堀江ガンツほりえ・がんつ
プロレス格闘技ライター。1973年生まれ、栃木県出身。『紙のプロレスRADICAL』編集部を経て、2010年よりフリーに。『KAMINOGE』を中心にさまざまな媒体で執筆し、ABEMAでWWEの解説も務める。著作は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)など共著、編書含め多数。
いまだとどまるところを知らない大谷翔平(ショーヘイ)ブーム。だが、さかのぼること約60年前、アメリカに渡り、大活躍した元祖・ショーヘイがいたことをご存じだろうか?
本名・馬場正平(ばばしょうへい)。そう、全日本プロレスを旗揚げした、あのジャイアント馬場である。ニューヨークやロサンゼルスを沸かせたジャイアント馬場のショーヘイ伝説を振り返る。
大谷翔平旋風が止まらない。
昨年、満票で米大リーグ(MLB)2度目のMVPを受賞した大谷翔平。ロサンゼルス・ドジャースに移籍した今季も97試合を終えて打率3割1分5厘、30本塁打、70打点、23盗塁をマーク(7月22日時点、以下同)。本塁打はリーグ首位を独走し、打率は2位、打点は3位、盗塁は3位タイという好成績で、日本人選手初の三冠王、そして2年連続3回目のMVPも射程圏内に収めている。
まさに"世界のショーヘイ"と呼ぶにふさわしい活躍ぶりだが、実は大谷翔平が活躍する約60年前にも、アメリカのプロスポーツ界でトップを席巻した"元祖・世界のショーヘイ"とでも呼ぶべき日本人アスリートが存在した。それがショーヘイ・ビッグ・ババことプロレスラーのジャイアント馬場(馬場正平)だ。
ジャイアント馬場といえば全日本プロレスの総帥として、ライバルの"燃える闘魂"アントニオ猪木と共に長年、日本のプロレス界を牽引した昭和の時代を代表するスーパースター。
しかし、馬場が日本でトップレスラーになる前、1961年から23歳という若さでアメリカマット界でトップヒールとして君臨。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン、シカゴのアンフィシアター、セントルイスのキール・オーディトリアムなど、世界的にも有名な大会場でメインイベンターを務めたという事実は、熱心なプロレスファン以外にはそれほど知られていない。
60年代の初頭といえば、野茂英雄がメジャーで活躍し始める34年前で、さらにいえばマッシー・ムラカミこと村上雅則が日本人初のメジャーリーガーとしてサンフランシスコ・ジャイアンツで2シーズンプレーする3年前だ。
野球に限らず、アメリカのプロスポーツ界のトップで日本人選手が活躍することなど、まだ「夢のまた夢」と思われていたこの時代に、なんと馬場は全米各地のひのき舞台に立っていたのである。
今年2月、そんな馬場の偉大なる足跡と激動の人生を振り返るドキュメンタリー絵本『うえをむいてあるこう ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ』(作・くすのきしげのり、絵・坂上暁仁)が発売された。
プロレスラーの伝記が絵本という形で出版されることは非常にまれだが、それに至る経緯を馬場のめいでG・馬場権利管理会社取締役の緒方理咲子さんは次のように語る。
「叔父が亡くなってはや25年。プロレスラーのジャイアント馬場をまだ知ってくださっている方も多いと思うんですが、馬場正平という人を知ってくださる方はそれほど多くはないと思います。
叔父がプロ野球選手、プロレスラーとして歩んだ、『夢はかなうもの、かなえるもの』という生き方を、2020年に生まれた私の孫世代にも絵本を通じて伝えたいと思ったんです」
今から60年以上前に全米トップで活躍した"ショーヘイ"の足跡を振り返ってみよう。
ジャイアント馬場こと馬場正平は1938年、新潟県三条市生まれ。子供の頃から運動神経は抜群で、中学では野球部のエースとして活躍し中越地区優勝に貢献した。
体は小学校高学年時から急激に大きくなり、三条実業高校(現・三条商業高校)入学時には身長190㎝に到達。高校1年時は実力がありながらも馬場には合うスパイクがなく野球部に入ることができなかったが、高校2年時に特注のスパイクが与えられると念願の野球部に入部しエースで4番として活躍。
甲子園出場はかなわなかったが、規格外の巨体から放るピッチングが目に留まり、なんとプロ野球の読売ジャイアンツからスカウトの話が届いた。まだまだドラフト制度が整備されていない時代。馬場は高校を2年で中退し、16歳で投手として巨人軍に入団を果たした。"元祖・世界のショーヘイ"ももともとプロ野球選手だったのだ。
プロ入り後、まだ高校生の年齢だった1年目は体づくりに専念したが、2年目から早くも頭角を現し、2軍戦で12勝1敗の成績を残し2軍の最優秀投手賞にも選ばれている。翌3年目も13勝2敗の好成績によって2年連続で最優秀投手賞を受賞した。
しかし、2軍でいくら好成績を残しても馬場に1軍登板のチャンスはなかなか与えられなかった。その理由は巨人のチーム事情だけでなく、50年代という時代において身長2m超えの馬場の体はあまりにも大きく常に奇異の目にさらされ、スポーツ選手として正当に評価されづらかったことも影響していたといわれている。
結局、馬場は2軍で3年連続最優秀投手になりながらも自由契約となり、60年1月に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に移籍。新天地で今度こそ1軍で活躍するべく意気込んだが、開幕前の春季キャンプ中に宿舎の風呂場で転倒。体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針縫う重傷を負ってしまう。
このケガにより左肘の腱が切れ、左手の中指、薬指の関節が伸展できない状態が続いたため、プロ野球選手を断念。馬場正平のプロ野球生活は、1軍登板3試合、0勝1敗、防御率1.29。2軍最優秀投手賞3回という戦績で幕を閉じた。
失意のまま球界を離れた馬場。だが、209㎝の長身を誇りプロ野球選手になれるほどの運動神経を持つ逸材をプロレス界が放っておかなかった。60年3月、馬場はかねてプロレス入りの誘いを受けていた日本のプロレス界の父・力道山を訪ね入門を直訴し、日本プロレス入り。
通常、プロレスラーの収入は試合をしてファイトマネーを稼がなければ得られないが、力道山は練習生となった馬場に巨人軍時代と同額の月給5万円を保証した。当時は大卒初任給が1万6000円の時代、現在の貨幣価値にすれば70万円程度か。新人レスラーとしては超破格の待遇であり、馬場の存在はプロレス入りした時点ですでに規格外だったのだ。
馬場が日本プロレスに入門したとき、同期には力道山にスカウトされ移住先のブラジルから帰国したばかりの猪木寛至(いのき・かんじ)、後のアントニオ猪木がいた。当時、馬場が22歳で猪木は17歳。ここから終生のライバルとなるふたりだったが、新人時代から格の上で大きな差があった。
両者は60年9月30日、台東体育館で同日デビュー。猪木は大木金太郎に敗れたが、馬場はベテランの田中米太郎(よねたろう)に勝利。翌61年からは早くも大物外国人レスラーとも好勝負を展開するようになり、61年7月には力道山の命令によりデビュー10ヵ月で早くも武者修行のためプロレスの本場アメリカへと渡る。ここからショーヘイ・ババ伝説はスタートする。
通常、当時のアメリカにおける日本人(日系人)レスラーというのは、真珠湾攻撃を連想させるゴング前の奇襲攻撃を仕掛ける、卑怯で小柄な小悪党と相場が決まっていた。しかし、2m超えの長身を誇る馬場にそのようなギミックは必要なく、ショーヘイ・ビッグ・ババ、ババ・ザ・ジャイアントなどのリングネームで"東洋の巨人"として各地で興行の目玉となる。
そしてごく短期間でメジャーなテリトリーでメインイベンターに。渡米2ヵ月後の61年9月には、早くもニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンのリングに立ったのである。
マディソン・スクエア・ガーデンといえば、後にフランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、マドンナなど超一流アーティストが公演を行なう世界で最も有名なアリーナ。
馬場の師匠・力道山が出場を切望しながら実現できなかった世界的なプロレスの殿堂でもある。馬場はデビュー2年で日本の絶対的な英雄である師匠・力道山に、アメリカでの実績で上回っていたのだ。
馬場は渡米2年目の62年3月9日、シカゴ・アンフィシアターで時のNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに初挑戦。ロジャースは自分の対戦相手、敵役として"東洋の巨人"を大いに気に入り、ロジャースvsババのNWA世界戦は全米各地のメインイベントを飾った。
アメリカンプロレスの黄金時代でもあった60年代に全米屈指のメインイベンターとなった馬場は稼ぎも桁外れだった。ニューヨークで馬場は最高で週給1万ドルを稼いだという。1ドル360円の固定相場で360万円。現在の貨幣価値でいえばその10倍ほどか。それが1週間の稼ぎなのだ。
この時代の馬場の年収は軽く1億円を超えていただろう。力道山やマネジャーのグレート東郷に搾取されていたとしてもすさまじい額だ。その1億円も繰り返すが60年代前半の1億円なのだ。日本プロ野球界で落合博満が初の1億円プレーヤーとなったのは86年。馬場はその20年以上前にすでに、その数倍の額を稼いでいたのだ。
馬場の商品価値は、63年12月に力道山が暴漢に刺され急死すると、日米で"馬場争奪戦"となり、さらに高騰する。マネジャーだったグレート東郷が馬場をアメリカにとどまらせるために提示した額は、契約金16万ドル、年俸は手取り27万ドル。日本円で9720万円。現在の貨幣価値で10億円ほどだろうか。年俸もまた、60年代における"世界のショーヘイ"だったのである。
これだけの高額年俸が保証されながら、馬場は日本への帰国を決断した。その理由はひとつではないだろうが、めいの緒方さんは馬場の妻、元子夫人から生前こんな話を聞いている。
「人が人生の岐路に立ったとき、何を基準にして選ぶのか人それぞれあると思うんですけど、叔母(元子夫人)は『馬場さんはお金じゃなく、お世話になった人への感謝や自分を育ててくれた人への感謝のほうを選ぶ人なの。だからすごいギャランティを提示されても日本に帰ってくる道を選んだのよ』と言っていました」
馬場は64年に帰国する前、デトロイトでルー・テーズとNWA世界戦、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノとWWWF(現・WWE)世界戦、ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーとWWA世界戦を行なうという、世界三大タイトル連続挑戦の偉業を成し遂げている。これは日本人に限らず、世界中のレスラーで誰も成し遂げたことのない金字塔だった。
そして帰国後、力道山に代わって日本プロレスのエースとなった馬場は、65年にインターナショナルヘビー級王者になると、超一流外国人レスラーたちを相手に王座を守り抜き大活躍。
英雄・力道山の死の直後、世間では「これでプロレスはなくなる」と言われており、もし馬場が東郷の契約を受け入れ帰国しなかったら、そこで日本のプロレスは終わっていたかもしれない。60年代に全米で大活躍した"世界のショーヘイ"は、日本においてもプロレスというジャンルそのものを救ったのである。
プロレス格闘技ライター。1973年生まれ、栃木県出身。『紙のプロレスRADICAL』編集部を経て、2010年よりフリーに。『KAMINOGE』を中心にさまざまな媒体で執筆し、ABEMAでWWEの解説も務める。著作は『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス)など共著、編書含め多数。