布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第23回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
1996年5月25日、旗揚げしたばかりの日本キックボクシング協会認定の日本フェザー級王者になった小野寺力(おのでら・りき)は、「ファイトマネーだけで食べていこう」と決意した。
「それまではバイトしながらやっていました。正直、試合だけではきついときもあったけど、2、3ヵ月に一度闘えばなんとか食べることはできました」
すでに出場が発表されていたK-1フェザー級グランプリ(97年11月9日)への出場辞退の意思を表明すると、所属する目黒ジムを傘下に置く日本キックボクシング協会の事実上の長を務めていた伊原信一から「ちょっとメシでも食いに行こう」と声をかけられた。
「絶対K-1に出るように説得されるよ」。周囲からはそう警告されたが、自分で一度決めたことは絶対に翻さない性格と自認する小野寺は、指定されたレストランに足を運んだ。
伊原は単刀直入に尋ねてきた。
「おまえ、本当にK-1に出ないのか?」
小野寺に迷いはなかった。即座に、
「はい。出ません」と答えた。
小野寺の固い決意を聞いた伊原は説得することはなく、「わかった」とだけ答えた。
会話のない時間だけが過ぎていった。小野寺は目の前に出されたステーキの脂がバチバチ音を立てていたことだけは覚えている。「味のほうはさっぱり覚えていないですけどね」。
不出場が公式に発表されると、小野寺には日本キック協会から半年間の出場停止処分が下された。生活できなくなることは明白だったが、後悔はなかった。
後日、伊原から内情を聞いた、目黒ジムでトレーナーを務める鴇稔之(とき・としゆき)からペナルティについての事情説明があった。
「協会からフェザー級GPに出すと言ってしまった以上、団体として選手ひとりの契約をまとめられないことはみっともないので、形式上出場停止にさせてくれ」
自分から「出る」とは一度も口にしていなかっただけに、納得できる処分ではなかったが、最終的には「みんながそれで納得できるのであれば、いいじゃないか」と呑み込んだ。
「それが協会としての最後の落としどころだったんじゃないですかね」
出場停止中、小野寺はなんとかお金を工面して初めて1ヵ月ほどタイに渡った。オフシーズンであれば、わずか数万円でバンコク行きの往復チケットを買えた時代だった。
「気を紛らわせたかった? う~ん、その期間でも練習をしないという選択肢はなかったので、ちょうどいい機会だからムエタイに触れておこうと思いました」
現地では「試合をしないか?」と声をかけられたが、出たことが日本で報道されると話がややこしくなると思い、こちらも辞退した。練習場所は、名門ソーケッタリンチャンジムに間借りする形で活動していたゲォサムリットジムだった。
ジムの代表であるアナン氏は日本でトレーナー経験もあるので、立嶋篤史もこのジムで練習したことがある。のちに〝魔裟斗二世〟として脚光を浴びたHIROYAもこのジムで練習しながら現地のインターナショナルスクールに通うことになるなど、日本のキックボクサーにとっては縁の深いジムだ。
2005年10月29日、小野寺は大田区総合体育館で初めての自主興行を開き、自身の引退試合をプロデュースした。対戦相手は「一番強いやつとやりたい」という希望通り、当時タイで一世を風靡していた強打者、アヌワット・ゲォサムリットとの一騎討ちに臨んだ。
それまでにアヌワットとの接点がなかったわけではない。小野寺がゲオサムリットジムで練習している頃、アヌワットもジムで練習していたというのだ。
「まだ本当に小さかったアヌワットも練習していましたね」
昔から「強い相手とやりたい」と願っていた小野寺はこのときからアヌワットとは運命の赤い糸でつながっていたのか。
結局、K-1フェザー級GPには小野寺の代役としてヤマノウチスグルという期待の新人選手が出場することになった。試合形式は4人制のワンデートーナメントだったが、出場選手の中では一番キャリアの浅いヤマノウチは初戦で姿を消した。優勝は初戦で優勝候補のひとりだった前田憲作を破ったシュートボクシングの村浜武洋だった。
その日、小野寺は自分が何をしていたのかまったく記憶がないという。
「何をしていたんだろう......。もちろん会場の東京ドームには行っていない。でも、結果は気になっていた記憶があります。優勝は村浜でしたよね」
もし小野寺が出場していれば、フェザー級では国内最大の大一番と言われていたvs村浜が実現していたかもしれない。
「あの頃、村浜とやるかもしれないという機運がありましたよね。他団体でも同じ階級の選手は常に意識していました。一番やりたいと心から思ったのは立嶋篤史さん。鈴木秀明君(小野寺と同時代に日本とタイを行き来しながらタイの強豪と渡り歩いたレジェンドのひとり)とはいつかやるだろうと思っていましたね」
小野寺vs立嶋、小野寺vs鈴木とも魅力的なカードだが、残念ながら拳を交える機会はないままに終わった。また、フェザー級GPに出なかったことで、小野寺は〝大のK-1嫌い〟と見られることもあったが、実際のところはちょっと違う。キックボクシングとは別の競技としてテレビ中継があるときには普通に観戦していた。
「面白いものだと思って観ていましたよ」
しかし、何度も言うようだが、自分がやるとなると話は違う。小野寺はK-1にキックが呑み込まれるような時代の流れに乗ることをよしとしなかった。さらに、すでに地上波放送もされていたK-1だからキックボクサーたちが群れるという流れにも違和感を抱いていた。
「もちろんK-1は素晴らしいイベントではあるけど、(キックの各団体は)普段は仲が悪い感じで交わらなかったのに、舞台がK-1だと鼻の下を伸ばして嬉々としてやるというのはちょっと違うと思いました」
K-1のトーナメントで優勝すれば、高額のファイトマネーを手にすることができる。いい試合をすれば、自分の試合が地上波でも放送され、信じられないほどの知名度を得ることもできる。K-1から出場オファーがあれば、大半のキックボクサーたちがその話に乗る流れはある意味自然だった。
この時代、K-1に背を向けたキックボクサーを、筆者は小野寺と立嶋篤史しか知らない。小野寺はキックをやっているということにそれだけ誇りを持っていた。
「キックボクシングは日本発祥のスポーツ。ムエタイを真似たものではあるかもしれないけど、そこがポイントです。それをなんとかしてみんなで力を合わせてメジャーにしたかった。その気持ちは今も変わらない」
前述したアヌワット戦を最後に引退した小野寺はRIKIX(リキックス)というジムを興し、後進の指導とともにキックの普及に余念がない。
それと合わせ、現在は『NO KICK NO LIFE』というキックにこだわったイベントをプロモートしている。今年5月17日には〝格闘技の聖地〟後楽園ホールに初進出する予定だが、現役時代の生き方とは裏腹にプロモーターとしての視点は柔軟だ。
「以前、那須川天心選手の試合でヒジなしの試合を組んだこともあります。あれもこれもという感じでいろいろなルールを混ぜすぎたらわかりにくくなってしまいますけど、お客さんに喜んでもらうことが一番ですから」
傘下の選手が出場する試合に対しても、小野寺はフレキシブルな対応を示す。
「今の選手たちにキックだけを強制しようとは思わない。試合のオファーが舞い込んでも、やりたくないならやらなくてもいい。やりたいのであればやればいい。そこは全部選手本人に任せています。僕はその選手がどんなルールで闘ったら一番生きるかを考えたい」
先日、小野寺はK-1の創始者である石井和義氏と久しぶりに会う機会があった。過去の経緯があるからギクシャクした関係などということは一切ない。ざっくばらんに今後のキックボクシング界について語り合った。
K-1に背を向けた男は時代の流れを見極めながら、自らの信念を貫き続けている。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。