会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
【連載・元NPB戦士の独立リーグ奮闘記】
第3章 福島レッドホープス監督・岩村明憲編
かつては華やかなNPBの舞台で活躍し、今は独立リーグで奮闘する男たちの野球人生に迫るノンフィクション連載。第3章はNPB、MLBで活躍し、WBC日本代表としても活躍した現・福島レッドホープス監督、岩村明憲。輝かしい実績を持つスター選手だった岩村は、なぜ今福島で独立リーグ球団の監督をしているのか。その知られざる奮闘ぶりに迫った。(全4回の第2回/前回はコチラ)
「選手兼任監督」として福島ホープスに入団した1年目の2015年シーズン、岩村は若手選手にチャンスを与えるため、自身の出場機会は最低限に抑えた。それでも10試合で打率.556という圧倒的な成績を残した。
監督としても、前期は最下位に沈んだものの、後期は新規参入ながら地区優勝を果たした。監督として初めて経験した胴上げに、NPB時代ともMLB時代とも違う、野球人として格別の喜びを噛み締めた。
「震災から立ち上がり、懸命に生きる福島県民の希望の光に」という球団運営会社の言葉に共鳴した岩村の挑戦は、順調に始まったように思えた。しかし3年目の2017年シーズン、同年限りで選手として現役引退を決めた岩村には次々と災難が降りかかった。
「最初に副社長が逃げて、次に社長が逃げて、最後に自分を呼んだゼネラルマネージャーまで逃げました。ゼネラルマネージャーは、お金の問題は関係なかったのかもしれません。でも自分に声をかけたにもかかわらず、なんの責任もとらないままいなくなりました。『こんなふざけた話があるか、いったい誰に呼ばれて福島で頑張っていると思っているのか』と憤りました」
2017年9月10日、岩村は自身の引退試合として福島ホープスの地元、郡山市で行なわれた後期最終戦に1番指名打者で先発出場した。観客は球団発足以来最多となる3607人。4打数2安打で21年間の現役生活を締め括り、チームも同試合でプレーオフ進出を決めて花を添えた。
ヤクルト時代に打撃を学んだ恩師で、「何事も苦しいときが自分の礎をつくる」という「何苦楚(なにくそ)魂」を授けてくれた中西太氏や、岩村のプロ入りと同時に二軍監督兼バッテリーコーチに就任し、当初から才能を高く評価し育ててくれた八重樫幸雄氏も引退試合に駆けつけてくれた。
本来は21年間の現役生活を振り返り、多少はゆっくりしたい気持ちもあったかもしれない。そんな最中、球団経営に窮した球団社長が突如雲隠れし、莫大な負債を残したまま、経営陣が次々と逃げ出すという事態が起きたのだ。
2017年シーズン終了後、経営陣が逃げていなくなったのち、地元の取引先などに球場使用料、用具代、遠征バス代や宿泊代など2年間分の未払いのあることが発覚した。調査を進めるうち、給与未払いなど総額1億円という莫大な金額の負債があるとわかった。そして、地元ファンやスポンサーとして応援してきた企業の不信の目は、「チームの顔」となるべく招致され、経営には一切携わっていなかった監督の岩村に向けられた。
「内情を詳しく知らない方は『福島ホープスは岩村のチーム』と思っていますから、あらぬ誤解をされたり、応援してくれていた企業から敵対視されたり、ファンからも誹謗中傷を受けたりもしました。でも信じてついてきてくれた選手たち、残ってくれたスタッフもいました。みんなの思いを無駄にしたくありませんでしたし、悪いイメージを植え付けられたまま、自分まで福島から逃げてしまうことだけは絶対したくありませんでした」
2018年シーズン開始前、岩村は現副社長の高橋柾由美氏と共に、支援者からの寄付以外に個人資金も注ぎ込み、本来は返済義務のない未払い金のうち、およそ半分を支払った。活動継続のためには、道義的にもまずは未払い金を精算する必要があると考えたからだ。
もともと東京で美容サロンなどを経営していた高橋氏は青森出身で、震災後、現地に足を運んで支援活動をしていた。そんな経験もあり、縁あって知り合った岩村の活動に共感して球団経営に協力するようになった。
当初はすべて精算して開幕を迎えたいと考えていたが、すでに翌年の活動費の半分がさまざまな経費の支払いに充てられていた。同シーズンの活動費も確保しなければならなかったため、残りの未払い分は分割払いを申し入れ、受け入れてくれた関係先に支払いの約束をしてどうにか開幕を迎えることができた。
「当時は銀行もお金を貸してくれませんでした。それでも、今後もチームを応援していただきたかった。うちを支援したばかりに取引先の経営が傾いてしまったら、それは自分としても許せないことでした。金額の大小云々ではなく、できる限り頑張って自分たちで返していこうと、支援者など各方面から協力を得ながら返済を続けました」
災難はその後も続いた。旧運営会社代表の本業の会社での税金滞納により、球団にも債権差し押さえの連絡が届いた。それに伴い、福島ホープスはBCリーグへの継続加入が危ぶまれる事態に陥ってしまった。
岩村はそこで新たに運営会社を設立し、自ら代表取締役社長に就任。旧運営会社とは資本関係や株式譲渡のない別法人を設立して球団運営を始めた。「選手兼監督」から「監督兼社長」という新たな二足の草鞋に履き替えたのだ。
チーム名も希望を意味する「HOPE」に、岩村は「より情熱的に」という思いを込めて「RED」を加え、「福島レッドホープス」に変更した。赤は岩村が現役時代、グローブやサポーター、バットなどで好んで使用したイメージカラーでもあった。
2019年シーズン、チーム成績は前期4位、後期5位と前シーズン(前後期とも2位)から大きく落ち込んだ。しかし当時は借金を肩代わりして未払金の支払いを継続する中で、ホーム試合の開催経費や遠征費、選手やスタッフの給与など、毎月かかる経費をかき集めるだけで精一杯だったという。
「法人を設立したときは、僕自身が親会社になってしまったので『もうやるしかない!』という気持ちでした。運営し続けることは簡単ではありません。今もそうですけど、1年1年が勝負です。引き継いでくれる人はなかなか現れませんね。基本、利益は出ないわけですから。
自分で選んで乗った船なので、使命感で続けてきた部分は大きいかもしれません。ただ野球が持つ力で、純粋に福島の活性化に貢献したい気持ちが強いことも事実です。今も震災、原発事故の影響が色濃く残る福島に、活気溢れる場所をつくりたい。それが僕たちのホームスタジアムであればいいな、という思いで取り組んでいます。
自分だけの球団とはまったく思っていません。おらが町、おらが村のチーム、福島県民の球団です。例えば居酒屋で『今日の試合、あいつは活躍した?』と見知らぬお客さん同士で話題になり盛り上がっていただけるようなチームでありたい。何度も言いますが、おらが町、おらが村のチーム、福島県民の球団です。みなさんには長い目で見て、応援していただけたらと思っています」
ホームスタジアムを地域の活気あふれる場所にしたいーー。
岩村がそんな夢を見るようになったきっかけは、メジャーリーグ時代にマイナーリーグの球場で見た景色が影響していた。
(つづく)
●岩村明憲(いわむら あきのり)
1979年2月9日生まれ、愛媛県出身。宇和島東高校から96年ドラフト2位でヤクルト入団。ベストナイン2度、ゴールデン・グラブ賞6度受賞。2007年にデビルレイズ(現レイズ)に移籍。パイレーツ、アスレチックスでもプレーし、11年から楽天、13年からヤクルト、15年からBCリーグ・福島で選手兼任監督。17年に現役引退して以降も、監督兼球団代表として福島で奮闘の日々を送っている
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。