松岡がコーチとして携わった火の国サラマンダーズの初代監督は、現役時代には西武やソフトバンクで活躍した捕手・細川亨氏だった(写真:時事) 松岡がコーチとして携わった火の国サラマンダーズの初代監督は、現役時代には西武やソフトバンクで活躍した捕手・細川亨氏だった(写真:時事)
【連載⑭・松岡功祐80歳の野球バカ一代記】

九州学院から明治大学へ入学。そしてかの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任、現在は佼成学園野球部コーチとしてノックバットを握るのが松岡功祐、この連載の主役である。

つねに第一線に立ち続け、"現役"として60年余にわたり日本野球を支え続けてきた「ミスター・ジャパニーズ・ベースボール」が、日本野球の表から裏まで語り、勝利や栄冠の陰に隠れた真実を掘り下げていく本連載。4年前に日本中がコロナ禍の自粛ムードに包まれる中、中日ドラゴンズのコーチと寮長から退いた松岡が呼ばれたのは、故郷・熊本に籍をおく2つのチームだった。

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2020年が明けた時、その後の数年間、日本全国が、いや世界中があんなことになると想像できた人はいなかったはずだ。新型コロナウイルスの感染が拡大し、普通の生活が奪われることになった。

3月11日、春のセンバツの中止が決まった。その夏に開催されるはずだった東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まったのが3月30日。5月20日には、夏の甲子園も開催されないことが発表された。

日本中に自粛ムードが広がるなか、松岡功祐は出身地の熊本にいた。

「中日ドラゴンズを辞めたあと、熊本市にある文徳高校(甲子園出場2回)でコーチをしていました。チームは力をつけていて、『来年は甲子園に行けるぞ』という時に、サラマンダーズができたんです」

プロ野球独立リーグのひとつである「九州アジアリーグ」に所属する火の国サラマンダーズは、2021年から活動するための準備を進めていた。

「熊本に初めてできるプロ球団だから、力を貸してほしいと言われました。一緒に練習をしてきた高校生のこともあるから断ったんですが、『どうしても協力してほしい』ということでそこに加わりました」

高校生たちと交わした「一緒に甲子園に」という約束を果たせないことに対する申し訳なさはあったものの、松岡はサラマンダーズの総合コーチに就任することを決断した。

監督は埼玉西武ライオンズなどで活躍した細川亨だった。

「投手コーチは熊本出身の馬原孝浩(元福岡ソフトバンクホークスなど)、元DeNAベイスターズの吉村裕基が選手兼打撃コーチでした」

プロ野球で実績のあるコーチ陣が揃っていたが、発足したばかりのチームには課題が多かった。

「2月1日にキャンプが始まったんですが、まず食事が出てこない。細川監督が知人を頼って用意してもらうような状態でした。設備や生活環境という部分では恵まれているとは言い難かった。試合をするために遠征に行っても、夜の食事は用意されない。自分で都合しないといけないんですよ」

もちろん、食・住、練習場所、設備などはプロ野球時代と比べることなどできない。むしろ、強豪大学の野球部のほうが充実していた。

「選手たちの給料は少ないから、食事も十分には食べられない。節約しないとやっていけません。体のケアも満足にできない。シーズンオフはアルバイト生活です。そんななかで野球に集中して取り組むのは本当に大変です。おまけに、戦力的にも厳しい」

NPB(日本野球機構)に所属しない独立リーグが生まれたのは2005年。今では、四国アイランドリーグPLUS、ベースボール・チャレンジ・リーグ、関西独立リーグ、北海道ベースボールリーグ、九州アジアリーグ、北海道フロンティアリーグ、日本海リーグなどがある。いずれもNPBの12球団に人材を送り込むことを目指しているが、プロ野球からドラフト指名される選手は限られている。

「大学や社会人のチームを辞めてきたという選手もたくさんいます。経歴はまちまちで、いわゆる野球エリートはほとんどいない。才能も、完成度という部分でも、強豪大学や甲子園常連校よりも劣っています。だから、よっぽど頑張らないとプロ野球へ行くことはできません」

遠征先まで何時間もバスに揺られ、試合が終わったあとには宿泊もせず、そのまま戻ってくることも珍しくない。トレーニングもコンディション調整も思うようにはいかない。そんな環境で力を蓄え、プロ野球のスカウトにアピールするのは至難の業だ。

「ストレートが速くてもコントロールがない。長打力があってもなかなかバットに当たらない。安定して力を発揮できる選手はほとんどいません。練習に取り組む姿勢を見ていると、『もう野球はあきらめて、違う仕事を探したほうがいい』と言いたくなることもありました」

走攻守が揃ってなくても、何かが突出した選手のほうが可能性はある。

「足が速いとか、肩が強いとか、何か飛び抜けた長所がある選手でないとスカウトの目には留まらない。プロで実績のあるコーチに教わったら伸びそうだという選手でない限り、独立リーグでのプレーはおすすめできません。家庭の事情で大学進学ができないという場合は別ですが」

当然、1年1年が勝負になる。

「プロを目指すのなら、年齢的には26歳まででしょうね。僕はスカウトも長くやったし、明治大学でコーチも務めた。素材という部分では物足りない選手ばかりです。ハングリーさという部分で評価できる選手もなかにはいましたけどね」

高校、大学、社会人で活躍する選手に比べると話題になることは少なく、プロ野球への道は険しい。

「独立リーグのチームからプロ野球に行ける可能性は本当に低いです。プロの選手は毎日、食べ放題、飲み放題、練習し放題ですから。でも、野球に対して真剣で、一発勝負をかけるのなら、独立リーグでプレーするのはアリ。ただ、中途半端な気持ちでは絶対にうまくいかないということだけは心に留めておいてほしい」

独立リーグのコーチをして、気づいたこともある。

「全国には『プロ野球選手になりたい』という子がたくさんいることがわかった。僕は長くその世界にいましたが、やっぱりプロ野球は野球少年たちが憧れる場所なんですね。そういう熱を感じました。

ホークスやオリックス・バファローズと試合ができて、僕も楽しかったですよ。相手チームのスタッフには知った顔が多いですしね。サラマンダーズの選手たちはドラフト指名された選手と自分の違いがわかったんじゃないでしょうか。三軍であっても、やっぱりプロ野球選手はすごい」

2021年9月、シーズンを終えると松岡はサラマンダーズを離れた。80歳を目前に控えて再び、高校野球のコーチに就任することになったのだ。

第15回へつづく。次回配信は2024年6月29日(土)を予定しております。


■松岡功祐(まつおかこうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている

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元永知宏

元永知宏もとなが・ともひろ

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、出版社勤務を経て独立。著書に『期待はずれのドラフト1位』『敗北を力に!』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『トーキングブルースをつくった男』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』(東京ニュース通信社)など

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