松本光平 1989年生まれ、大阪市出身。ガンバ大阪ユースなどを経て高校卒業後に渡英し、2014年にプロのキャリアをスタート。海外クラブで奮闘する中、2020年5月に事故で失明の危機に陥るも懸命なリハビリを経て復帰した 松本光平 1989年生まれ、大阪市出身。ガンバ大阪ユースなどを経て高校卒業後に渡英し、2014年にプロのキャリアをスタート。海外クラブで奮闘する中、2020年5月に事故で失明の危機に陥るも懸命なリハビリを経て復帰した

"バチーン!!"

2020年5月18日、松本光平の両目に、鈍い音とともに強い衝撃が走った。ニュージーランドでの自主トレーニング中のことだ。チューブトレーニング中に外れた金具が右目を直撃し、左目にはチューブが勢いよく衝突した。

「サッカーじゃなくて、陸上でパラリンピックを目指すしかないのかな」

病院に搬送される車中で、松本はこんなことを思った。

以降、松本は右目の視力をほぼ失い、左目は0.01以下に落ちた。手術で失明は辛うじて逃れるも、眼球の黄斑部に3つも小さな穴が開き、網膜剥離も患った。医師からは「サッカー選手に戻ることは不可能」と告げられた。しかし、松本は諦めなかった。

「僕のポジションは右サイドバック。左目が残っているからプレーはできるはずだ、と。落ち込んでいる暇はないので、すぐに復帰に向けて動き出しました」

視覚障害を負った事故から約3年後の23年夏。松本はニュージーランドの地で、プロとしてピッチに立っていた。トレードマークとなった黒ゴーグルを装着し、健常者に交じって、だ。奇跡のような復活劇だが、その道のりを平然とした様子でこう明かす。

「チームメイトや監督は、僕に視覚障害があることは知らなかったと思います。そうでないと獲得してくれません。プロとして一度ピッチに立てば、健常者も障害者も関係ない。僕はそう思っています」

新宿三丁目の某喫茶店。ひときわ目を引く金髪姿の松本と待ち合わせた。店内には長い階段があったが、白杖を使用せずに歩を進めていた。

松本の視界を再現したメガネを渡されると、私は軌跡の苛辣さを痛感した。右目は見えず、左目で辛うじて輪郭や色を認識できるが、ひどい乗り物酔いをしたかのような倦怠感に襲われた。この視力で競技を行なえるとは、にわかに信じられなかったのだ。

「手術後は目に入れたガスが抜けないよう、24時間うつぶせで2週間過ごしました。やっと動けるようになっても、歩いては気持ち悪くなり吐いて......の繰り返し。金髪でサングラスにマスク姿の怪しい男が公園で吐きまくっているので通報され、職務質問も何度も経験しましたね(笑)」

2020年12月、古巣のオークランド・シティFCに再加入も合流できず。その後はオセアニア地区や日本のフットサルのクラブでもプレー ©Kybosh Photography 2020年12月、古巣のオークランド・シティFCに再加入も合流できず。その後はオセアニア地区や日本のフットサルのクラブでもプレー ©Kybosh Photography

大阪で生まれ育ち、セレッソやガンバユースで育った松本。同期には柿谷曜一朗がいるが、〝天才〟の名をほしいままにした盟友をはた目に、ケガで25歳までまともにプレーできなかった。それでも、不思議と羨望の感情を抱いたことはない。オセアニアを中心に4ヵ国で人知れずプロとしての時間を過ごしてきた。

そんな松本のリハビリ生活を支えたのは、「クラブW杯」の存在が大きい。19年、ニューカレドニアの「ヤンゲン・スポート」在籍時に、同大会出場を果たした。以降は、ニュージーランドやフィジー、バヌアツ、ソロモン諸島などを転々。すべてはクラブW杯に出場の可能性があるチームを選択しての行動だった。

ソロモン諸島のクラブでタコを捕獲したチームメイトと。松本にとって不慣れな環境でも、サッカーを楽しんでいる ©Makoto Miyazaki ソロモン諸島のクラブでタコを捕獲したチームメイトと。松本にとって不慣れな環境でも、サッカーを楽しんでいる ©Makoto Miyazaki

「19年に1回戦で敗れましたが、まったく納得がいくプレーができなかった。僕みたいなキャリアの人間が異国で結果を出そうと、Jリーグは見向きもしてくれない。

ただ、クラブW杯で活躍すれば話は違う。だから、もう一度あの舞台に立って活躍し、日本初の視覚障害のあるJリーガーを目指したい。よく、『あんな事故に遭った後なのにポジティブだね』と言っていただきますが、違うんです。やるか、やらないかだけで、僕にとってはシンプルなんですよ」

トレーニング中のゴムチューブの事故で失明の危機も。手術後、壮絶なリハビリに耐え、約1年でプレーできる状態に ©one clip トレーニング中のゴムチューブの事故で失明の危機も。手術後、壮絶なリハビリに耐え、約1年でプレーできる状態に ©one clip

しかし、リハビリは過酷を極めた。術後4ヵ月で動けるほどには回復したが、歩けるようになるまで長い時間を要した。ダッシュやジャンプと段階を経て、肝心のボール扱いでは、従来とまったく違う感覚に不安を覚えたこともある。それでも、松本はわずか約1年でプレーできる水準にまで戻したのだ。

松本には手を差し伸べる者も多かった。古巣のオークランド・シティはクラブW杯出場が内定していたこともあり、20年に松本へオファーを送っている。コロナ禍の影響で結果的にチームに合流はできなかったが、後に生きた気づきもあった。

「日本人がケガから復活するというストーリーが話題になると思った面もあるかもしれません。ただ、僕は〝客寄せパンダ〟でもいい。入団したら実力で納得させればいいとプラスに考えたんです」

22年にはFリーグのデウソン神戸に加入。懐疑的な意見もある中、キャプテンも務めて1シーズンを過ごした。そうして、23年夏にはハミルトン・ワンダラーズ(ニュージランド)で、ついにサッカーの公式戦へと復帰した。

加入後8試合の全試合に出場。その後はソロモン諸島のクラブで国際大会に出場し、充実のシーズンを終えた。ケガをした当初からすれば大きな前進でもある。しかし、松本が満足した様子はみじんもない。

「ほとんど給料はありませんでした。でも、目のことを言われたことはなく、居心地はいい。『(エドガー・)ダービッツもゴーグルをしていた』と言うと、みんな納得するんですね。

生活は、チームメイトが豚を捕獲して食べたり、魚は銛で捕まえ、飲料水がないからココナツを割って飲んだりと、本当の自給自足生活も経験しました。(2度目の)クラブW杯出場を果たしていないですし、僕のサッカー人生はまだまだこれから」

弱視となってからの努力を知り、今では11のスポンサー、パートナーを含めると20の企業が松本を支援している。同世代の選手の大半はユニフォームを脱いだ。それでも、現役にこだわる理由がある。

「フィジカル測定をすると、ケガ前より数値がいい。ケガ前を100とすると、今は110はあります。走って蹴るだけだった選手が、プレーの幅も広がった。ヘタで課題が山積みだから、毎日やるべきことをやるだけですね」

今冬にはオセアニアのクラブへの入団が内定しているという。松本の心に映る〝未踏の世界〟は、まだ道半ばだ。