術だったら、小学生の段階でいろんなバリエーションを教える。たとえば、いつも歩くときは右足から一歩踏み出すといった具合に、ドリブルも足のアウト部分で触れてから右に行くという子がいたとして、その癖が定着する前に、左右両足を使ったさまざまなドリブルを教え込む。引き出しをいくつも持った上で、その先は自分の感覚と経験で得意なドリブルを選べばいいというわけです。

僕は小さい頃から感覚的にドリブル技術を身につけてきましたが、フットサルの世界で理論的なドリブルがあることを知って学べたこともあり、両方を持ち合わせた方がより良いという結論に達したんです。

以前、対談させてもらった三苫 薫選手(英・ブライトン)も大学の卒業論文でドリブル研究をまとめて、それを今、世界最高峰のプレミアリーグで活かしている。素晴らしいですよね。

サッカーの裾野を広げて、アスリートと研究者、企業をつなげたり、開発に従事したり、スポーツ科学の分野をより発展させる手伝いをしていきたい。現役時代を忘れて夢中になれるものを作っていきたいですね」

スパイクは脱いだ。だが、マインドは早くも次に向いている。松井大輔に引退したことへの後悔や寂寥感はみじんも感じられなかった。これから先、どんな仕掛けを見せてくれるのか。フィールドの外でも意外性のあるアクションに期待したい。(文中敬称略)

●松井大輔(まつい・だいすけ) 
1981年5月11日生まれ、京都府出身。鹿児島実業高校を卒業後、00年に京都へ入団、02年の天皇杯優勝に貢献。04年、仏2部(当時)のル・マンに移籍。その後、仏1部の計4クラブで148試合17点を記録。以後、欧州各国でプレー。日本代表としては04年のアテネ五輪で10番を背負う。A代表では10年のW杯南ア大会に出場、16強入りに貢献。通算31戦1得点。

高橋史門

高橋史門たかはし・しもん

エディター&ライター。1972年、福島県生まれ。日本大学在学中に、『思想の科学』にてコラムを書きはじめる。卒業後、『Boon』(祥伝社)や『relax』、『POPEYE』(マガジンハウス)などでエディター兼スタイリストとして活動。1990年代のヴィンテージブームを手掛ける。2003年より、『週刊プレイボーイ』や『週刊ヤングジャンプ』のグラビア編集、サッカー専門誌のライターに。現在は、編集記者のかたわら、タレントの育成や俳優の仕事も展開中。主な著作に『松井大輔 D-VISIONS』(集英社)、『井関かおりSTYLE BOOK~5年先まで役立つ着まわし~』(エムオンエンタテインメント※企画・プロデュース)などがある。

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