小山田裕哉おやまだ・ゆうや
1984年生まれ、岩手県出身。日本大学芸術学部映画学科卒業後、映画業界、イベント業などを経て、フリーランスのライターとして執筆活動を始める。ビジネス・カルチャー・広告・書籍構成など、さまざまな媒体で執筆・編集活動を行っている。著書に「売らずに売る技術 高級ブランドに学ぶ安売りせずに売る秘密」(集英社)。季刊誌「tattva」(BOOTLEG)編集部員。
パリ五輪の開催を目前に控えた先月、衝撃的なニュースが飛び込んできた。「セーヌ川に排泄することで、五輪開催に伴う政府の対応に抗議しよう」と一部のパリ市民が呼びかけているというのだ。
パリの中心部を流れるセーヌ川は、水質汚染の問題が指摘されているにもかかわらず、トライアスロンなどの競技会場や開会式の舞台になることが決まっている。そのため、フランス政府は14億ユーロ(約2380億円)もの予算を投じた"水質浄化作戦"を実施。
マクロン大統領とパリのイダルゴ市長は、6月23日のオリンピック関連イベントに合わせ、自ら泳いでみせるとの約束までしていた。ところが、実際には十分に安全といえるほど水中の大腸菌レベルは改善されておらず、税金の無駄遣いだとの声が上がっていた。
前代未聞の"排泄デモ"は、それへの抗議なのだ。フランス在住の文筆家・翻訳者である佐々木夏子氏はこう説明する。
「これはネットで始まった抗議活動で、SNSを中心に参加が呼びかけられていました。賛同者のほとんどが匿名であることから、どこまで広がっている運動なのかは定かではありません。ただ、一定の支持はあったようです」
予定どおりには大腸菌の量が減らずイベントが延期されたため、この"排泄デモ"も保留になったが、開催直前の混乱ぶりは日本にも少なからぬ驚きを与えた(7月17日にイダルゴ市長単独でセーヌ川遊泳を決行)。
しかし、これはパリ五輪が巻き起こしている混乱のほんの一部でしかない。現地の反五輪団体「Saccage(サッカージュ) 2024」にも参加する佐々木氏は語る。
「フランスは移民や貧困層が多く、パリ五輪はそうした人たちも包摂する『国民統合』の大会であるとうたわれていますが、実態はまったく異なります。特に貧しい人々が暮らす郊外では、五輪の開催に向けた再開発が強引に進められたことで、立ち退きや労働災害などが頻発しています」
その背景には、2008年にサルコジ大統領(当時)が打ち出した「グラン・パリ計画」がある。パリの人口過密を改善するため、郊外に市民の生活圏を広げていくという大規模な都市計画だ。しかし、財源確保や各自治体間の調整で長らく計画が遅れていた。
「パリ五輪の招致は、このグラン・パリ計画を推進するためでした。五輪を名目に郊外の再開発を加速することが目的であり、『国民統合』というのは表向きに過ぎません」
佐々木氏は、パリ北部のサン=ドニ市の再開発を例に、こう説明する。
「計画の目玉は、『グラン・パリ・エクスプレス』というパリ郊外を環状線状につなぐ無人運転の地下鉄網です。高速道路のインターチェンジがあり、パリ郊外の交通の要であるサン=ドニには、そのターミナル駅である『サン=ドニ・プレイエル駅』(隈研吾設計)が建設され、新たな商業地区としての発展が期待されています。五輪招致のプランも、この駅周辺の開発を中心に提示されました」
しかし、ここは移民や貧困層が多く暮らす治安の悪い地域としても知られている。
「ガイドブックが観光客に注意を促すような場所です。そのままでは再開発が進まないため、パリ五輪が彼らを排除するための口実として利用されました。まず、選手村建設のため、低所得者向けの集合住宅や学校が取り壊されました。
五輪後の選手村は中産階級向けの住宅地になるため、多くの人々が行き場を失っています。お隣のリル=サン=ドニでは400人近くに及ぶ主にアフリカ(チャド、スーダン)出身の難民の追放も行なわれました。治安維持のための監視カメラの大量設置も進んでいます」
しかも、これらの施設の建設現場では、いくつもの事故が起こっている。
「コロナ禍で工事が中断したこともあり、サン=ドニでは各施設の工事が急ピッチで進められた結果、複数の死傷者が出るほどの重大事故まで起こりました。犠牲者の多くは低所得の肉体労働者です。
サン=ドニ以外の地域でも、既存の建物が急速にオフィスや観光客向けのホテル、マンションなどに建て替わっています。低賃金で危険な工事に従事する移民や貧困層のおかげで五輪が開催できるのに、彼らは五輪によって生活の場を失う。これのどこが『国民統合』でしょうか」
これほど問題が多いのなら、市民運動の激しさで知られるフランスでは、さぞ反対の声があふれているのでは?
「実際は反対運動の規模はそれほど盛り上がってはいません。冒頭の"排泄デモ"のように、さまざまな抗議活動はあります。ただ、それらは地域も団体もバラバラで、ひとつの運動体としてまとまっていないのです」
佐々木氏はその理由について、次のように解説する。
「まずは政治的な理由です。パリ市は長らく社会党や共産党といった左派が与党として君臨しています。五輪を招致したイダルゴ市長も社会党です。日本で五輪反対運動といえば左派が牽引するイメージですが、パリ五輪は左派が招致したこともあり、反対運動で政党や労働組合の協力を得ることができないのです」
しかも、フランスにおける左派の支持層は、五輪のような国民的スポーツイベントの支持層とも重なるという。
「サッカーW杯においてジネディーヌ・ジダンやキリアン・エムバペが人種的マイノリティの英雄になったように、フランスにおけるスポーツとは、移民の多くを占めるアラブ系やアフリカ系の人々によって支えられている数少ない領域です。
そのため、スポーツイベントに反対するなら、彼らの支持を失うことを覚悟しなければなりません。それは左派には不可能なのです」
一方で、アラブ系・アフリカ系の人口が国内で最も集中しているのが、再開発が著しいサン=ドニでもある。だから、立ち退きのような被害には抗議しても、五輪開催そのものの反対につながることはなかった。
「そして、最も根本的な理由は、フランス国民の五輪への興味のなさです。開催直前の世論調査でも、実に半数近くが『無関心』と回答しています。サッカー(W杯、EURO)が例外なだけで、みんなが同じコンテンツに熱狂すること自体が少ないのです」
加えて先日、極右政党の躍進と左派の逆転勝利があった総選挙まで行なわれ、五輪が話題に上ることはますます減ってしまった。
「左派としては、『これ以上、五輪開幕前に騒ぎを起こさないでくれ』というのが本音でしょう。実際、私たち反対派のイベントもパリ市から潰されています。『左派に分断を生んではいけない』というのが彼らの主張でした」
しかし、そのような主張をする時点ですでに分断は生まれている。仮にパリ五輪が成功したとしても、これは左派に暗い影を落とすだろう。しかも、フランス国民全体の関心も高まっていないのであれば、パリ五輪開催で得をするのはいったい誰か?
「結局、IOC(国際オリンピック委員会)だけでしょう。それは彼らもよくわかっていて、東京五輪のように批判が自分たちに向くのを避けるため、フランスではバッハ会長のメディア露出はほとんどありません。五輪は開催地のためではなく、IOCのための大会にほかならないのです」
最後に、「パリ五輪の顛末は日本人にとっても無関係ではない」と佐々木氏は言う。
「つい最近、パリ市内の施設から移民の若者たち200人以上が強制退去になりました。五輪期間中に東京都が東京の魅力をPRするための会場として使用するというのが理由です。彼らは『日本に居場所を奪われた』と憤っています。
こうした事実を日本の人々は知らされていません。五輪のもたらす悪影響は参加国にも及ぶのです。
また、東京五輪が終わったばかりですが、日本は再び五輪の開催地になる可能性があります。札幌市での冬季五輪の開催をIOCは諦めていないからです。温暖化によって世界各地の降雪量が減少する中、将来的に冬季五輪が安定的に開催できるのは過去の開催地では札幌しかないという論文も発表されており、彼らにとって魅力的な都市です。
東京五輪が不正まみれだったことが明らかになっても、その反省が生かされるどころか、パリでも問題は起こり続けています。こうしたことを繰り返さないためにも、日本の皆さんには今大会の実態に注目してほしいですね」
●文筆家、翻訳者 佐々木夏子(ささき・なつこ)
2007年からフランス在住。立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了。訳書にエリザベス・ラッシュ『海がやってくる──気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』(河出書房新社) など、共訳書にデヴィッド・グレーバー『負債論──貨幣と暴力の5000年』(以文社)など
■『パリと五輪 空転するメガイベントの「レガシー」』
佐々木夏子 (以文社)
パリと五輪の因縁の歴史から、反対運動の趨勢、オリンピックマネーの真相まで、最もパリ五輪問題に詳しい日本人が「平和の祭典」の裏側を暴く!
1984年生まれ、岩手県出身。日本大学芸術学部映画学科卒業後、映画業界、イベント業などを経て、フリーランスのライターとして執筆活動を始める。ビジネス・カルチャー・広告・書籍構成など、さまざまな媒体で執筆・編集活動を行っている。著書に「売らずに売る技術 高級ブランドに学ぶ安売りせずに売る秘密」(集英社)。季刊誌「tattva」(BOOTLEG)編集部員。