2012年のロンドン五輪で競泳日本代表チームの主将を務めた松田。事前に五輪経験者の談話をチーム内で共有するなど、個人だけでなくチームとして結果を残すことにこだわった 2012年のロンドン五輪で競泳日本代表チームの主将を務めた松田。事前に五輪経験者の談話をチーム内で共有するなど、個人だけでなくチームとして結果を残すことにこだわった
私は、五輪という場所がどういうものなのかは、実体験を通して学んできたと思っています。

最初のアテネ五輪(2004年)は右も左もわからず、がむしゃらに挑んだ感じでした。自分なりに考え頑張ったつもりですが、メダルには届かなかったし、自分の力を出し切ることもできませんでした(400m自由形8位、200mバタフライ準決勝敗退、1500m自由形予選敗退)。自分は五輪では結果を出せない人間なのかもしれない、という嫌なイメージが頭をよぎりました。

メダルを獲った選手とそうでない選手の明暗は残酷なまでに分かれることも経験しました。レースが始まるまではたくさんの取材を受けましたが、メダルが獲れずに終わると取材に来る人はいなくなりました。アテネから帰国する飛行機のシートがメダリストはビジネスクラスで、そうじゃない人はエコノミークラス。帰国後、さまざまなイベントやメディアに出演するのもほとんどがメダリストでした。

悔しかったですが、その悔しさはモチベーションとして大きな力になりました。結果がすべての世界ですから、水泳選手として生計を立てていくには五輪で結果を出すしかない、と痛感しました。

帰国後に考えたことは、「どうやったら五輪で結果を出せるのか?」その一点だけでした。メダルを獲ったチームメイトたちと自分とで何が違ったのかを考え続けて、思い当たることはすべてノートにメモしました。そんなとき、なんとなく見ていたテレビの映像に釘付けになりました。

アテネ五輪といえば、北島康介さんが男子平泳ぎ(100m、200m)で2冠を達成し、国民的スターになった大会です。100m平泳ぎ決勝の映像では、北島さんが金メダルを勝ち獲ると「やっぱり北島強かった」の名実況が入り、北島さんが力強いガッツポーズを決めます。次の瞬間、レースを応援していたスタンドの日本代表チームが映し出されました。その光景に私は衝撃を受け、自分とは違う何か大きな力がそこにあることに気づきました。

北島さんのレースを応援していた日本代表のチームメイト、コーチ陣、トレーナーや科学スタッフ、マネージャー、そのみんなが抱き合って、涙を流して喜んでいました。これだけの仲間たちが応援し、日本代表チーム一丸となって北島さんと一緒に戦っていたのか。

当時の私は、競泳は個人競技ですから、「自分の努力がすべて」と思っていました。確かにレースはひとりで泳ぎますが、スタート台に立つまでにはさまざまな人たちのサポートがあります。自分ひとりで頑張ろうとした私と、日本代表チームとして結束した北島さんのパフォーマンスには大きな差がありました。

五輪という最高峰の舞台で結果を出すには自分自身が努力するのは当然で、周りから応援され、周りの力を自分の力に変えられることが必要なのだと、五輪はひとりでは戦えないのだと学んだ瞬間でした。

以降の3大会(北京、ロンドン、リオデジャネイロ)ではこの教訓を胸に戦いました。意識したのは、「自分を応援してくれる人を増やす」ことです。自身のコーチや家族だけでなく、日本代表のチームメイトやそのコーチ陣、スタッフ、スポンサー、ファンの皆さんに地元の人たち。メディアも、敵にするより味方になってもらいたい。そう意識が変わってから、より水泳が楽しくなり、日本代表として五輪で戦うことを楽しめるようになりました。

松田が有終の美を飾った、リオ五輪男子800mリレーメンバーの面々。(左上から反時計回り)萩野公介、江原騎士、小堀勇気、そしてアンカーの松田とつなぎ、同種目では1964年東京五輪以来52年ぶりの銅メダル獲得を果たした 松田が有終の美を飾った、リオ五輪男子800mリレーメンバーの面々。(左上から反時計回り)萩野公介、江原騎士、小堀勇気、そしてアンカーの松田とつなぎ、同種目では1964年東京五輪以来52年ぶりの銅メダル獲得を果たした
日本代表チームには同じ種目を泳ぐライバル選手もいますから、敵対視することもできます。しかし意外だったのは、日本代表のチームメイトや所属の違うコーチ、科学スタッフらに泳ぎの技術的な課題やトレーニング内容等の相談をすると、みんな喜んで教えてくれるのです。相談に乗った人は他人事ではなくなりますから、その後フィードバックの機会も生まれ、よりコミュニケーションは深くなっていきます。

スポーツ医科学チームのサポートも大いに力になりました。選手やコーチはどうしても主観的になってしまいますが、測定データを定期的に取ることで自分の状態や課題を客観的に知ることができます。彼らはより具体的な視点で選手の課題を指摘し、解決方法も共に考えてくれるのです。

限られた時間と気力と体力で何に注力するのかは、常に正し続ければなりません。パフォーマンスを上げるために必要な心技体のあらゆる要素の精度を上げることで成長のスピードが上がり、4年に一度という極めて少ないチャンスの中で目標に辿り着く可能性を高めることができます。

また、選手には日々、体にも心にもさまざまなストレスがかかり、孤独を感じる瞬間もあります。チームメイトやスタッフ、応援してくれる人たちとコミュニケーションをとることでストレスや孤独から解放され、心の安定にも繋がります。

2012年のロンドン五輪では、私は競泳日本代表チームのキャプテンでしたから、自分だけでなく、どうやったらチームとして結果を出せるのかを考え実行しました。チームの結果を最大化するには全員がそれぞれの持ち場でベストを尽くす必要があります。かつて自分がそうだったように、五輪初出場の選手は右も左もわからない状態ですから、選手ミーティングを何度も開いて五輪経験者の話を事前共有し、少しでも大会本番のイメージが湧くようにしました。

日本の水泳史を紐解くと、過去には五輪の舞台で結果が出せない時期もありました。民間企業であるスイミングクラブや大学など、各所属での強化を主体として挑んだ大会では所属の垣根が生まれ、経験や情報の共有が十分にできず、互いに切磋琢磨する関係性も築けず、日本代表チームとしての一体感が醸成されなかったそうです。結果的に本番で緊張やプレッシャーからタイムを落とす選手が多く、結果も伴いませんでした。その反省から所属の垣根を取り払い、ひとつのチームで戦うことが日本競泳界の伝統となっていきました。

2016年4月に開催された、リオ五輪選手選考を兼ねた日本選手権会場の写真。「センターポールに日の丸を!」のスローガンのもと、「日本の競泳をもう一度強くしたいという思いで、皆が団結していた」と松田は振り返る 2016年4月に開催された、リオ五輪選手選考を兼ねた日本選手権会場の写真。「センターポールに日の丸を!」のスローガンのもと、「日本の競泳をもう一度強くしたいという思いで、皆が団結していた」と松田は振り返る
私が出場した4つの五輪では、「センターポールに日の丸を」というチーム目標を掲げ、みんなで日本の競泳をもう一度強くしようという気持ちで一致団結していたと思います。前回の東京五輪2020大会はコロナ禍での開催で、感染予防対策による行動制限によりチームで過ごす時間が限られ、チーム力を醸成するだけの機会を持てませんでしたが、今年のパリ五輪こそは日本競泳陣伝統のチーム力を発揮してほしいところです。

企業でも協会でも、人が集まれば所属や部署で縦割りとなり、垣根が生じる可能性はありえます。共通の目標を掲げ、垣根を取り払い、課題を明確にして議論し、アクションプランを実行することができれば、個人としてもチームとしても理想に近づけます。

限られた時間とチャンスの中で成果を出さなければならないのは、スポーツだけでなく仕事でも人生でも同じです。そもそも我々の人生が有限ですから、その限りある時間の中で自分の理想をつくり上げていかなければなりません。自分の努力にプラスして、周りから応援され、周りの力を自分の力に変えられる人が成長のスピードを上げることができ、自分の理想に近づくことができるのだと思います。

松田丈志

松田丈志Takeshi MATSUDA

宮崎県延岡市出身。1984年6月23日生まれ。4歳で水泳を始め、久世由美子コーチ指導のもと実力を伸ばし、長きにわたり競泳日本代表として活躍。数多くの世界大会でメダルを獲得した。五輪には2004年アテネ大会より4大会連続出場し、4つのメダルを獲得。12年ロンドン大会では競泳日本代表チームのキャプテンを務め、出場した400mメドレーリレー後の「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」の言葉がその年の新語・流行語大賞のトップテンにもノミネートされた。32歳で出場した16年リオデジャネイロ大会では、日本競泳界最年長でのオリンピック出場・メダル獲得の記録をつくった。同年の国体を最後に28年の競技生活を引退。現在はスポーツの普及・発展に向けた活動を中心に、スポーツジャーナリストとしても活躍中。主な役職に日本水泳連盟アスリート委員、日本アンチ・ドーピング機構(JADA)アスリート委員、JOC理事・アスリート委員長、日本サーフィン連盟理事など

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