3月31日、63歳で死去したキックボクシングの「帝王」ロブ・カーマン 3月31日、63歳で死去したキックボクシングの「帝王」ロブ・カーマン

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第24回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

■訃報に接したアーツ、ホーストは......

今でも信じられない気持ちでいっぱいだ。3月31日(現地時間)、キックボクシングの世界で〝帝王〟と呼ばれていたロブ・カーマン(オランダ)が亡くなった。享年63。ここ数年は体調がすぐれなかったという話も聞くが、あまりにも早すぎる死だった。

カーマンの死はオランダキック界に暗い影を落とした。新人時代、カーマンに憧れていたピーター・アーツは自身のSNSにカーマンを〝リアル・レジェンド〟と形容したうえで、「亡くなったことを聞いてショックを受けた。私がキックを始めたとき、彼は私にインスピレーションを与えてくれた。本当の伝説よ、安らかに眠れ。寂しくなるよ」と綴った。

一方、ライトヘビー級時代に母国オランダで2度激突しているアーネスト・ホーストは、「親愛なるロビー(カーマンの愛称)、君は闘いを通してトップに到達するために何が必要かを気付かせてくれた。ありがとう。ご冥福をお祈りいたします」と記した。

カーマンはK-1前夜から黎明期ともいえる80年代後半から90年代前半にかけ、ピークを迎えたキックボクサーだった。初来日は87年11月15日の全日本キックで、過去1勝1敗とイーブンだった、ムエタイの二大殿堂のひとつラジャダムナンスタジアム認定ウェルター級王者のラクチャートと拳を交わし、右ボディストレート一発で1ラウンドKO勝ちを収めている。そう、長田賢一との一戦で人生を翻弄された、あのラクチャートである(詳しくは本連載第16回【ムエタイ王者の「生贄」にされかけた日本最強空手家・長田賢一がくぐり抜けた修羅場】)

70年代の一大ブームが嘘のように、80年代半ばの日本キックボクシング界ではいずれのプロモーション(団体)も閑古鳥が泣いていた。そうした中、新生・全日本キックとして再スタートを切ったこの老舗プロモーションは、新たなスター候補として、当時ヨーロッパで脚光を浴びていたカーマンに白羽の矢を立て、再興を試みようとしていたのだ。

当時カーマンはオランダとタイの二拠点生活を送っており、タイからやって来ることを考えればフライト時間の短い日本でのファイトは好都合だった。

全日本キックで初来日し、K-1主催の『K-2 GRAND PRIX '93』にも参戦した 全日本キックで初来日し、K-1主催の『K-2 GRAND PRIX '93』にも参戦した

■懲役18ヵ月の判決

ラクチャート戦の少し前の87年9月27日、筆者はオランダ最大の都市アムステルダムでカーマンの試合を初めて目撃している。当時同市ではキックの興行が最も行なわれた、エーデンホールで組まれたアメリカの選手との国際戦だった。

会場の2階席に行くと、マリファナの匂いが立ち込めていたことをハッキリと覚えている。噂には聞いていたが、イメージ通りのちょっと危ない雰囲気だった。オランダのキックもまだ夜明け前だった。

かつてオランダの格闘家のメインジョブは飾り窓(売春街)やカジノの用心棒といわれていた時代がある。新生UWFやリングスで一時代を築き上げたクリス・ドールマンがまとめ役となり、傘下の選手に仕事を振っていた。筆者がアムステルダムで取材しているときには、のちにリングスにレギュラー参戦して人気者となるディック・フライやヘルマン・レンティングが用心棒をやっていた。

そのせいかどうかはわからないが、事件に巻き込まれる選手も多かった。かつてオランダでMA日本キックと全日本キックのライト級王者、斉藤京二と闘ったアンドレ・ブリリマンというカーマンと同門の選手は何者かに射殺され、死体をドラム缶にコンクリート詰めされた状態で発見された。違法薬物の売買を巡って、トラブルとなり殺されてしまったらしい。

市内のアムステルタワーというオフィスビルを建設するための基礎工事中、流し込んだコンクリートにミロ・エル・ガブリというキックボクサーの死体が紛れ込んでいることを犯人が吐露したテレビドキュメンタリーは話題になった。すでにビルは完成しているため、掘り起こすことは不可能だという。

ブリリマンもミロも、カーマンと同じオランダ目白ジムに所属していた。カーマンも銀行強盗の疑いで収監された過去を持つ。

85年5月28日、アイントホーフェンの銀行に友人と共に覆面姿で押し入り、9000ギルダー(ユーロ導入前のオランダの通貨単位。当時のレートで約70万円)を強奪したというのだ。まさに格闘技版『俺たちに明日はない』ではないか。事件発生からわずか30分でカーマンと友人はスピード逮捕され、懲役18ヵ月の判決を受けている。

この話には後日談がある。実は、銀行強盗を行なったのはカーマンに車を借りた別の友人だった。この友人はカーマンと容姿がそっくりだったため、警察はカーマンを誤認逮捕してしまう。しかしカーマンは、友人の身代わりとなってそのまま収監されたというのだ。

結局、自責の念にかられた友人が自首したことでカーマンは無罪放免となった。そうすることで、友人に猛省してほしかったというのだが、筆者は別の理由もあったのではないかと想像してしまう。よほどの理由がない限り、友人の身代わりで刑務所に入るなんて考えられない。事の真相をカーマンは墓場まで持っていってしまった。

誤認逮捕のダメージは大きく、85年5月12日にオランダでラクチャートと2度目の対決を行なってから次の試合まで、1年5ヵ月もの長いブランクをつくることになってしまった。

とはいえ、刑務所に入っている間もカーマンは練習を欠かさず、ときには面会に訪れたオランダ目白ジムのヤン・プラス会長が持つミットで練習することもあったと聞く(日本と比べると、オランダの刑務所は自由の度合いが大きい。テレビが設置された個室もある)。出所直後に組まれた再起戦ではキャリア史上唯一、スキンヘッドでリングに上がっている。

現役引退後の2006年、『UFC57』で弟子のブランドン・ヴェラのセコンドに付くカーマン 現役引退後の2006年、『UFC57』で弟子のブランドン・ヴェラのセコンドに付くカーマン

今、「We are kickboxers」のフェースブックには83年当時のカーマンたちのオランダ目白ジムでの練習風景がアップされている。動画の概要欄の冒頭に名前が記されたカーマン、ブリリマン、ミロの3名はもうこの世にいない。

(つづく)

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布施鋼治

布施鋼治ふせ・こうじ

1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。

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