九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。
つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。今回は、3年に渡る中国でのコーチ生活を終えた松岡が、母校・明治大学にコーチとして招聘され、毎年プロ野球に名選手を送り込んだ5年間と、成功する選手の条件について話を聞いた。
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明治大学で〝御大〟島岡吉郎の薫陶を受けた松岡功祐は、母校からの「コーチとして戻ってほしい」との要請に応えた。当時の監督は広沢克己(元阪神タイガースなど)、竹田光訓(元大洋ホエールズ)と同期で、キャプテンをつとめた善波(よしなみ)達也だった。2008年に監督に就任して以来、2019年秋に勇退するまで12年間で9度のリーグ優勝を果たした名将だ。
2010年から5年間、コーチとして彼を支えたのが松岡だった。
東京六大学では、早稲田大学のエースで4年間で通算31勝を挙げた斎藤佑樹(元北海道日本ハムファイターズ)、福井優也(元東北楽天ゴールデンイーグルスなど)、大石達也(元埼玉西武ライオンズ)の3人が卒業したのがこのタイミングだった。
明治大学では4年生には荒木郁也(元阪神タイガース)、3年生には野村祐輔(広島東洋カープ)、阿部寿樹、島内宏明(東北楽天ゴールデンイーグルス)、2年には上本崇志(広島東洋カープ)、1年には岡大海(千葉ロッテマリーンズ)らがいた。
松岡がコーチ就任当時をこう振り返る。
「島岡さんが亡くなってから20年以上経っていました。グラウンドも寮も移転していて、昔の〝島岡イズム〟と感じられるものは少なくなっていました。ユニフォームに縫いつけられていたイノシシのマークもなくなっていたし。島岡さんのことを知っているのは善波監督くらいでした」
猛練習で選手たちを鍛え上げるスタイルではもうなくなっていた。寮生活における理不尽なルールは過去の話だった。
「島岡監督時代に僕たちが経験したことを選手たちに話したところでうまく伝わらない。『島岡さんはこうだった』とか『こんな指導を受けた』と言っても、『いつの時代のこと?』と思っただけだったでしょうね。マンガのようなエピソードばかりだし(笑)」
■50年近く前と変わらないもの
だが、時代が変わり指導者が代わっても、不変のものがあった。それが明治大学野球部の強さの秘訣でもある。
「ライバルである法政大学にもいい選手がたくさん入ってきます。実績のある選手を競わせて鍛えるというのは明治大学も同じですが、ほかと違うのは私生活。合宿所の規律、過ごし方、野球に対する取り組み方に〝島岡イズム〟がしっかりと残っていました」
グラウンドの左中間方向に建てられた島岡の銅像にお参りをして、校歌を歌うところから野球部の一日が始まる。9時から授業がある選手の練習開始時間は朝の5時30分だ。前日に夜更かしする選手はひとりもいない。
「リーグ戦の試合前、ひとりひとりに監督がユニフォームを渡すというのは昔から変わりません。緊張のあまりに眠ることができずに遅刻した選手がひとりだけいましたけど、昔からのスタイルが続いています」
善波監督と松岡が寮に泊まり込み、週末には別のコーチがやってくる。
「大学生はもう大人ですが、すべてを彼らに任せきりにするわけにはいきません。監督とコーチがいることで、選手たちにはいい緊張感が生まれますから」
糸原健斗(写真:時事)
福田周平(写真:時事)
自身も内野手だった松岡は特に、二遊間の選手を鍛え上げた。その代表格が糸原健斗(阪神タイガース)と福田周平(オリックスバファローズ)だった。
「あのふたりには数えきれないくらいのノックを打ちました。糸原も福田も、どんなに厳しい練習でも食らいついてきました。彼らは社会人野球を経由してプロ野球に進みましたが、30歳を過ぎても一軍でプレーできているのはこれまでの蓄積があるからでしょう。福田は167センチ、糸原も175センチと大柄ではありませんけど、どっちも勝負強くてしぶとい選手です」
リーグ戦中であっても練習量は落とさなかった。
「試合で勝とうが負けようが関係ない。試合後に寮に戻ってから必ず守備練習をやりました。性格的には好対照。糸原はしっかりしていて、福田は大阪出身らしく調子がいい。どちらも技術も根性もあるから、社会人で頑張ってプロから指名されたんだと思います」
■毎年、プロ野球に選手を送り込む
東京六大学のリーグ戦でベンチに入れるのは25人だけだ。ほかの大学は、数人のピッチャーと代打以外のメンバーを使うことは多くない。しかし、この頃の明治大学の選手起用は積極的だった。
スタメンに入れた選手を2打席で代えることは珍しくなかったし、ベンチ入りメンバーを入れ替えるのは日常茶飯事だった。選手層が厚いとはいえ、なかなかできることではない。
「それができたのは、善波監督の眼力がすごかったから。その選手の調子を見極める力、相手との相性を探る力が飛び抜けていました。だから、ヒットを打った選手でもスパッと代えるし、実績のない若手も思い切って使う。日頃から選手のことをしっかり見ている監督でなかったらできないことです」
それは技術だけではない。性格や生活態度もしっかりと見ている。
「すべてがわかっているから、起用された選手が頑張るし、いい結果が出ました。生活態度に緩みがあると判断した選手は、戦力として欠かせなくても、外すこともありました。そうすることでチームに緊張感と競争意識が生まれました」
カリスマ監督だった島岡御大の指導を受け入れながら、現代風に変えて選手の能力を伸ばすのが〝善波流〟の指導だった。
「キャッチャー出身ということもあって、ピッチャーを見る目がすごい。ピッチャーの短所を矯正させたら、善波監督以上の人はいない。天下一品です。柳裕也(中日ドラゴンズ)にはピッチングの時にある癖が出ていたんですが、すぐに直しましたからね」
明治大学の選手は2010年以降、15年連続でドラフト指名を受けている。2014年からは5年続けてドラフト1位だった(2014年:山崎福也・バファローズ 2015年:高山俊・タイガース、上原健太・ファイターズ 2016年:柳裕也。ドラゴンズ 2017年:齊藤大将・ライオンズ)。糸原や福田のように社会人野球を経由してプロ野球選手になった選手もいる。
リーグ戦で何度も優勝し、プロ野球に選手を送り込む――これができたのは善波監督の眼力、松岡の指導力があったからだ。しかし、どれだけ高評価を得てプロ野球選手になっても、全員が全員、成功するわけではない。
「みんな、それぞれにいいものを持っていますが、プロ野球の世界に入ったらあとは性格勝負だと思います。長いシーズン、調子がいい時も悪い時もある。だから、性格の暗い選手はダメですよ」
松岡が見るところ、明るい選手のほうが壁を乗り越える可能性が高い。
「なかには、ものごとを悪いほうに悪いほうに考える選手がいます。プロになればできて当たり前だから、褒められることなんかめったにない。その分、気持ちは明るくいかないと。長嶋茂雄さんなんか、いつも底抜けに明るかったじゃないですか(笑)」
■成功するために必要な「好かれる力」
ドラフト指名を受けてプロ野球に入る選手たちは、基本的に球団を選ぶことはできない。希望球団に入れたとしても、監督、コーチは数年で交代することがある。
「いいコーチに巡り合えるかどうか。これはひとつの縁だし、運です。カープの新井貴浩監督がプロ入りした時、大下剛史コーチに鍛えられた。監督やコーチに好かれない選手は試合に使ってもらえません。使ってもらえなければ実力を発揮することは難しい。『100回失敗しても使うぞ』と言われれば頑張りますよね」
指導者にも「好かれる力」が必要だと松岡は言う。
「信用してくれる人がいて後ろ盾があれば、思い切ってプレーできます。これは大事なことです。僕の場合、三原脩さんに言われた『松ちゃんは実戦向きだからな』のひと言で、自分の長所を見失うことなく、頑張ることができました。指導者の言葉は大きな力を持っています」
自身の経験から、松岡は自分から選手に近づいていくことにしている。
「注意を受ける時、人のうしろに隠れるような選手よりも近くにいるやつのほうがかわいいですよ。何かを言われる時には、チャンスがある。何も言われなくなったらもう終わりです。無視されることほどつらいことはない。それがわかるから、僕はどんな選手であっても近づいていって話しかけます」
今日も元気か? 朝ごはんをちゃんと食べてきたか? それだけでもいい。
「僕は学生や選手に対して、『おまえに関心がある』ということを示すために、そうしてきました。あいさつしても返事を返さない指導者もいますけど、あれが一番よくない」
明治大学で育った松岡はあいさつに厳しい。
「あいさつしても、ほんの少しだけ頭を下げるだけのやつがいます。そういうのを見ると僕は『ちゃんと声を出せよ』と言います。『なんぼ耳が遠くなっても、このくらいの距離なら聞こえるぞ』と冗談で。普段、声の出ない子はプレーも消極的だったりしますからね。あいさつは自分からいくらしても、減ることはありませんよ(笑)。人からしてもらってうれしいことは積極的にやればいい」
松岡はグラウンド以外の態度にも目を光らせてきた。
「その子がどんな人間なのか、どんな状態なのかは、声を聞いて、姿勢を見ればわかります。これまでいろいろな人と接してきましたから、これには自信があります。
相手の気持ちはわからないかもしれないけど、気遣いは伝わってくる。そういう人のことは好きになるはずです。いい関係ができさえすれば解決できないことはないと僕は思っています」
■引退後も球団から求められる選手
どれだけ騒がれて入団したドラフト1位でも、いずれはユニフォームを脱ぐ時が来る。
「選手に戦力外を通告する時、球団に残すべき選手かどうかを考えます。その時に大事なのは、人間力です。『どんな人間なのか、組織のために何ができるのか』を見ています。まともにあいさつもできないのに、チームに貢献できるとは思えませんよね。そういう部分は球団内でもよく話題になっていました」
明治大学野球部OBは、引退後もコーチや球団スタッフとして求められることが多い。
「いずれはみんな、引退します。糸原や福田にも、『そういう時のことを今から考えながらプレーしておけよ』と言っています。まわりの人はレギュラーから外れた選手のことをよく見ていますから。普段の振舞いが本当に大事です。
明治の後輩たちはみんな評判がいいですね。『一生懸命にやっていますよ』と言われると、自分が褒められるよりもうれしい。4年間、明治大学で教育されたことの証明だと思います」
明治大学での5年間、松岡は身を粉にして後輩の指導に当たった。プロ野球だけではなく、社会人野球に進んだり、中学や高校の指導者になった者もたくさんいる。
そんな松岡の献身的な姿を認めたのが、中日ドラゴンズで4度のリーグ優勝を飾った名将・落合博満だった。
なんと齢72歳にして、プロ野球(NPB)復帰を果たすこととなる。
第12回へつづく。次回配信は2024年5月18日(土)を予定です。
■松岡功祐(まつおかこうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。