中島大輔なかじま・だいすけ
2005年から英国で4年間、当時セルティックの中村俊輔を密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『山本由伸 常識を変える投球術』。『中南米野球はなぜ強いのか』で第28回ミズノスポーツライター賞の優秀賞。内海哲也『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』では構成を担当。
日本人プロレスラー・奥村茂雄は、世界最古のプロレス団体であるメキシコのCMLLにおいて、外国人選手初となる20年所属の快挙を達成した。慣れない環境と文化の中で、言葉の壁を乗り越え、日本で培った技術を武器にメキシコで地位を確立した奥村は、今もなおリングに立ち続けている。
■師匠のひと言で始まった壮絶な第二の人生
世界最古の91年の歴史を誇るプロレス団体がメキシコのCMLLだ。提携する新日本プロレスと毎年開催している「FANTASTICA MANIA(ファンタスティカマニア)」でも知られている。
今年5月、本場のルチャリブレで日本人の奥村茂雄が外国人選手では史上初の20年所属という快挙を達成した。メキシコではOKUMURAのリングネームで活躍し、以前『陸海空 こんなところでヤバいバル』(テレビ朝日)というテレビ番組で「メキシコで有名な日本人8位」に選ばれたこともある。
「日本にいた頃はホント平凡な選手で、メキシコに20年もいられるなんて思わなかった。こっちに来ると表明したときには『こいつ、気が狂ったか』と言われたくらいですから(笑)」
日本でのキャリアは9年強。「ひと山いくら」のレスラーだった奥村は2004年3月に全日本プロレスを退団し、師匠の栗栖正伸から「メキシコに行ってみろ!」と言われたのが壮絶な第二の人生の始まりだった。当時31歳。
借りていたアパートの部屋を引き払い、車や家具を売却、海外転出届を出して退路を断ち同年5月、「1年やってダメなら引退しよう」とメキシコに渡った。
「これ、ちょっとヤバイところに来たな......」
そう思ったのはCMLLで初日の練習が始まって少しした頃だ。ウルティモ・ゲレーロやレイ・ブカネロらと同じトップクラスに入れられると、レベルが極めて高いのだ。本場ルチャのスタイルは、日本で奥村がやってきたプロレスと異なっていた。
果たして、日本で平凡な選手だった自分がやっていけるのだろうか──。
奥村は強烈な危機感を抱くと同時に、師匠・栗栖の親友で、新日本プロレスで活躍したメキシコ出身のレスラー、ブラック・キャットに言われた言葉を思い出した。
「CMLLはオールドスクールだから、とにかく練習に出なさい! そうしないと試合が組まれないから」
メキシコに渡って2週間後、CMLLでのデビュー戦が組まれた。セミファイナルでスーパースターのエル・サタニコと対戦したが、決して技量が評価されたわけではない。新外国人選手だから抜擢されたのは明らかだった。
だからこそ毎週火・水・木の、午前11時から2時間の練習に欠かさず出続けた。毎週水曜は地方遠征にも行き、試合後に夜行バスで帰ってくるのは翌朝7時。ほぼ寝ないで4時間後には、道場で汗を流した。
「スペイン語はまったく話せず、メキシコで右も左もわからない。だから言われたとおりにやろう。本気で飛び込んで、この世界で食べていきたいと思っているか。言葉が通じなくても伝わるはずだ」
自費でメキシコ人の語学教師を雇ってスペイン語を学び、空いた時間は「早くスタイルになじもう」とほかのレスラーの試合を見に行った。
ルチャリブレでCMLLは最高峰の舞台として名高い。首都メキシコシティには150人近く所属選手がいて、地方の支部を主戦場にするレスラーもいる。その下では何千人の練習生たちが明日のスターを目指して励んでいる。日本に空手や柔道の道場が多くあるように、メキシコには街じゅうにルチャ教室があるのだ。
「親がレスラーで3歳頃からリングで練習している2世、3世がいっぱいいます。その中から13歳でデビューする選手がいれば、16歳で完成された選手も山ほどいる。彼らに運動能力ではとてもかなわない。凡人の自分はどうやって生きる場を見つけられるか。ずっと考えていました」
聖地アレナ・メヒコに試合を見に行くと、1万人を超える観客から外国人選手が強烈なブーイングを浴びせられていた。奥村はルード(悪役)だ。観客をヒートアップさせてこそ、存在価値が高まる。
同時に世界最古の団体であるCMLLは伝統を重んじ、高いレスリング技術が求められる。凶器攻撃など厳禁だ。
そこで奥村が活路を見いだしたのが、日本で培ってきたスタイルだった。
「ぶっ潰すぞ!」
日本語で叫ぶと観客がブーイングで反応した。メキシコのファンは日本語をわからないからこそ、何やら不気味な奥村に敵愾(てきがい)心を燃やした。
試合ではジャーマンスープレックスやドラゴンスープレックスなどブリッジを使った技を意図的に使った。目の肥えた本場の観客は「日本人=スープレックス系の使い手」と認識しており、奥村が繰り出すと会場は大いに沸いた。
「最初の数年間は毎日必死で後ろを振り返る余裕はなかった。『日本には絶対に帰らない』と思って日本のニュースは見ずSNSもやらなかった。『メキシコで生き残っていくんだ。命をかけてやろう』と」
奥村はCMLLで独自の色を徐々に浸透させつつ、日本から武者修行や遠征で来た田口隆祐や棚橋弘至、中邑真輔、後藤洋央紀らとタッグを組み、存在感を高めていく。
だが、年数を重ねるうちにスタイルを変えざるをえなくなった。激闘を重ねる中で首を骨折し、スープレックス系ができなくなったからだ。
「08年の遠征中に鎖骨を骨折してプレートとネジを7本入れたけど、金属が合わずに再手術に。その後に首(頸椎)を骨折したときは一歩間違ったら死んでいたかもしれない。虫垂炎を我慢していたら化膿して破裂しそうになったこともあります。
右膝の靱帯は今も切れたままで、両肩の骨も折った。目の焦点を合わせる手術は3回。ケガの履歴を話せばレコードですよ(笑)」
手術やリハビリのたび、何ヵ月も欠場を強いられた。そのたびに治療費を払い、サポートしてくれたのがCMLLだった。レスラー間の競争は極めて熾烈だが、リングによりいいコンディションで上がれるように後押ししてくれる。外国人選手の奥村も決して例外ではなかった。
「僕はCMLLひと筋でやってきて、会社にその姿を見てもらっていたんだなと」
平凡なレスラーの自分を受け入れ、ずっと面倒を見てくれているCMLLに貢献したい。奥村が感謝の念を強めた09年、新日本プロレスの菅林直樹会長(当時社長)が提携を結ぶためにメキシコを訪れた。
その際に奥村が裏で尽力し、両団体の合同興行として11年に始まったのが「ファンタスティカマニア」だ。日本でルチャを観戦できるこのシリーズは、新型コロナウイルス禍の中断を挟み、今年12回目を迎えた。昨年にはメキシコとイギリスでも行なわれ、今年7月には初めてアメリカでも開催された。
「新日本プロレスとCMLLが提携して15年目。カップルなら別れてもおかしくない年数です(笑)。これだけの年数を費やしてコツコツと信頼関係を築いてきました。日本のファンから『今年のファンマニ、終わっちゃった。すでにファンマニロスです』と聞くたび、CMLLの選手として本当にうれしく感じます」
なぜ、日本で「ひと山いくら」の選手だった奥村は本場メキシコのルチャリブレで地位を確立し、20年も活躍できているのだろうか。
「平凡な選手だったからですよ。タイガーマスクみたいなことができるわけではないから『ウサギとカメ』のカメのようにコツコツやっていこうと。最初は自分のことだけに必死でした。
意地を張っていた部分もあります。でも、新日本プロレスの菅林会長が来られた頃から『日本とメキシコの架け橋になろう』と思えた。僕はオンリーワンにはなれないからこそ、一日一歩、コツコツやるしかなかった」
今年の大晦日、奥村はレスラー人生30周年を迎える。年齢も50代に突入し、気づけば周囲には自分より若い選手のほうが多くなった。
「好きなプロレスをやっているけど、会社に『もういらない』と言われたらレスラー人生は終わり。後悔したくない気持ちが強いですね」
満身創痍だが、日々の稽古は欠かさない。今も一日一歩ずつ、奥村はキャリアをコツコツ重ねている。
●奥村茂雄(おくむら・しげお)
1972年5月25日生まれ、大阪府出身。94年12月31日にデビューし、全日本プロレスなど日本の各団体に参戦したのち、2004年5月単身メキシコへ。以来、20年にわたり、メキシコのCMLLに所属し活躍を続けている。ニックネームは「戦慄の逆輸入ルード」
2005年から英国で4年間、当時セルティックの中村俊輔を密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『山本由伸 常識を変える投球術』。『中南米野球はなぜ強いのか』で第28回ミズノスポーツライター賞の優秀賞。内海哲也『プライド 史上4人目、連続最多勝左腕のマウンド人生』では構成を担当。