九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。
つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。落合博満GМからの誘いで中日ドラゴンズのコーチ兼選手寮館長となった松岡が感じたドラゴンズの強さの秘密、そして、プロ野球界から去っていく選手たちに松岡が伝え続けた、生きていくための教えとは何だったのか?
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前回の連載で事の経緯はお伝えしたが、松岡がドラゴンズのコーチ兼選手寮館長に就任するにあたり、落合博満GMからは一点、「絶対に選手に手を出さないで」とだけ言われたという。
「落合さんはグラウンドには出ないけど、毎日、選手寮『昇竜館』のミーティングルームに来ました。練習後に1時間か2時間、野球の話をして帰っていく」
プロで輝かしい実績を残した選手が、二軍で調整することも多かった。
「その頃、山本昌や川上憲伸、岩瀬仁紀、浅尾拓也、吉見一起あたりが二軍で練習することがありました。みんな年齢を重ねてピークは過ぎていたんですが、投内連携(投手と内野手の守備練習)では全員がまったく手を抜かない。普通なら、流す選手がひとりくらいいるもんですけど、全員がピシッとやる。あれはすごかった。落合さんの教育の賜物だと思います」
監督からGМ時代にいたるまで、落合イズムの徹底が強い中日をつくりあげていった(写真:共同)
なかでも松岡を驚かせたのは、50歳まで現役投手として投げ続けた山本昌だった。
「山本昌のキャッチボールの丁寧さを見て、本当にびっくりしました。どんなに近い距離でも、相手の胸を狙って投げる。遠投になっても、相手が構えたグラブを外すことがない。
『どうしてそんなに丁寧に投げるの?』と一度、聞いたことがあります。すると『僕は絶対にあそこ(相手のグラブ)に投げると決めています。だから僕はこの歳まで現役でやれるんです』と言っていました」
山本昌はプロ32年間で219勝を積み上げた。41歳1カ月でノーヒットノーランを達成、49歳0カ月での勝利(最高齢)も挙げている。
「ひざの痛みを抱えながらも、よく走っていました。二軍の選手にとってはこれ以上ないお手本でした。川上もプレーは丁寧だし、いつも全力でした。強いチームはベテランがしっかりしていますよね」
松岡が現役選手だった時とはプロ野球は大きく変わった。
「今の選手たちは、先輩であっても友達感覚で接していますね。昔は監督、コーチはもちろん、先輩とは話ができなかった。同じチームでもそうなんだから、ほかの球団の選手と話をすることはありませんでした」
今はチームの垣根を越えて自主トレをしたり、技術を教え合ったりすることも珍しくない。
「もし今のプロ野球だったら、自宅が近所だった王さんのところに行って『バッティングを教えてください』と言ったでしょうね。でも、そんなことはありえなかった。グラウンドであいさつするので精一杯でした」
他球団の選手は、あくまで敵だった。自チームの選手でも技術を教えることはなかった。
「侍ジャパンでもいろいろ教え合っていますよね。ダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)に投げ方を教えてもらってよかったという選手もいるでしょうけど、コーチからすればとんでもないこと。彼らの立場がなくなりますよね。そういうことも考えているのかなと心配しています。
人から教わることでよくなることもあれば、逆に悪くなることもある。その選手の状態や成長の過程を一番知っているのは、そのチームのコーチだと思うんですけどね」
松岡は2018年限りでコーチを退任。2019年12月いっぱいで昇竜館の館長もやめた。
「プロ野球は新入団の選手と同じ数だけ、シーズン後には退団していく厳しい世界です。僕がクビになる選手に言ったのは『次のステージで頑張りなさい』ということ。『せっかく一生懸命に野球をやってきたんだから、合同トライアウトでも独立リーグのテストでも受けて、もう1回自分の力を試してみたら』と」
プロ野球は、誰もが入れる世界ではない。
「選ばれた人間だけがプレーできる世界で勉強してきたことは、ほかでも役に立つと思います。『だから、胸を張れ』と言います。そして、お世話になった人のところには必ずあいさつに行くようにと」
プロ野球に入る時にはできても、戦力外になった時にはそれを怠る選手が多い。
「僕には何度も自分がクビになった経験があるから、彼らの気持ちはわかります。高校や大学の恩師のところに、いい時には会いにいけるけど、悪い時は難しい。でも、そこでちゃんとあいさつに行けるかどうかですよ」
松岡はコーチとして、スカウトとして、いろいろな選手の「その後」を見てきた。プロ野球で成績を残しながらも、セカンドキャリアでつまずく人もいる。反対に、成果を残せなかったプロ野球での経験を糧に、次のステージで輝く者もいる。
「本当に、いろいろな人がいます。プロでいい成績を残してものすごい金額を稼いだとしても、それはその時だけのこと。人生は長い。ずっと現役選手でいられる人はどこにもいないので。
誰だって、いい時も悪い時もあります。だから、人のつながりを大事にしてほしい。僕はベイスターズのコーチのあとにスカウトになり、その後、中国や明治大学でコーチをやった。ある時、落合さんの目に留まって、70歳を超えてからまたプロ野球のコーチになれました」
高校、大学、社会人、プロ野球で現役生活を送り、コーチ、スカウトとしてさまざまな経験を積んだ松岡だから言えることがある。
「どこで誰が見ているかはわからない。自分でやるべきことに一生懸命になるしかありません。そうすることで、道が開けることがあるかもしれない。
僕は人の縁に恵まれて、いろいろな球団やチームにお世話になりました。その場所、その場所で友達も多くなったし、引き出しも増えました。ものすごい財産になっています」
76歳で松岡はドラゴンズを去った。しかし、野球の神様はまだ松岡を休ませてはくれない。また新たなステージが待っていたのだ。
第14回へつづく。次回配信は2024年6月15日(土)を予定しております。
■松岡功祐(まつおかこうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。