5月18日、ベルギー1部リーグ・シント=トロイデンVVで19年に及ぶ現役生活に幕を下ろした岡崎慎司(おかざき・しんじ)。サッカー日本代表のエースナンバー9番を背負い、歴代3位の50得点、歴代5位の119試合出場を記録したレジェンドだ。
引退会見では「後悔だらけ」と語りつつも、晴れやかな表情で今後のプランを表明。アドバイザーとして発展に寄与してきたドイツ6部リーグのFCバサラマインツで8月から監督を務め、故郷・兵庫県の兄弟チームであるFCバサラ兵庫の理事としてもJリーグ入りを目指す岡崎に、じっくり話を聞いた。
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■監督からするとわかりづらい、難しい選手だった
――現役生活お疲れさまでした。休むことなく監督業をスタートさせるそうですが、これまでに大きな影響を受けた指導者はどなたですか?
岡崎 滝川第二高校時代の黒田(和生)先生やコーチだった荒川友康さん(現バサラ兵庫トップチーム監督)。あとは「一生ダイビングヘッド」という言葉で、諦めない姿勢を植えつけてくれた小学校時代の山村(俊一)コーチです。
僕は小学生から高校生までが重要だと思っていて、そこまでに教わったことの応用編がそれ以降続いている感じでした。
――プロ生活では監督からの扱いに悔しさを味わうことも多かったですよね?
岡崎 監督からすると、僕っていろいろな意味で難しい選手だと思うんです。チームのためにやるべきことはやりますけど......。
特に、海外の監督からしたら、その先のポテンシャルを感じられない選手というか。特別に足が速いわけでもなく、ジャンプ力も普通。すごいドリブルをするわけでもない。サッカーに必要な要素のうち、特別なものはあまり持っていなかったので。
――岡崎さんはサッカーゲームなどで能力を数値化しづらい選手だったかもしれません。
岡崎 そうかもしれませんね。監督からすれば、「能力の高いFWを入れて状況を打開しよう」と単純に考えることもあったでしょうし。
ただ、だからこそ、選手を続けながら(監督としての目線に立って)自分をどのように扱うかを分析している感覚はありました。自分みたいなわかりづらい選手を、監督がどのように扱うかを見ていたというか。
――では、現役時代に良い監督だと感じた方は?
岡崎 プロに入って最初の監督である長谷川健太さん、(ヨーロッパの頂点に立ったこともある)トーマス・トゥヘルや(昨季はスペインの弱小ジローナFCを率いてレアル・マドリード、FCバルセロナに次ぐ3位に入った)ミチェルなど。少なくはないんですけど......。
■ロシアW杯直前、西野さんに言われて心が震えた言葉
――岡崎さんの能力を最も買っていた監督のひとりが、2018年のロシアW杯で日本代表の指揮を執った西野 朗さんでした。ヴァイッド・ハリルホジッチが大会開幕の約2ヵ月前に解任され、急遽バトンを託された西野さんは、就任後すぐにヨーロッパへ飛び、代表候補選手と会って回りました。当時負傷中だった選手が多かった中、岡崎さんにだけは、ケガさえ癒えればW杯メンバーに入れる、と伝えていたそうですね。
岡崎 西野さんから伝えられたときはビックリしたんですよ。海外で長くやってきて、そう言ってくれた監督はひとりもいなかったので。むしろ、監督に自分のことを認めさせようとずっと頑張ってきたわけで。「こういうことってあるのか! うれしいな」と。
僕は「監督のために頑張る」というタイプではないですけど、「この監督のために、日本代表のために貢献したい」という気持ちになりました。あれは僕が一番言ってほしかった言葉かもしれないです。「おまえが必要だ」と言われたいとずっと思っていたから......。
――実際、ハリルホジッチ監督の下、岡崎さんの出場機会は徐々に減っていました。
岡崎 (アピールしようと無理をしたことが)膝のケガにつながってしまった部分もあり、後悔しているんですよ。
――18年2月のケガのことですか?
岡崎 はい。右膝の後十字靱帯を痛めたんですけど、それまで評価してもらえなかったこともあり、当時はどこかイライラしていて。
所属していたレスター(・シティFC)での練習で、無理に足を出さなくてもいい場面で足を伸ばし、ほかの選手の膝と自分の膝がぶつかって痛めてしまって。後から考えれば、「なぜ無理に足を出したのか?」と......。
たぶん、「代表のためにも結果を出さなきゃ」という焦りやイライラがあったからで。結果論ではありますけど、悪いケガの仕方でした。
――その後は?
岡崎 3、4週間休み、痛みを抱えながら復帰したんですが、右膝をかばったせいで今度は右足首を痛めて......。結果的に、そこから2ヵ月くらいプレーできませんでした。
――その状況は焦りますね。
岡崎 西野さんが会いに来てくれたのはその時期でした。「W杯までに復帰できるのなら、おまえは絶対にメンバーに入れる」というような言葉をかけてもらって。でも、メンバー決定直前の5月にあった日本での合宿でも良くならなくて、監督からは「まだダメなのか?」と言われて、雲行きが怪しくなり......。
――W杯メンバー発表前最後の試合である5月30日の試合は途中出場しましたが?
岡崎 「ここで出られないようでは......」みたいな雰囲気だったので、「ここは無理するときだ!」と、その頃から練習に復帰したんです。
――その後、スイスとオーストリアで2試合をこなし、開催国ロシア入りしました。
岡崎 2試合やってロシアに着いたら、足がパンパンに腫れていて......。MRI検査をしたら血が見えて、ドクターから「復帰まで3、4週間かかる」と言われて。
でも、「僕の感覚的には大会までに治りそうな感じです」と伝えて、3日くらい治療に専念してから練習に復帰しました。初戦の前日でしたかね、全スタッフが集まって100%の状態で走れるかどうかチェックしてもらったんです。
――当時はバックアップメンバーである浅野拓磨選手が待機していましたが、登録メンバー変更期限である初戦前日には岡崎さんがメンバーに残ることが決まりました。
岡崎 その後も痛かったんですが、どうにかやれる感じで、最初の2試合に出ました。ただ、3試合目のポーランド戦で今度は逆の左足首を痛めて。最後に座り込んだじゃないですか? まともに動けなくなって。情けなかったなと。
――次のベルギー戦は日本サッカー史に残る激戦で2-3の逆転負け。岡崎さんはあの試合だけ、負傷のために出場できませんでしたね。
岡崎 「あのベルギー戦で自分が監督の選択肢として残っていたら......」とは今も考えます。期待はずれでしたよね、自分は。
冷静に考えたら、あのシーズンは所属するレスターで前半戦に6点決め、(世界最高峰のプレミアリーグで)2桁ゴール達成も見えていた状況だったのに、なぜあれほどイライラしていたのか。もっといいコンディションでW杯に臨めていたら、もっと貢献できたのに......。
――入れ替わる可能性もあった浅野選手には「ごめん、拓磨。今回は俺にやらせてくれ!」と伝えたそうですね?
岡崎 僕は「ボロボロの状態ならば辞退すべきだ」と考えるタイプでした。でも、あのときは「何がなんでもメンバーに入りたい」と思っていて。後ろめたさみたいなものがあったから、「ひと声かけなければ」と考えていたんです。
――そこに岡崎さんの人間性が表れている気がしますが?
岡崎 いや、人間性なんてキレイなものじゃないです。拓磨に対して話しながら、自分に言い聞かせていた感じが強いかもしれないです。話をすることで吹っ切りたい、みたいな感じだったと思います。
■サッカー選手という生き方が自分に最も合っていた
――貴重なお話ありがとうございます。充電期間を挟まず監督になる理由は?
岡崎 僕はサッカー選手という生き方が自分に最も合っていたと思うんです。追い込んで、結果を出して、何かを証明するみたいな。「戦いたい」とか「夢中になりたい」というのが自分の人生のテーマなのかなと。
だから、「自分がこの先、サッカー選手のように挑戦できる場はなんだろう?」と考えたら、「監督」という一択しかなかったんですよ。選手としてのメンタリティを継続し、尖った考えのまま勝負できる場はないかと考えたときに、ちょうど、バサラマインツの監督の枠が空いていたので。
――なるほど。
岡崎 僕は、指導者がやりたいというより、監督をやりたいんですよ! 選手に何か教えたいわけではなく、「戦いたい」というイメージです。
――岡崎さんらしいですね。
岡崎 だから、当初は「引退する」と宣言せず、5月にシーズンが終わって、何事もなく監督を始めようと考えていたんです。ただ、うちの奥さんから「今まで応援してきてくれたファンの皆さんはどうするの? 何も言わずに引退したら、ファンの皆さんを置いてけぼりにしてしまうよ」と言ってもらって。
――確かに現役最終戦では、交代でベンチに下がるとき、相手チームの選手も含めた全員が花道をつくり、岡崎さんの引退をねぎらう感動的なシーンがありました。
岡崎 ああいうカタチで思いも寄らないサプライズがあって。最終的にケガが引退の引き金にはなりましたけど、「あの試合まで頑張る」という目標があったから、最後のリハビリも頑張れました。結果的に、自分が想像もしていない終わり方になって満足できた感じでした。
■監督としてのキャリアは悔しさから始まった
――アマチュアリーグのドイツ6部で監督を務めながら、欧州のトップリーグの監督を務める際に必要なライセンス取得のため、イギリスで指導者講習に通い始めたとか?
岡崎 そもそも、英語でライセンスを取得しようなんて、まったく考えていなかったんです。授業は英語ですし、なんとか理解して、ノートに書いて、後で訳して、内容をしっかり理解する感じでした。
周囲にはすでに指導者をしている人ばかりでしたし、最初はディスカッションで自分の意見もほとんど発せず、悔しさを味わいました。でも、その悔しさを味わえたことで、「あぁ、いいスタートを切れたな」と思えたので。
――清水エスパルスに入団したとき、チームにいるフォワード8人のうち8番手からスタートした現役時代を彷彿とさせますね?
岡崎 そうなんですよ! ドイツでの戦いは8月から始まります。監督として若ければ若いほど、こうやってチャレンジができるわけで。今は38歳ですけど、45歳とかだったら、こんなスタートは切れなかったと思います。
――岡崎さんは小学生時代にコーチからかけられた「一生ダイビングヘッド」という言葉を、「最後まで諦めずに体を投げ出せ」というメッセージだと受け止めて戦ってきました。サッカー選手として、「諦めなかった」と胸を張れることはありますか?
岡崎 風邪をひいたとしても、悔しくても、練習に出続け、試合に出続け、挑戦の場をつくり続けてきました。日本代表のメンバーに(2019年6月以降は)入れなくなっても、ずっと代表入りを思い描いて挑戦し続けました。
ドイツ、イングランド、スペインと渡り歩いてきて、イタリアでプレーできなかった未練はありますが、挑戦は最後まで続けた。自分が決めた目標に対して、常に諦めずにやってきたサッカー人生でした。「挑戦することだけは諦めなかった」とは言えると思います。ちょっと大げさな答えかもしれないですけどね(笑)。
●岡崎慎司(おかざき・しんじ)
1986年生まれ、兵庫県出身。滝川第二高校を経て、2005年にJリーグ・清水エスパルス入り。11年からドイツ1部・VfBシュツットガルト、1.FSVマインツ05でプレー。15年にイングランド1部・レスター・シティFCに加入し、プレミアリーグ初優勝を経験。16年にはアジア国際最優秀選手賞を初受賞。19年からスペイン2部・SDウエスカに入団し、チーム得点王として優勝に大きく貢献(1部昇格)。22年からベルギー1部・シント=トロイデンVVでプレーし、惜しまれながら今年5月に現役引退。8月からドイツ6部・FCバサラマインツで監督業をスタートさせる。