布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第21回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
ワンデートーナメント、本戦はヒジ打ちを反則とする3分3ラウンドマッチ......。1993年にスタートして以来、K-1は日本のキック界の常識を覆すように次々と新たな一手に出た。結果として、それは世間を巻き込む一大ムーブメントとなるのに時間はかからなかった。
しかしながら、当時活躍していた格闘家の誰もがK-1に追随していたわけではない。中にはハッキリと背を向ける者もいた。当時旗揚げしたばかりの新興団体、日本キックボクシング協会認定の日本フェザー級王者・小野寺力(おのでら・りき=目黒ジム)もそのひとりだった。
97年6月2日、日本格闘技界に激震が走った。都内のホテルで「K-1 JAPAN LEAGUE」が設立会見。マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(以下、MA日本キック)、シュートボクシング、全日本キック、日本キックという当時の立ち技主要4団体のK-1参戦が正式決定したのだ。
K-1による立ち技格闘技界統一の動きは、これが初めてではなかった。この2年前、95年3月25日にはMA日本キックの後楽園ホール大会の枠を借りる形で、中・軽量級の大会『Kリーグ オープニングファイト〝見参〟KENZAN』が開催された。
出場メンバーは正道会館とMA日本キックで構成されていた。しかし後半3試合に出場した金泰泳(正道会館)、港太郎(山木ジム)、新妻聡(目黒ジム)が絡んだ国際戦が全てドローに終わるという不完全燃焼で、Kリーグは一回きりで立ち消えになっていた。
Kリーグは〝早すぎたK-1 WORLD MAX〟だったのか。そんな負の歴史を知る者にとって、「K-1 JAPAN LEAGUE」は日本立ち技格闘技界統一へのリスタートと見る向きもあった。しかも今回はMAキックだけではなく、他の主要団体も巻き込んでの大がかりな動きではないか。立ち技格闘技の流れが大きく変わろうとしていることは、現場で取材している者にもダイレクトに伝わってきた。
会見には、佐竹雅昭を筆頭とする正道会館所属のK-1ファイターをはじめ、各団体の主要選手が集結した。現在はジムの会長やプロモーターを務める伊藤隆、山口元気、緒形健一、武田幸三もそろっていた。
すでにK-1が名古屋、大阪、東京の順でドームツアーを行なうことは発表されていた。この会見の目玉はその第一弾となる7月20日のナゴヤドーム大会で開催される、佐竹ら重量級のK-1 JAPANグランプリ開催の発表だった。のちにJAPANグランプリは日本テレビ系のK-1放送の軸となっていく。
さらに11月9日の東京ドーム大会では各団体の代表によるK-1フェザー級グランプリの開催も合わせて発表された。会見で出場決定選手が発表されることはなかったが、階級が限定されていたので、出席していたシュートボクシングの村浜武洋、全日本キックの前田憲作、日本キック協会の小野寺力らの参戦は容易に想像できた。
もっとも、誰もが優勝に向けて熱いコメントを残したわけではない。壇上に並んだ3名はそれぞれ抱負を語ったが、必ずしも足並みがそろっているわけではなかった。ハッキリ言うと、バラバラだった。
「選手としては魅力のないカードですが、シュートボクシングの発展のために出たい」(村浜)
「僕は全日本キックの代表ではない。自分自身に売られたケンカ。ドームだろうが、公園だろうが、やることは一緒」(前田)
「さっき初めて聞きました。大きい会場にはすごく魅力があります」(小野寺)
とりわけ小野寺の「さっき初めて聞いた」というコメントが筆者は気になって仕方がなかった。その言葉に偽りはあるまい。出席した他の選手はスーツを着るなど正装していたが、小野寺だけはジーンズにTシャツというカジュアルな格好をしていた。傍観者のつもりで行ったので、自分が会見に出席することなど想像すらしていなかったのだという。
そのときの心境を小野寺は当時の格闘技専門誌で赤裸々に語っている。
「記者会見を待っているときに初めて(フェザー級GPの開催を)聞いたんですよ。その話、全然知らないよって思って。でも、キックのルールであれば、すごく魅力がありますよ。いい所(東京ドーム)で、あれだけのお客さんの前で。ただ(中略)、一回戦が3分3Rとか、それはキックじゃないですから。その場合だったら、出ません。2ヵ月とかゆっくりやるんだったら(1大会につき1試合ずつ勝ち抜いていくトーナメントという意味)どこでもやりますけど、キックじゃないものはやりたくない。(僕は)キックボクサーですから」(『格闘技通信』1997年7月23日号掲載のインタビューより)
当時のキックボクシングのメインカードは3分5ラウンド制で行なわれており、試合形式はワンデートーナメントではなくワンマッチが基本だった。3分3ラウンドの試合も組まれてはいたが、それは新人や中堅のマッチメークに限られていた。それだけではない。当時のキックは5ラウンド制の試合ではどこの団体でもヒジ打ちが認められ、首相撲からのヒザ蹴りも無制限に認められていた。
しかも、小野寺が所属する目黒ジムは、1966年に日本のキックボクシングがスタートしたときにパイオニアとなったジムで、所属選手たちはみなこの競技に誇りを抱いていた。つまり、その時点ではキックとK-1は似て非なる競技だったのだ。
あの記者会見から27年、現在は自ら主宰するキックボクシングのジム「RIKIX」を切り盛りする傍ら、キック大会『NO KICK NO LIFE』をプロモートする小野寺は、自分の現役生活を大きく左右したK-1フェザー級グランプリについて話し始めた。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。