会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
2月24日、バンタム級転向初戦でWBC王座を獲得し世界3階級制覇を遂げた中谷潤人(26歳)。海外での評価も急上昇する中谷に本誌は昨年末から密着。15歳で単身渡米したボクサー人生、恩師との絆、そして、将来的に対戦が期待される井上尚弥への思いを語る!
「歩んできた道や、人生で積み重ねてきたものを発揮する場所。どういう覚悟を持ち、どういう経験を積み、どういう生き方をしているのか。試合を見て感じてもらえたらという思いでリングに上がっています」
右は試合翌日、「中谷潤人にとってボクシングとは?」と筆者が問うた際の答えだ。
2月24日、中谷は3階級制覇をかけWBC世界バンタム級王座に挑戦した。相手は昨年7月にノニト・ドネアを下して王座を獲得したアレハンドロ・サンティアゴ(メキシコ)。戦前は苦戦説もささやかれたが序盤から試合を支配し、6ラウンドに左ストレートでダウンを奪い、直後のラッシュでTKO勝利。左ストレートは会場の東京・両国国技館が一瞬静まり返るほどの衝撃的な一撃だった。
中谷は所属するM.Tボクシングジム(神奈川県相模原市)のほか、米ロサンゼルスを練習拠点としている。名トレーナーのルディ・エルナンデスの指導を受けるためだ。
「ルディからは『手数が必要だ』とアドバイスを受けて、単発の攻撃に終わらず4発、5発、6発と畳みかける練習を繰り返し、1ラウンド5分を10ラウンドとか、長丁場になっても集中力を切らさず戦える準備をしてきました」
序盤は静かな立ち上がりだった。自分より13cmも身長の低いサンティアゴに合わせるようにかがんで構え、相手のパンチが届かない距離を保った。動き始めたのは5ラウンド、戦況を見切った中谷は徐々に手数を増やす。そして6ラウンド、アップライトにスタイルチェンジして一気にギアを上げて勝負を決めた。
「サンティアゴ選手は、接近戦になれば手数が多くなるタイプなので、そういう状況は避けたいと考えていました。4ラウンドまでは警戒して下がりすぎない、プレッシャーを受けすぎないことを意識して、そこはうまくコントロールできました。(4ラウンド終了時の採点で)ポイントは取れていたし相手のパンチもよく見えた。
5ラウンドに入るとき、ルディからは『いけると思ったら練習してきたワンツーを2回、3回と繰り返せ』と指示されました。試してみたらうまくパンチを当てられたので、6ラウンドはさらにテンポを上げました」
試合後、サンティアゴはダウンした左ストレートが「見えなかった」と明かした。
見えない左――。
これには伏線があった。
中谷はダウンを奪った右ジャブ、左ストレートのワンツーの前に、同じようなワンツーを繰り出していた。上体を大きく寝かせてかわされたものの、続けざまに今度はやや遠めからさらに伸びのある右ジャブを出した。一瞬目を閉じたサンティアゴ。目を開けたときの視線は中谷の右側に向いていた。中谷は左側に対する警戒がわずかに緩んだ隙を見逃さず、体重を乗せた左ストレートを槍で小さな的を突くように打ち込んだのだ。
「ワンツー打って、相手が下がればワンツー。最初のワンツーが外れても次のワンツーで仕留めるパターンは、ルディから徹底的に指導されて練習していたので想定内でした」
中谷は毎試合、こうした技術や作戦の引き出しをいくつも準備して試合に臨む。筆者が年末年始にスパーリングを見た際も、リングを広く使いサークリングして遠い位置から飛び込んだり、逆にヘッドギアが擦れ合うほど距離を潰して打ち合ったりと、さまざまなパターンをパートナーを代えて試していた。想定外の状況に陥っても、違う引き出しを開けて平常心で対応できる。それが中谷の強みだ。
試合後の会見で中谷は自身のボクシングについて、「あまり特徴がない。インパクトはあまりないかもしれない」と、衝撃的なダウンを奪った新チャンピオンらしからぬコメントを発した。しかし、長いリーチを生かした右リードジャブで距離を支配し、一閃で相手をキャンバスに沈めることもできれば、至近距離では腕を畳んでフックやアッパーを打ち分けて戦うこともできる。これほど多くの武器を備えた世界基準のボクサーは、日本ボクシング史上でも稀有な存在かもしれない。
1998年に三重県東員町(とういんちょう)で生まれた中谷がボクシングと出合ったのは12歳のとき。小学3年からフルコンタクト系の空手道場に通っていたが当時は小柄で、学年別で試合が組まれる空手では一度も勝てなかった。
ある日、実家で両親が営んでいたお好み焼き店の常連客に「体重別で試合するボクシングのほうが向いているのでは」と勧められ、中学入学と同時に隣接する桑名市のKOZOジムに通い始めた。
ジムの会長は現役時代、3度世界に挑戦した石井広三。毎日休むことなく通い詰める中谷をかわいがり、「褒めて伸ばす」指導で才能を開花させていった。中学2年でU-15全国大会優勝。「世界チャンピオンになること」が師弟の夢になった。
しかし翌年、連覇を目指すU-15全国大会の2ヵ月前、石井は不慮の事故で急逝。中谷は「大会に出るべきかどうかもわからなくなった」が、失意の中でも練習は続け、圧倒的な強さで連覇を果たした。
「ボクシングの楽しさを教えてくれた広三会長に良い報告ができて安心したと同時に、将来必ず世界チャンピオンになるという思いをより強くしました」と中谷は述懐する。
当時15歳。プロテストを受験できる年齢になるまであと2年あった。中谷は高校に進学せず、ボクシング修行のため単身渡米を決意。そしてロサンゼルスで出会ったのが現在の師、ルディ・エルナンデスだった。畑山隆則ら多くの世界王者を育てた、日本のボクシングファンにもおなじみの名トレーナーだ。
「初めてルディと会ったとき、『なぜ高校に通っていないのか』と聞かれました。広三会長が亡くなったことを話して、『広三会長と約束した世界チャンピオンになる夢を絶対かなえたい。そのためには本場で鍛えることが一番の近道だと思っている』と伝えました。本気さを認めてもらい、受け入れてもらえました」
ロサンゼルスでは中谷が「おじいちゃん」と呼ぶ、ルディの父親の家に住まわせてもらい、以来、3ヵ月ごとに日米を往復して練習を積む日々が続く。今ではすっかり「エルナンデスファミリーの一員」だ。
「ルディの情熱と深い愛に動かされてここまでがんばってこられたと感謝しています」
世界最高水準のボクシング技術だけでなく、「ルディは人としてのあるべき手本を示してくれる」と中谷は言う。
その思いをさらに強くしたのは昨年5月20日、ラスベガスにある格闘技の殿堂、MGMグランド・ガーデン・アリーナでの試合だった。中谷はセミでアンドリュー・モロニーとのWBO世界スーパーフライ級王座決定戦に臨んだ。
試合は2ラウンドと11ラウンドにダウンを奪うなど終始支配し、最終12ラウンドに鮮やかな左フックでモロニーをキャンバスに沈めた。日頃は勝利しても落ち着いた姿勢を崩さない中谷は珍しくリングを駆け回り、右拳を突き上げて全身で喜びを表現した。
しかし自陣に戻ると、ルディに冷静な表情でこう諭された。「ジュント、相手あってのボクシングだ。倒されて起き上がれないでいるモロニーや彼の家族の気持ちを思いやらなければ」と。
「ルディの言葉は心に響きました。本当にそのとおりだと。渡米した頃から憧れていたラスベガスの大きな舞台に立つことができて、しかもああいうシーンを生み出せたことで夢見心地になってしまった。相手への尊敬や思いやりに欠けた行為だったと反省しました。同時に、ボクシングだけでなく、人として大切なことを教えてくれるルディの存在がいかに大きいか、あらためて実感しました」
モロニー戦はアメリカで最も権威のある専門誌『ザ・リング』の2023年の年間最優秀KO賞に選出された。今回のサンティアゴ戦もそれに匹敵する衝撃的な幕切れだったが、中谷はリング上を駆け回ることはなかった。セコンド陣とハグすると、すぐに倒れたサンティアゴの状態を確認し、相手陣営に感謝の気持ちを伝えた。
「(勝利は)素直にうれしく思ったし今まで以上に喜びの大きな試合でした。でもモロニー戦のときにルディから言われた『相手あってのボクシングだ』という言葉をすぐに思い出して冷静になりました」
一方、敗れたサンティアゴも試合後の会見で、「まず中谷選手におめでとうございますと伝えたい。私はしっかり練習してきました。言い訳はしません」と勝者をたたえた。
勝者は敗者に感謝し、敗者は勝者を称賛する。筆者は試合後、印象的な場面に遭遇した。中谷とルディはサンティアゴの控室を訪ね、メキシコから来日してくれたことへのお礼を伝えた。サンティアゴのトレーナーで、ルディとは旧知の間柄のロムロ・キラルテは、中谷を両腕で包み込むように抱き寄せた。かつてメキシコの英雄、フリオ・セサール・チャベスをサポートしたことでも知られるこの名トレーナーは中谷の戦いぶりを称賛し、「これからもがんばってほしい」とエールを送っていた。
中谷は言う。
「拳を交えるということは、いろいろな思いがぶつかり合うことだと思っています。勝負事である以上、試合後は必ず勝者と敗者という違いは生まれてしまう。でもお互い尊敬し合うことで初めて試合は成り立つのだから、勝者は敗者の思いも背負ってがんばっていかなければいけないと思っています」
戦前、「ターニングポイントになる」と話していた大一番で快勝し、3階級制覇を達成した中谷。今後の目標はバンタム級4団体王座統一、ビッグマッチの実現、そして全階級を通した最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド(以下、PFP)」に選ばれることだ。
「今、バンタム級は日本人選手も含め、海外選手もすごくタレントぞろい。今回はドネア選手に勝利してチャンピオンになったサンティアゴ選手を相手にどう勝つか、皆さん期待して見てくださったと思いますが、ほかにもいろいろなタイプの選手がいます。個性の違うチャンピオン同士のぶつかり合いを楽しんでいただきたいという思いが強いので、そういう意味でも4団体統一を目指してより集中して練習して、結果を残し続けたいと思います」
統一戦の実現には、相手の状況や興行のタイミング、金銭面などあらゆる要素が絡む。それでも「少し時間は要するかなとは思いますが、今までのキャリアもコツコツ積み上げてきたので、一喜一憂せず、地に足を着けて経験を重ねたい」と意欲的だ。
筆者は昨年末から中谷への取材を重ねていたが、試合前には控えていた質問があった。
井上尚弥との対戦についてだ。実現すれば間違いなく日本ボクシング史上最高のビッグマッチになる。PFPランキング1位になるためにも、〝モンスター〟井上は憧れの存在で終わらせるのではなく、いずれ対戦する相手として見なければならない。
「井上選手は世界を目指す日本人ボクサーにとって、鼓舞させられる、奮い立たせられる存在。僕もそのひとりですし、もちろんそこを目指すべきということは強く思っています」
中谷は普段、丁寧に言葉を選んで話すだけに、「強く思っています」という言葉からは将来的な対戦に向けた覚悟を感じた。
「まだまだ遠い存在ですけど、一歩一歩近づいていきたい。やるべきことはまだまだあると感じていますが、僕自身は結果を残し続けて、ファンの方々の思いも募っていけば、おのずと実現に向けた雰囲気になるはずです。そのときが来れば、気持ちはつくれると思います」
4団体統一、井上尚弥との対戦、PFP1位。どれも険しい道のりであることは間違いないが、中谷ならすべて実現させるのではないか......そうファンに期待させるほど、サンティアゴ戦は強烈なアピールになったはずだ。
最後に聞いた。なぜ中谷潤人は戦い続けるのか?
「世界チャンピオンを目指してボクシングを始めましたが、実際になると、複数階級制覇や4団体統一など次の目標が見えてきた。そういう意味では肉体的な衰えを実感しない限り、終わりはないのかもしれません。常に追い続ける、求め続けるボクシング人生だと思うので、これからもさまざまな挑戦を続けていきたいと思います」
試合から1週間たった3月2日。中谷は自身のインスタグラムで、「うずうずして急遽練習再開」と、早くも動き出したことを報告した。
●中谷潤人(なかたに・じゅんと)
1998年1月2日生まれ、三重県東員町出身。M.Tボクシングジム所属。左ボクサーファイター。172㎝。2015年4月プロデビュー。20年11月、WBO世界フライ級王座獲得。23年5月、WBO世界スーパーフライ級王座獲得。今年2月24日にはWBC世界バンタム級王座を獲得し3階級制覇達成。27戦全勝(20KO)。ニックネームは〝愛の拳士〟
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。