パリの街は五輪の公式デザインの装飾に彩られている。大勢のボランティアが笑顔を振りまき、警察官がにらみを利かせる。世界中に配信される映像は、華やかで幸福感に満ちているはずだ。
しかし、見上げた空と足元の風景が違うように、楽園は存在しない。五輪の報道メディア関係者には、五輪期間中に地下鉄やトラム(路面電車)などをフリーパスで使えるカードが配られたが、筆者がそれを使ってトラムに乗ろうとしたときだった。
先客のフランス人男性は運賃が足りないことを示すブザー音が鳴ったにもかかわらず、構わず席へ。彼はボロボロの服を身にまとい、車内には鼻をつく悪臭が漂った。パリ五輪開催で、1回の乗車チケットが通常のほぼ倍の4ユーロ(約700円)に値上がりしたらしい。
地下鉄では、出口付近に座っていた初老の路上生活者がうつろな目を向けてきた。雨が降ったとき、すぐに避難できる地下鉄は便利なのだろう。車内に乗り込むと、中年男性がフランス語で個人的な経済事情を話した後、同乗者たちにお金をせがんでいた。周りはその姿に目を背け、財布も出さなかった。
たった数時間の出来事の話である。今回の五輪では、パリ市内の多くの路上生活者を、観光客が目にしない地域に押し込んだという。格差社会が急速に進行。今もアフリカからボートピープルがやって来るが、彼らの多くが街からはみ出し、あぶれてしまっているのだ。
弱者排除につながる五輪開催に反対する声は、根強く残っていた。開会式前日夜から未明にかけてパリを中心とした鉄道網を分断するような攻撃が加えられた一件も、そのひとつといわれている。
犯行声明などは出ていないが、「現政権に対するテロ」と在住記者が話していた。攻撃のせいで、なでしこジャパンの面々がパリまでの高速列車を使えず、急遽、警察のエスコートでバス移動することになった。
それは社会のひずみが表面化した形だ。そして、日本人である筆者も物価の高騰をひしひしと感じる。
例えば少ししゃれたビストロでは、リングイネの漁師風が30ユーロ、牛フィレステーキが40ユーロだった。筆者は前夜、材料だけでいえば3、4ユーロのリングイネを調理して食べていたので退散した。プロが作るものと自炊とでは違うにせよ、ランチで70ユーロ(約1万2000円)は強敵だ。
オープンテラスが満席で繁盛している店だが、ややお手頃のランチメニューが26ユーロ(デザートをつけると33ユーロ)だった。約4500円。せっかくのフランス旅だが、これも躊躇した。
そこで、中華料理店からくら替えしたような店構えだったが、パリでは人気の和食の店へ。サーモンたっぷりの海鮮丼は15ユーロだった。約2500円は許容できるが、北海道や北陸で食べるような代物ではない。日本だったら、チェーン店のすし屋の海鮮丼が半値以下で食べられる。
そこで、「もういっそ、隣のひなびた中華料理屋でラーメンでも」と思ったが、12ユーロ、約2000円だった。「まずかったらどうしよう」と尻込みした。少し先に行くと軽食屋があり、大手ファストフードよりは風情があった。バゲットのサンドイッチとコーラのセットで8ユーロ(約1400円)だが、本当に食べたいのか?
ちなみに、スーパーマーケットで売っているカップラーメンが5ユーロ(約850円)だった。かつて世界を席巻した円は、今や恐ろしく弱い。ヨーロッパでは物価が高くなると同時に給料も上がってきたが、日本は経済そのものが停滞してきた。「インバウンド」はまやかしの政策で、単純に貧しくなったのだ。
パリ五輪は、日本人に厳しい現実を突きつける。
では、五輪はやる価値も、見に行く価値もないのだろうか?
ひとついえるのは、感情が揺れ動くことで大きく人生は変わる、ということだろう。多くの日本人が、大谷翔平がホームランを打つだけで幸せになる。彼の豪快なホームランで世の中が明るくなって、「いいことが起こるかもしれない」という希望につながる。それは錯覚だとしても心の動きは事実で、それで人生が好転することもある。
スポーツは、明日を生きる活力を与えるのだ。〝史上最強〟の呼び声が高い男子バレーボール日本代表の初戦、ドイツ戦は敗れたとはいえ、活況を呈していた。パリ南アリーナは徐々に席が埋まって超満員。イタリアで活躍する「石川祐希」の選手紹介アナウンスにどよめきが起こる。日本人としては誇らしい。
ハーフタイム、モニターに「Today is my birthday」と書いたボードを持ったアジア系女性の姿が映し出され、それを祝う拍手が起こり、隣の年配の女性は満面の笑みをつくった。
ガーラの世界的ヒット曲『Freed from Desire』で「ナ、ナ、ナ♪」の大合唱に。ライブ会場のような一体感は、フルセットにまでもつれた熱戦がつくったものだろう。試合の決着がつく直前には、人々が総立ちになっていた。
卓球では、混合ダブルス1回戦で金メダル候補だった張本智和・早田ひなのペアが、あっけなく敗退という波乱が起きた。「五輪には魔物が棲む」といわれるが、ふたりはシングルスに向けて挽回を誓った。
翌日には、同じく金メダルが期待されていた女子柔道の阿部 詩も2回戦で敗退。彼女はこらえ切れず号泣した。しかし、皮肉にも必死な姿が大勢の人々の気持ちを熱くした。
勝ち負けを超えた世界が、五輪にはある。
五輪は社会の問題を解決することはない。むしろ、生み出すこともある。ただ、アスリートたちが必死に戦い、人々が歓声を浴びせ、会場がひとつに溶け合うとき、その一瞬が誰かの救済になることもあるはずだ。
8月11日まで、パリの宴は続く。