東京ドームで大番狂わせを演じて日本ウェルター級王座を獲得し、人気ボクサーとなった吉野弘幸の現役時代(撮影/ヤナガワゴーッ!) 東京ドームで大番狂わせを演じて日本ウェルター級王座を獲得し、人気ボクサーとなった吉野弘幸の現役時代(撮影/ヤナガワゴーッ!)

5月6日、東京ドームで行なわれる井上尚弥vsルイス・ネリ戦は、同会場での34年ぶりのボクシング興行としても話題を集めている。東京ドームでの初のボクシング興行は1988年3月21日、初来日したマイク・タイソンの防衛戦。その前座第1試合で、日本ウェルター級タイトルに挑戦し、圧倒的不利の下馬評をくつがえして勝利したのが吉野弘幸だ。この一戦をきっかけに国内屈指の人気ボクサーになり、毎試合、後楽園ホールの観客を熱狂させた。前編記事に続き、吉野が生い立ちから引退後の現在まで、波乱万丈な人生を語る!

■貧しい幼少期に出会った偉大な世界王者

「東京ドームはとにかく広くて、お客さんとの距離もすごく遠く感じた。そのぶん、逆にまったく緊張しなかった。自分の試合からタイソン戦まで時間もあるし、東京ドーム自体が珍しいからか、試合が始まってもビールやつまみを買ったりしてうろうろ歩き回っているお客さんが多かった」

1988年3月21日、ボクサーとして初めて東京ドームのリングに上がり勝利した吉野弘幸は、36年前の思い出を柔和な表情で話した。

「試合を終えて控え室で着替えているとき、タイソンも間近で見た。もちろんオーラは凄かったけど、意外と小さいなと感じた。それよりも、来賓のシュガー・レイ・レナードに会えたことのほうが感動した。レナードの大ファンだったからね。試合後、レナードに『グッドファイト!』と声をかけてもらえた。試合から1年後には、『吉野、おめでとう!』というメッセージが書かれたポートレートを贈ってくれた。それは本当、嬉しかった」

「タイソンと会うより感動した」という世界5階級制覇したレナードとの記念撮影。1年後、メッセージ入りのポートレートが贈られてきた(吉野氏提供) 「タイソンと会うより感動した」という世界5階級制覇したレナードとの記念撮影。1年後、メッセージ入りのポートレートが贈られてきた(吉野氏提供)

豪快な戦いぶりで後楽園ホールを熱狂させた一方、普段は穏やかで誰に対しても謙虚な人柄が愛された吉野。しかし太陽のように明るい笑顔とは対照的に、その人生は壮絶で苦労は幼少期から絶えなかった。

吉野は東京・葛飾に生まれた。両親と3つ年下の弟と4人暮らし。父親は身体が弱く入退院を繰り返す日々で、母親が昼は運送会社の事務、夜はちゃんこ料理店で働き一家を支えた。父親は吉野が小学6年のときに他界したが、母親は高額な入院治療費を捻出するため闇金融からも借金していたことがのちにわかった。返済が遅れれば脅しの電話がかかり、自宅にチンピラまがいの取り立て屋が来て、近所に「金返せ!」というビラが貼られたりもした。そして中学3年のとき、さらに借金が膨らむ不幸に見舞われた。

「お袋は優しいけどお人好しで、ちゃんこ料理店の主人に騙されて借金の連帯保証人になってしまってね。店は倒産して店主が逃げて、代わりに背負わされた借金のせいで自宅を売り払うことになった。それからは、運送会社に借りてもらった古いアパートで暮らすようになった」

家計を案じて高校進学を諦めた吉野は、中学卒業と同時に母親が勤める運送会社に就職。同時に目指したのが、プロボクサーだった。

小学5年のとき、吉野は父親の入院先の病院で、当時ボクシングのみならずスポーツ界の大スターだった具志堅用高氏に偶然会いサインをしてもらったことがあった。吉野はそのとき、「将来、俺も具志堅さんのように偉大な世界チャンピオンになって、大金を稼げるようになりたい」と誓った。

悔しさや貧しさからの脱却。強さに対する憧れ。そんなさまざまな思いが、吉野をプロボクサーの道に導いたのだった。

17歳、中華料理店の出前持ち時代。デビューから2試合連続KO負けするもチャンピオンになる夢は諦めなかった(吉野氏提供) 17歳、中華料理店の出前持ち時代。デビューから2試合連続KO負けするもチャンピオンになる夢は諦めなかった(吉野氏提供)

全盛期のファイトマネーは日本王者としては破格の350万円まで上がったという(撮影/ヤナガワゴーッ!) 全盛期のファイトマネーは日本王者としては破格の350万円まで上がったという(撮影/ヤナガワゴーッ!)

■叶わなかった40歳での現役復帰

2004年8月13日、37歳の誕生日を迎えた吉野はJBCルールによるライセンス失効のためリングに上がることはできなくなった。それと同時に現在のジム「H's STYLE BOXING GYM(エイチズスタイルボクシングジム)」をオープン。ただし現役続行は諦めていなかった。元王者や世界挑戦経験者、世界ランカーであれば健康診断の結果に異常がない場合は、最後の試合から5年以内に申請すればライセンス再交付を受けられるというルールがあったからだ。

「37歳でライセンス失効したときは『とにかく気持ちがまた燃え上がるのを待とう』と。プロ加盟せずフィットネス目的のジムを出して生活を安定させてから復帰しようと考えた。それで3年過ぎて40歳になった頃、JBCで審査してもらうことにした。何日かして、『ルールが5年以内から3年以内に変更されたので、復帰は認められません』と書かれたFAXが1枚送られてきた。『何か別の形でボクシング界に貢献してください』みたいなことが書かれていてね。

まだ戦いたいのにリングには上がれない。かといってまた他の格闘技に転向するわけにもいかない(吉野は96年末に東洋太平洋ウェルター級王者から陥落後、一度引退し1試合だけK-1に出場。その後、ライセンスが再発行されボクシング界に復帰)。そうこう悩んでいる間に、実戦練習はしていなかったのに右目の視界が狭く感じられるようになり、病院で検査を受けたら『網膜剥離です』と言われてしまってね......」

右目の網膜剥離は手術を受けて治すことができた。しかし、2002年10月の試合で右目が「眼球麻痺」になったとき、治療には時間がかかりそうだったため、手術せず現役を続行した。その影響で距離感のズレはよりひどくなっていた。それでも、ライセンス失効後も現役復帰を模索していたが、ほかにも身体のいたるところに治療が必要な箇所が出てきた。気持ちも燃え上がらない中、現実的に現役復帰は厳しいことを受け入れざるを得なかった。

17歳でデビュー以来、プロボクサーとして倒し倒されという試合を20年間、51回も繰り返した代償は、肉体的にはあまりに大きかった。吉野はそれでも、あらゆる犠牲を払い続けてきたことになんら後悔はないと言い切る。

「ボロボロになってもいいんだよ、それが俺の人生、俺の姿なんだからさ。60、70歳になってもやりたい。そういう気持ちもある。(リングは)生きざまを見せられる場所。それって、普通に生活していたらできないこと。言葉は悪いけど、『プロボクサーとしてならば、リングで死んでもいい』という気持ちで戦ってきたから」

必殺の左フックを武器に、日本ウェルター級王座を14度連続防衛した吉野弘幸。この記録は同階級では現在でも史上最多 必殺の左フックを武器に、日本ウェルター級王座を14度連続防衛した吉野弘幸。この記録は同階級では現在でも史上最多

現在は自身のジム「H's STYLE BOXING GYM」を経営。自らもミットを構えて指導している 現在は自身のジム「H's STYLE BOXING GYM」を経営。自らもミットを構えて指導している

■唯一無二のボクシング以上に大切な存在

経営するジムはフィットネスがメインで、将来的にプロ選手を育てたい気持ちもなくはないが、やはり「選手を育てるよりも、自分自身が何かに挑戦したい」という気持ちのほうが強いそうだ。そうしたさまざまな思いを巡らせながら、吉野は現役復帰に見切りをつけてからの人生を歩んできた。

吉野は「ボクシングは自分が生きた証(あかし)。自分そのもの」と話す。しかし唯一、ボクシングと同じ、いやそれ以上に大切にしている存在があった。

「ジム経営はずっと自転車操業でなんの贅沢もできない(笑)。奥さんが本当に頑張ってくれているから、なんとか続けられている。ホントに感謝。奥さんがいなかったら営業できてないもん。いま一番、大切にしているのは奥さんの存在だね」

ジムのマネージャーとして切り盛りする妻、知子とは23歳のとき、友人の紹介で知り合った。初デートは後楽園ホールでボクシング観戦。スイミングのインストラクターだった彼女はさばけた性格で化粧っ気もない。そんな飾らない様子に初対面で惹かれた。2度目のデートで映画を観たあと、「俺はこの人を愛すると決めたら一生尽くすと決めている」と素直な気持ちをそのまま伝えた。

1993年6月23日、吉野はWBA世界スーパーライト級王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)に挑み、敗れた。この日から2人は一緒に暮らし始めた。

知子は、コッジの左アッパーで胸骨を折られるなど負傷した吉野を献身的に看病し、精神的にも支えた。当時抱いた感謝の気持ちは忘れていない。出会いから30年以上過ぎ、56歳になったいまも、吉野は妻に対して何ひとつ変わらない気持ちで向き合っていた。

「でも彼女は恥ずかしがり屋だから、そういう話を書かれることはきっと嫌がる」と、吉野は右手で前髪をかきあげながらはにかみ、笑った。

最後に、36年前、ボクサーとして初めて東京ドームのリングに上がり勝利した吉野に、まもなく同会場で日本人初のメインイベンターとして戦う井上尚弥について聞いた。

「もちろん井上尚弥のKO勝利を期待している。ネリも本当強いと思うし、ダーティーな一面もある。『食ってやろう』という気持ちでいるだろうから怖さもある。でもすっきり、完璧にネリが『参りました』と言うような試合を見せてほしいよね」

取材の最後、稀代の左フックで数々の名勝負を生み出した左拳を撮影した。ファインダーを覗きながらシャッターを切り続けるうち、筆者の心の中で後楽園ホールの観客席を埋め尽くした熱狂的ファンの「吉野コール」がこだました。

数々の名勝負を演じた吉野の左拳 数々の名勝負を演じた吉野の左拳

●吉野弘幸(よしの・ひろゆき) 
1967年8月13日生まれ、東京都葛飾区出身。1985年プロデビュー。88年3月に獲得した日本ウェルター級王座は14度連続防衛(同階級では現在でも歴代最多記録)。同王座返上後、93年6月に世界初挑戦するも王座獲得はならず。その後、東洋太平洋ウェルター級、日本スーパーウェルター級のベルトを腰に巻いた。プロ戦績51戦36勝(26KO)14敗1分。97年9月には大阪ドームで開催されたK-1に参戦し、1回KO勝利を収めた。現在、地元葛飾でH's STYLE BOXING GYMを経営。

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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