5月3日に神宮球場で行なわれたナイターゲームで、ある「事件」が起こりました。ホームに中日を迎えたヤクルトは6回まで3-0でリードしていたものの、7回表に1点差まで詰め寄られます。その裏の2アウト・ランナーなしの場面で、デッドボールで出塁した山田哲人選手の代走として岩田幸宏選手が起用されました。
2021年の育成ドラフト1位で入団した岩田選手は、今年の3月に初めて支配下登録され、1軍の試合に出場するようになりました。俊足が特長の選手で代走としての起用が多く、見事にその期待に応えていましたから、3日の試合もリードを広げるために盗塁が期待されていたのは間違いないでしょう。
代走として1塁に立ち、2塁を陥れようと大きなリードをとった岩田選手でしたが......齋藤綱記投手の巧みな牽制にタッチアウト。球場は大きなため息に包まれました。
流れを失ったヤクルトは次の回に同点にされ、なんとも嫌なムードが漂います。最終的には延長11回裏、塩見泰隆選手のサヨナラツーランで劇的な勝利を収めたのですが、試合終了と同時に号泣する岩田選手の姿をカメラが捉えていました。
その試合まで盗塁を2回試みて、どちらも成功していた岩田選手。あの代走の場面にかける意気込みも並々ならぬものがあったのでしょう。試合後の涙には、大事なチャンスを潰した悔しさが滲み出ていました。そんな岩田選手を、西川遥輝選手をはじめ、多くのチームメイトが慰めていたのも印象的で、思わずもらい涙をした方も多いのではないでしょうか。
岩田選手が、塩見選手のサヨナラホームランが出るまでどんな心境でいたかを考えると、胸が押しつぶされそうになります。代走のスペシャリストとして期待された場面で、盗塁失敗ではなく、まさかの牽制アウト。もしかしたら、その後の進退さえ頭をよぎったかもしれません。
以前にインタビューした時に、育成から支配下登録されたばかりの岩田選手は、ひとつのチャンスも無駄にできない"背水の陣"で今シーズンに臨んでいると感じました。
支配下登録されたことをお母さんに電話で報告したら、お母さんが涙を流した、という素敵なエピソードもありますが、今はスタメンでは出られなくても、少ないチャンスをモノにしてプロとして生き残ることに必死なはず。だからこそ、チームを勝ちに導けなかったことが不甲斐なかったのでしょう。最終的になんとか勝てたことで肩の荷が少しだけ下りたことも、試合後に涙した要因のひとつだったかもしれません。
スペシャリストというのは、とても厳しいポジション(と言っていいかわかりませんが)だと思います。たとえばピンチの場面でワンポイントで出てきたリリーフは、ヒットを打たれてしまった場合も、次の打者で挽回する間もなく交代となります。
バントを決めて当然、といった雰囲気も同じです。ムーチョ(中村悠平の愛称)選手はバントが上手で、「決めて当たり前」と思われているようですが、それも選手にとって重圧になるでしょう。10回の打席で4本ヒットを打てば首位打者になれる野球というスポーツで、10割の成功を求められるバントは、とても難しいプレーだと思います。
「この選手なら絶対に成功させる」といったイメージは、長い時間をかけて選手自身が築き上げたものですが、1回でも失敗すると、その失敗のイメージが強く残ります。それを払拭し、再び信頼を獲得するのは大変なことでしょうね。
バントや盗塁が予想される場面では、間違いなく守備も警戒を強めます。そんな中で決められるのは、本当にすごいことだと思います。アレックス・ラミレスさんがDeNAの監督時代に口にした「明日は違う日」という名言がありますが、スペシャリストは「明日がないかもしれない」という思いで戦っているかもしれません。
先ほど紹介した岩田選手の牽制死は、あくまで攻めようとした結果ですし、試合の失敗は試合で取り返すしかありません。次のチャンスでは盗塁もそうですが、素晴らしい走塁を見たいです。その時の走塁には、どれだけの思いが込められているのでしょう。次に岩田選手がいい走塁を見せた時は、村上宗隆選手のホームランと同じくらい、岩田選手に大きな拍手を送りたいと思います。
試合の要所で登場するスペシャリストの活躍に注目するのはもちろん、もし失敗してしまっても、次の機会には大きな拍手と声援で背中を押したいと思います。
それでは、また来週。
★山本萩子(やまもと・しゅうこ)
1996年10月2日生まれ、神奈川県出身。フリーキャスター。野球好き一家に育ち、気がつけば野球フリークに。
2019年から5年間、『ワースポ×MLB』(NHK BS)のキャスターを務めた。愛猫の名前はバレンティン