ロブ・カーマン(右)のK-1ラストファイトとなった96年12月8日、名古屋レインボーホールでのジャン・クロード・リビエール戦(写真/東京スポーツ新聞社) ロブ・カーマン(右)のK-1ラストファイトとなった96年12月8日、名古屋レインボーホールでのジャン・クロード・リビエール戦(写真/東京スポーツ新聞社)

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第27回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

■伝説の『K-2 GRAND PRIX'93』

2024年3月31日に亡くなった〝帝王〟ロブ・カーマン(オランダ)。1987年11月の初来日から日本では長らく全日本キックボクシング連盟を主戦場にしていたが、93年以降はその活路をK-1に求めた。K-1デビューは同年12月19日、東京・両国国技館で開催された『K-2 GRAND PRIX'93』だった。

K-1同様、世界中のチャンピオンやトップファイターを集めた8人制のワンデートーナメントだ。K-1との最大の違いは制限体重が82kg以下に設定されていたことだった。ライトヘビー級は79.3kg以下なので、主にこの階級の選手にスポットライトを当てた大会にしようとしていた。

なぜこの階級の大会を実施したかといえば、同年4月の第1回K-1に出場した選手の体重差が、最重量のトッド〝ハリウッド〟ヘイズ(アメリカ)と最軽量のチャンプア・ゲッソンリット(タイ)の間で実に38㎏もあったからだ。

第1回K-1で初来日し決勝まで進出したアーネスト・ホースト(オランダ)も当時はライトヘビー級がベストウェイトだった。同大会の準々決勝では優勝候補の一角を占めていたピーター・アーツ(オランダ)を撃破したが、その後、アーツが望むワンマッチでの再戦には難色を示していた。

カーマンにも第1回K-1への出場オファーが舞い込んでいたが、ホースト同様、適正体重はライトヘビー級だったので、首を縦に振ることはなかった。背伸びをしてヘビー級に挑戦することはあまりにもリスクが大きいと判断したのだ。

しかし、適正体重である80㎏前後の契約体重であれば問題はない。K-1同様、優勝賞金は10万ドルと高額だったことも手伝い、K-2出場の打診を受けると、カーマンは快くOKを出した。ほどなくして1回戦(準々決勝)の相手はチャンプアに決まった。チャンプアとは過去にパリ、アムステルダム、バンコクと世界を股にかけて激突。1勝(1KO)2敗と負け越していたので、ストーリー性を考えるとこれ以上ない相手だった。

ライバル、チャンプア・ゲッソンリット(右)との4度目の対戦が『K-2 GRAND PRIX'93』で実現(写真/長尾 迪) ライバル、チャンプア・ゲッソンリット(右)との4度目の対戦が『K-2 GRAND PRIX'93』で実現(写真/長尾 迪)

半年前に開催されたK-1での活躍の印象が強く残っていたホーストを優勝候補に推す声もあったが、それ以上に過去の実績でカーマンの優勝を推す声のほうが多かった。何を隠そう、筆者もそのひとりだった。過去にカーマンはホーストと地元アムステルダムで2度戦い、いずれも勝利を収めていることもその予想を強固なものにしていた。

カーマンとホーストは別ブロックにいたので、「決勝で3度目の対決が実現するのか?」と勝手に妄想を膨らませていたが、現実はそう甘くなかった。初戦のチャンプア戦で、2ラウンドに左ストレートを食らってダウンを喫したマイナスポイントが響き、判定負けしたのだ。

1ラウンドからサウスポーに頻繁にスイッチするなど、カーマンはチャンプア必殺の「左」をもらわないように策を講じていた。しかし1R中盤、相手が放ったローをカットした際、バキッという骨折したときに発せられるような破壊音とともに右スネの古傷──手術した縫合部分がパックリと開いてしまうと全てが狂ってしまった。

ときおり焦りの色を見せ、冷静さを欠いた打ち合いに行ったのも、全てはそのせいだったかもしれない。それでも、ケガをしていることが嘘のように猛反撃に出たのはさすがとしかいいようがなかった。判定の結果を待つカーマンからは哀愁すら漂っていた。こんな帝王の姿を見るのは初めてだった。

まさかの戦意喪失

カーマンが再びK-1の舞台に上がってきたのは13ヵ月後、パリで開催された『K-2フランスGP'95 トーナメント・オブ・$100000』だった。

当初は85kg以下のワンデートーナメントで、ホーストも出場すると聞いていたが、決戦直前になると、契約体重は90kgでホーストは出ないという話が伝わってきた。前回のことがあるので、カーマンには大きな期待を寄せていなかったが、決勝では地元フランスのジェローム・トゥルカンを4R左ハイキックで葬って優勝した。

トーナメントのハイライトは準決勝で実現したタシス〝トスカペトリディス(オーストラリア)戦だろう。僅差の判定でカーマンが薄氷の勝利を得たが、試合の主導権はトスカが握っており、そのジャッジに場内は大ブーイングすら沸き起こったという。

ヨーロッパでは今でも「?」を付けざるをえない判定やレフェリングが散見される。このとき、大会主催者は地元のトゥルカンより、以前から興行の柱として起用していたカーマンを勝たせたかったのか。

おまけにこのトスカ戦でカーマンは右眉をカット。流血戦を余儀なくされたが、決勝ではローキックでじわじわとダメージを蓄積させ、フィニッシュのハイキックへとつなげた。振り返ってみれば、晩年のカーマンにとってこの日が最大のクライマックスだった。この大会を最後にK-2絡みのトーナメントが行なわれることはなかった。

K-1でのラストファイトは96年12月8日、名古屋レインボーホールで組まれた新進気鋭のヘビー級戦士であるジャン・クロード・リビエール(アメリカ)戦だった。

計量時、カーマンの体重は91.4kgまで増えていた。これまでカーマンの通常体重は86㎏だったので、このときは近い将来のK-1参戦を見越して、無理に5kg以上増量しているようにも思えた。

それでも、1ラウンドには往年の対角線のコンビネーションでリビエールを攻め込んだ。KO勝利は時間の問題とも思われたが、ここでカーマンの前に階級の壁が立ちはだかった。リビエールは一見効いているように見えても、すぐに回復しダウンするまでには至らないのだ。逆に中盤になると、カーマンがロープを背に防戦一方になる攻防もあった。かつてのカーマンを知る者にとっては目を覆いたくなるような場面だった。

結末は唐突に訪れた。5ラウンド、カーマンはローキックを放つと自らダウン。両グローブを枕にするような体勢のまま10カウントを聞いてしまったのだ。

まさかの戦意喪失だった。このときすでにカーマンの両スネは致命的なダメージを負っていた。とりわけ左スネには大きな穴が空いており、鮮血が滴り落ちていた。

時代の流れを感じずにはいられなかった。時計の針を止めたかった。この試合を迎えるまでカーマンには約2年のブランクがあり、その間は俳優として映画の撮影を中心とした生活を送っていたという。36歳になっていたレジェンドがその地位のまま安泰でいられるほど、時の流れは甘くなかった。

試合後、カーマンは潔く敗北を認めた。

「18年間闘ってきて、若かった頃のハングリー精神は薄れてきている。逆に今の若いファイターはハングリー精神に満ちている。そのへんでも差がついてしまったのかなと思う」

帝王の落日。かつての栄光が走馬灯のように流れては消えていく。もうこの時点でカーマンが座るイスはどこにも用意されていなかった。

1987年に初来日し、当時人気が低迷していた日本のキックボクシングを盛り上げたロブ・カーマン(写真/長尾 迪) 1987年に初来日し、当時人気が低迷していた日本のキックボクシングを盛り上げたロブ・カーマン(写真/長尾 迪)

99年10月24日には地元オランダで引退試合のリングに立った。対戦相手はのちにK-1でも活躍するアレクセイ・イグナショフ(ベラルーシ)。内容では明らかにイグナショフが押していたが、ジャッジは3名ともカーマンを支持した。

その直後、カーマンは「いやいや、勝者は俺じゃないよ」と言いたげに、イグナショフの右手を上げた。帝王は最後まで帝王だった。

(つづく)

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布施鋼治

布施鋼治

1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。

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