布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第22回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
97年夏、K-1フェザー級グランプリ出場に背を向けたことで一躍クローズアップされることになった、日本キックボクシング協会フェザー級王者の小野寺力(おのでら・りき)。しかしながら、その前に小野寺の身には〝もうひとつの事件〟が降りかかっていた。それも、彼のモチベーションやのちの競技人生を大きく左右するものだった。
93年にK-1がスタートする直前、日本の格闘技界は盛り上がっていたのか? そう問われたら、筆者は「沸騰寸前だった」と即答する。少なくとも立ち技格闘技のマーケットは活況を呈しており、キックボクシングの各団体の定期戦が組まれていた後楽園ホール大会も賑わっていた。地上波のレギュラー放送は80年3月にTBSが打ち切ったのを最後に途絶えていたが、それでも80年代終盤からキックの興行は熱気を取り戻しつつあったのだ。
1974年生まれで東京都大田区育ちの小野寺は兄の影響で空手を始め、中学3年からは後楽園ホールに足繁く通うキックファンになっていた。小野寺が回想する。
「お小遣いで2000円のバルコニーの立ち見席をずっと買っていました。お金を団体に現金書留で送ったら、チケットが送られてくる仕組みでした」
当時はMA日本キックから全日本キックが独立したばかりの時代だったが、小野寺はどちらの団体にも足を運んだ。ファン時代の思い出は今も鮮やかだ。
「技術的なレベルは間違いなく今のほうが高いと思う。でも、会場の熱はどっちのほうが高かったんですかね。インターネットもない時代に、普通に満員になる興行もありましたから」
そうした中、ひとりの3回戦のグリーンボーイが目にとまった。のちに全日本フェザー級王者となる立嶋篤史だった。
「毎回見ていると、勝ち上がっていく立嶋さんのストーリーがわかってくる。新人時代から殺気が漂っていたし、すごい選手だなと感心していました」
全日本キックは見どころのある選手がチャンピオンロードというべき階段を一段ずつ上っていくようなマッチメークを組むのが得意だった。ファン目線でキックを観戦すると同時に、すでに名門・目黒ジムでキックボクサーの卵として練習を始めていた小野寺は野望も抱いていた。
「近い将来、自分も同じフェザー級で立嶋さんとやってみたい」
直接対決を実現させるにあたり、ひとつだけ障害があった。小野寺が所属する目黒ジムは立嶋が主戦場とする全日本キックではなく、そのオポジションであるMA日本キックに属していたのだ。
しかし、時代は小野寺の味方をした。いや、正確に言えば「味方しかけた」と表現したほうが適切か。その理由は次回に後述するが、小野寺がプロデビューした92年からは両団体間で対抗戦がスタート。積極的にチャンピオン同士の試合を組むなど、スリリングな交流を続けていた。とはいえ、当時はグリーンボーイの身で「立嶋選手とやらせてください」と勝手にアピールできるような空気はなく、マッチメークの主導権は各プロモーターが握っていた。
小野寺はまずMA日本キックのフェザー級王者になる目標を立てた。出だしは好調だった。デビュー以来5連勝をマーク。95年1月にはのちにMA日本ライト級王者となる〝魔神〟佐藤堅一と、同年6月には元MA日本フェザー級王者で〝和製ベニー・ユキーデ〟と呼ばれていた山崎通明といずれも引き分けた。その6ヵ月後には全日本キックの佐藤孝也との対抗戦に抜擢された。
当時の佐藤は全日本フェザー級1位。戦前は「佐藤有利」の声が多かったが、そうした予想を覆すかのように小野寺は右ハイキックでKO勝ち。一躍、第一線に躍り出た。こうなったら小野寺の勢いは止まらない。翌96年1月にはMA日本フェザー級王座挑戦者決定戦まで駒を進め、キャリアに勝る松尾栄治を1ラウンド開始早々立て続けに3度もダウンを奪いKO勝ち。天才の名を欲しいままにしていたワンダーマン室戸が保持するMA日本フェザー級王座挑戦権を手に入れた。
しかし、2ヵ月後の3月に予定されていたこのタイトルマッチが実現することはなかった。小野寺が所属する目黒ジムがMA日本キックから突如脱退し、治政館などと共に日本キックボクシング協会(のちの新日本キック協会)を設立したからだ。
選手の総意をとっての脱退ではなく、全て事後承諾だった。小野寺は心の中で叫ぶしかなかった。
「僕のタイトルマッチはどうなるんですか?」
MAの日本フェザー級王座まであと一歩のところで、梯子を外された気分だった。
目黒ジムでコーチを務めていた元MA日本バンタム級王者の鴇稔之(とし・としゆき)は組織と選手の狭間に立たされた。顔は怖いが根はやさしい、この先輩の気持ちを小野寺は慮(おもんぱか)る。
「鴇さんは選手寄りの考えの人だったので、大変だったと思います」
ジム内に不穏な空気が流れる中、次第に「とりあえずみんなで頑張ろう」という流れになったが、MA日本フェザー級王座を獲得するために全てを投げ打って頑張ってきただけに、小野寺にとっては到底納得できる解答ではなく、唇を噛むしかなかった。
「コーチの立場だと、もうどうしようもないことですからね」
今だったら目黒ジムを抜けフリーランスという立場となってMA日本キックに留まり、予定通り室戸に挑戦するという青写真を描くこともできただろう。しかし30年前のキック界はプロモーターやジムの会長の意見が全てであり、有事が起こったとしても選手たちが勝手な行動をとることは許されなかった。
叶わぬ夢とはわかっていても、室戸とは拳を交わしてみたかったと小野寺は言う。
「室戸さんのことはファン時代から見ていたので、『こんなすごい選手と試合ができるんだ』という喜びがある一方で、恐怖もありましたからね」
結局、小野寺は3月24日に全日本キックとの交流戦に出場し、全日本フェザー級の二枚看板のひとり前田憲作に5R判定勝ち。その勢いで5月25日には三重県で行なわれた日本キック協会初の主催興行で、新設された同協会認定の日本フェザー級王座決定戦に出場して4RTKO勝ちし初戴冠に成功した。
今だから聞ける。正直、王座を争う対戦相手は格下だった。心のどこかにモヤモヤしたものは残っていなかったのか。
「グダグダ言っても仕方ないことですからね。あのときの自分にできたことは獲ったタイトルの価値を上げていくことしかなかった」
キックボクシングの歴史は離合集散の歴史だ。このときの騒動も以前からこの業界を知る者にとっては「またか」と呆れる話にすぎなかった。結局、いつの時代も犠牲になるのは純粋に自分が置かれた環境で頂きを目指す選手たちだ。小野寺は自分の腰に巻かれたチャンピオンベルトの価値を高めるとともに、気持ちを切り替えるしかなかった。
「当時は各団体ともそれぞれの色があったけど、どこも結構お客さんが入っていた。だから団体どうこうより、自分がキックボクサーとしていかに食べていくか、いかに有名になっていくかを考えていましたね」
この時点で、小野寺は翌年、まさか自分がK-1という大きなうねりの中に巻き込まれるとは露ほども思っていなかった。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。