九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。
つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は横浜ベイスターズのスカウトを卒業後、なんと中国プロリーグの強豪「天津ライオンズ」のコーチとして60代半ばで新天地へ飛び込んだ松岡の果敢な挑戦を追う。
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ほとんどの会社の社員は60歳で定年退職を迎える。しかし、横浜ベイスターズを離れた時に64歳だった松岡功祐に〝老後〟はない。
「ベイスターズでスカウトをやった最後の年に、1カ月だけ台湾で行われていた天津ライオンズのキャンプにサポートで行ったことがあるんです。何が気に入られたのかわからないけど、『そのままコーチをやってほしい』と言われました」
松岡がコーチとして中国に行くことを聞きつけたある選手が野球用品を寄付してくれた。
「ベイスターズでもプレーしていた工藤公康です。春季キャンプに行って、よく彼にはノックを打っていたから、そのお礼ということだったんだと思います。スパイクやグラブ、手袋などをすぐに用意してくれました」
そんな気遣いができる選手はなかなかいない。
「彼は引退してから福岡ソフトバンクホークスで監督も務めましたね。そういうことがさりげなくできる人なんですよ。プロに入った時に監督だった広岡達朗さんの教育がよかったんじゃないでしょうか。
ホテルのレストランで偶然会った時にもあいさつに来てくれたことがあります。スーパースターでしたけど、細やかな気遣いができる人でした」
2007年、当時在籍していた横浜のキャンプでウオーミングアップする工藤公康投手(写真:時事)
翌年に北京オリンピックの開催を控えていた2007年、ベイスターズと提携関係にあった中国プロリーグの強豪、天津ライオンズに1年間、派遣されることが決まった。
「中国には、北京、上海、四川など6つのチームがあります。プロ野球のチームと提携していて、日本からもコーチを送り込まれていました。中国国内で4年に一度大きな大会があり、そこで優勝すれば賞金やマンションが与えられると聞きました。
中国と日本では、まったく国として社会体制が違いますが、稼げる人はものすごく稼いでいるという。でも、バスケットボールとか陸上競技や卓球とかに比べれば全然で、野球人口自体は多くない」
オリンピックやWBCなど国際大会に代表チームが出場するが、野球のレベルはそう高くなかった。
「中国代表でも、日本のプロ野球の一軍と戦ったらお話にならない。10点差以上つけられてしまうくらい、実力差がありました」
■昔の日本プロ野球のような移動風景
松岡が指導のために中国に渡った頃、設備や練習環境にも明らかな差があった。
「日本の高級ホテルみたいなものはほとんどありません。少なくとも、野球選手が宿泊する機会はほとんどない。選手たちが泊まるところは粗末で、移動は夜行列車かバス。僕が経験した1970年代の日本みたいなものです」
松岡は現役時代、試合後に自分でバットケースを持って列車に飛び乗ったことを思い出したという。
「今、試合で使う道具は球団のスタッフが配送をしてくれるから、移動中の選手たちは身軽ですよね。でも、昔はそうじゃなかった。若手なんか、荷物を両手に抱えて大変でした(笑)」
ただ、設備の規模は日本以上のものがあった。
「天津市とか北京市が、それぞれ、野球場や練習場、体育館を持っています。その近くにトレーニングジムや宿泊施設をつくって、有望選手を育てるシステムでした。500人ぐらいはいたでしょうか。食事、宿泊、トレーニングができる養成所みたいなものですね」
野球以外にも、バレーボール、ソフトボール、体操、水泳、バスケットなどオリンピックなどでの活躍が期待される選手たちが集められていた。
「大きな食堂でみんなが食事をするんですけど、女子バレーボールの選手たちが花形らしく、周りの見る目も違っていました。スター軍団でしたね。僕から見ても、背が高くてカッコいい。自信に満ちあふれていました。
朝の7時に食堂が開いたら、500人くらいがビュッフェスタイルで朝食をとるために集まってくる。食べるものがなくなると困るから、朝から大賑わいです」
■中国選手を惹きつけた〝元気な年寄り〟
ここで、松岡の持ち前の明るさが中国の選手たちを惹きつけた。
「10代の選手からすれば、僕はおじいちゃん。みんなが『ラオシー(老師)』と呼んで、話しかけてくれました。トレーニングの現場に、僕みたいに元気な年寄りがいなかったから珍しかったのかな」
年齢は離れていてもスポーツマン同士。通じるものがある。
「すぐ近くに天津体育学院があって、高校もある。中国はエリート主義だから、スポーツで身を立てようとみんな頑張っていました。10代前半の選手もいて幼く見えたけど、みんな頑張っていました。将来がかかっているからね。
だけど、野球選手で大きい選手はあまりいなくて、大学のトップチームには勝てそうにない。プロリーグではあったけど、日本の独立リーグと比べても少し下かなというレベルでした」
松岡は結局3年間、このチームの指導を行った。
「食事や風呂やトイレ、それ以外の部分でも、今の日本人には耐えがたいものがありました。一度でも行ったことのある野球関係者は『松岡さん、よく3年もいましたね!』と驚かれますよ(笑)」
60代半ばにして、松岡は驚異的な順応性を発揮した。
「僕が平気な顔して生活しているから、みんなにびっくりされました。はじめは言葉もわからなかったけど、すぐに簡単なやり取りはできるようになりました。自分の部屋の壁に文字を書いた紙を貼って覚えたものです。帽子はマオズ、スパイクはディンシエ、ユニフォームがジーフー。辞書を引きながら、必死に自力で覚えました。つたない中国語でも、言いたいことは伝わるものですよ」
週休2日制を利用して、土曜日には家庭教師に習った。
「スケジュールはしっかり決まっているので、体力的には楽でした。朝の8時半から17時で終わり。週末はお休みでしたね」
第10回へつづく。次回配信は2024年4月20日(土)を予定しております。
■松岡功祐(まつおかこうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。