布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第30回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
あの夏、ジョシュ・バーネットは日本の屋外会場で見た光景を忘れることができない。目の前には選手の登場を待つ9万人以上の観客の熱狂が渦巻いていた。
舞台は2002年8月28日、東京・国立競技場で開催された『史上最大の格闘技ワールドカップ Dynamite!』。このとき、ジョシュは〝柔術マジシャン〟アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと闘うボブ・サップのセコンドとして来日した。
この年の春、日本でデビューしたサップはPRIDEとK-1を股にかけた活躍で、底知れぬポテンシャルを秘めた存在として幻想が膨らんでいた。
サップの入場テーマ曲で、映画『2001年宇宙の旅』で有名な『ツァラトゥストラはかく語りき』が鳴り響くと、階上に設置されたゴンドラにスポットライトが当たった。写真や映像を見返すと、中央に陣取るサップの後方にジョシュの姿を確認できる。
当時24歳だったジョシュは自分が乗ったゴンドラのこともハッキリと覚えている。「巨体のファイターばかりが乗っていたからね。壊れなくて良かったよ(笑)」
K-1がスタートしてちょうど10年、日本の格闘技マーケットはピークを迎えようとしていた。今まで味わったことのない幾重にも重なり合った観客の声援に、ジョシュは胸の高鳴りを抑えきれなかった。
「ファイターだったら、現役中に絶対一度は目にしたい光景だった」
あれから二十数年、格闘技マーケットにおける日本とアメリカの立ち位置は大きく変わった。『Dynamite!』が開催されていた時期は間違いなく日本を中心に世界の格闘技マーケットは回っていた。しかし、K-1とPRIDEが衰退すると同時に、マーケットの中心はUFCが活動の拠点とするアメリカに取って替わられた。
ジョシュは、「いまやアメリカのファイトマネーは日本と比べると桁違いになっている」とため息をつく。
「でも、あの時代の日本の格闘技を見ていると、『自分がいるべき場所は日本だった』と強く感じるんだ。あのときの『Dynamite!』の会場にいたら、たとえアメリカのファイトマネーが莫大なものになったとしても、あの大会を超える大会がアメリカで開催できるとは思えない」
2000年代、日本のMMAの試合場はロープに囲まれた正方形のリングが主流で、オクタゴンなどケージ(金網)が流行る気配はなかった。筆者のような昭和世代から見ると、ケージに囲まれた舞台はどうしても金網デスマッチの凄惨な流血シーンを想起してしまうからだろうか。
ジョシュは「少なくともアメリカでも90年代はUFC=デスマッチというイメージが非常に強かった」と証言する。
「でも、時代とともにそういうイメージは払拭され、いまやケージは普通に使われるようになった。その傾向は日本でも同じだと思う。いまや日本のMMAでもケージを使う大会のほうが多くなっているだろう?」
ケージで闘うメリットは?
「ケージを使って動いたり、向きを変えたりすることができるので、それをもとに作戦を組み立てることもできる。ただ、アメリカでもいまだにケージは扉を閉められると、『もうその場所から逃げられない』というイメージが残っていることは確かだね」
MMA黎明期にはそういったイメージがさらに強かったせいだろう、アメリカでは「暴力的で危険」という理由で、激しいUFC反対運動が展開された。主導者はボクシングの既得権益を守ろうとする親ボクシング派の連邦上院議員、ジョン・マケイン(共和党)だった。
筆者は、この反対運動の風を思い切り受けたことがある。97年2月7日開催の『UFC12』を現地取材しようと当初の開催予定地であるニューヨーク州ナイアガラホールズに入ったが、大会前日になって反対運動の影響を受け開催地が変更になったのだ。
しかも当初の変更地であったオレゴン州も直前になってNGとなり、最終的にアラバマ州の田舎町に落ちついた。選手や関係者のために用意されたチャーター便にギリギリで搭乗させてもらった瞬間、得体の知れぬ汗がドッと吹き出たことを覚えている。あれほど大会前に疲れた取材はなかった。
主催者が会場変更を余儀なくされるほど強烈だった一連の反対運動について、ジョシュは「非常に政治的な問題だった」と切り捨てた。
「無能な政治家たちが何か新しいことをやろうとしたときにそれが反対運動と結びついた。あのような政治家は植林してから果物を育てるという発想がなく、すでに熟している果物をどこからか持ってくるような発想しかない人たちだったと思う」
結局、UFCは生き残るために階級制の導入、オープンフィンガーグローブ着用の義務化など、ルールを整備することで競技化を進め、州ごとに運営されているアスレチック・コミッションとの対話を図った。その努力は実を結び、2000年9月にはニュージャージー州のアスレチック・コミッションが全米で初めてMMAを認可するようになった。
ここからUFCの躍進は始まるわけだから、アスレチック・コミッションが果たした役割は大きいと思われる。しかし、ジョシュの目から見ると、反対運動が鎮静化したのはそのせいではないと言い切る。
「コミッションというのは本当に形だけで、これもまた無能な人たちの集まりです。無能な政治家が天下りする形でいい肩書をもらって居座っているだけ。実際、格闘技については何も知らないのに、口だけ出すという問題も起こっている。コミッションに携わっている人たちはリスクを負わずにお金だけを得ようとしているだけです」
ジョシュの立場を考えると、言葉にトゲがあるのも当然だろう。過去にドーピング検査で3度も禁止薬物が検出されたせいで、出場停止などの処分を受けているからだ。だが、彼の名誉のために付け加えておくと、2016年に3度目の出場停止処分が課された際は異議申し立てを行なった結果、処分は覆され「シロ」が立証されている。
筆者もドーピング検査を実施することには賛成だが、やるならば受けた選手が納得するだけの精度が求められるだろう。選手の寿命は長いようで短い。長期間の出場停止処分を受ければ、それだけで選手の人生は大きく変わってくるのだから。
競技化が進む中で、UFCは創成期の売りだったワンデートーナメント制を廃止し、マッチメークは全てワンマッチ形式に切り換えた。スタート以降、ずっとワンデートーナメント方式を代名詞にしているK-1とはえらい違いだ。その理由についてジョシュの見解は明白だ。
「これは競技の差ではなく、国としての格闘技の認識の差なんだと捉えています。日本ではトーナメント方式の試合に慣れ親しむ土壌が生成された結果、K-1グランプリは非常に大きな舞台に成長した。対照的にアメリカではいかに問題なくプロモーションしていくかということに重きを置いた。そう考えるとワンマッチ方式のほうがイージーだったということですよ」
22年前の夏、ジョシュが国立競技場で味わった未曾有の熱狂は何だったのか。あの『Dynamite!』を超える規模の格闘技イベントはいまだ行なわれていない。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。