拓殖大学で柔道家・木村政彦に師事し、大道塾をはじめさまざまなジャンルの格闘技で闘ってきた西良典 拓殖大学で柔道家・木村政彦に師事し、大道塾をはじめさまざまなジャンルの格闘技で闘ってきた西良典

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第31回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

■あの「世界の山下」とも闘っていた!

「勝たせていただきます」

そんな決め台詞を吐きながら、あらゆるジャンルの格闘技に挑んだ日本人ファイターがいる。

和術慧舟會(わじゅつけいしゅうかい)の西良典(にし・よしのり)。

キックボクシング、大道塾、シュートボクシング、格闘技オリンピック、カラテ・ジャパン・オープン、リングス、バーリトゥードジャパンオープン......。まだ総合格闘技やK-1のフォーマットが出来上がっていなかった時代に、西はさまざまな競技や大会に出場し、格闘技の第一線で闘い続けた。

世界中どこを探しても〝400戦無敗の男〟ヒクソン・グレイシー、〝キック界の帝王〟ロブ・カーマンのふたりと闘ったファイターはこの男以外にいない。今でこそMMAファイターのキックボクシング挑戦、あるいはその逆のパターンは決して珍しくはない。しかしながら1990年代初頭にルールの違いに躊躇(ちゅうちょ)することなく複数の競技で闘うことができた日本人は西以外に皆無だったのだ。まさに「総合」格闘家だった。

なぜ、西はさまざまなルールで闘うことができたのか。その格闘技歴を深掘りしていくと、日本における1990年代、いや、1970年代からの格闘技を取り巻く状況が浮き彫りになってくる。

1955年生まれの西が最初に出会った格闘技は、中学から始めた柔道だった。もともと九州は柔道が盛ん。高校の全国レベルの大会になると、九州勢が上位を独占する時代があったほどだ。

今春、西が生まれ育ち、現在も活動の拠点を置く長崎県長崎市で久しぶりに会った。今年で69歳だというのに、毎日自分のための稽古を怠らない彼の背筋は相変わらずピシッと伸びていた。

「あの時代、九州では野球部のない学校はあっても、柔道部のない学校はなかった。道衣さえ持っていれば、どこ(の道場や学校)でもやらせてくれるような時代だった」

西を柔の道へと導いたのは親族や家族の中にやっている者が多かったからだ。

「もともとおじき(叔父)が満州警察でやっていて、その息子やわたしの兄がやっていたことが大きかったですね」

西が中学・高校時代を過ごした1960年代後半から1970年代初頭、九州の中では福岡、鹿児島、熊本が強く、そのあとを西の母校、海星高校がある長崎や佐賀、宮崎が追随するという勢力図を描いていた。

「例えば福岡に比べると、鹿児島の柔道は垢抜けなかった。それに普通の柔道をやっても福岡には勝てないから、鹿実の選手は寝技がうまくなっていったんです」

鹿実とは柔道の強豪校として名を馳せる鹿児島実業を指す。

「我々の時代は『始め』がかかってからすぐに寝てもいい時代だったので、もう引き込みもOK。鹿実の選手はほとんど寝たような状態から背負い投げをかけたり、今の柔道みたいに足を触ったらダメという世界ではなかった。ブラジリアン柔術のように、自ら寝てから足を効かすような展開もありましたね」

一口に柔道といっても、やっていることは時代によって異なる。西と総合格闘技の接点、それは中学時代から打ち込んだ当時の柔道にあるといっても過言ではあるまい。

「県予選では相手が足にしがみついてくるような展開になったら、『叩きたい』という衝動にかられたこともありましたね(微笑)」

高3のときには、のちに〝世界の山下〟となる九州学院の山下泰裕と国体予選で組み合った。山下は西より2歳下で、すでに「怪物」と呼ばれており、巷では「山下と組み合ったら、高校生なら1分持てばいい」とさえ言われていた。

山下との対戦の結果は?

「確か48秒だったと記憶しています。なんか中途半端なタイムだと思いました(苦笑)。でも、本当に強かった。足の裏が畳に貼りついている感じがしました」

ヒクソンやカーマンだけではなく、世界の山下とも闘っていたとは! 試合映像が残っていれば、お宝ものだろう。1973年のインターハイで山下と決勝を争った諏訪剛(鹿児島実業)とも対戦した経験を持つ。勝負は判定までもつれ込み引き分けた。のちに諏訪は講道館杯で3連覇を達成し世界選手権にも出場しているのだから、西の柔道家としてのポテンシャルは非常に高かったといえるだろう。

現在の西良典。69歳となった今も毎日の稽古を欠かさないという(筆者撮影) 現在の西良典。69歳となった今も毎日の稽古を欠かさないという(筆者撮影)

■木村政彦は即答した。「それは中指だな」

高校卒業後、西は上京し拓殖大に進学。柔道部入部後すぐに、高校時代に都大会でベスト4になった選手と組み合う機会があったが、拍子抜けするしかなかった。

「弱い、弱い。やっぱり当時の九州の強さは図抜けていると思いましたね」

当時の拓大といえば、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまで言われた不世出の柔道家・木村政彦が監督だったが、その木村とは高校2年のときに早くも接点があったという。

「地元(長崎)のお寺の僧侶さんが木村さんの先輩ということで木村さんが来られたことがあったんですよ。先生の歩いている姿を見ただけで、すげぇと思いました」

そのときの木村は生徒たちに胸を貸すことはなかったが、直接アドバイスをくれた。西は遠慮することなく実戦的な質問をぶつけた。

「大外刈りを仕掛けるとき、軸足はどこに体重をかけたらいいんですか? 親指ですか? 小指ですか?」

木村は即答した。

「それは中指だな。中指の内側にかけろ。親指はダメだ」

その重心のかけ方による大外刈りは木村式で、のちに西はそのかけ方は木村の一番弟子で、全日本王者となったのちに全日本プロレスに入団寸前までいった岩釣兼生にしかできないと悟った。

拓大に進学した理由は4つ上の兄も拓大だったということもあった。西は迷うことなく柔道部に入部した。

「拓大の体育寮に入ったけど、基本的にその8割は九州人。その九州人の半分は熊本人でしたね」

時はコテコテの昭和。先輩からの命令は絶対で、下級生がヤキを入れられることなど日常茶飯事だった。正座させられたひとりの下級生を上級生たちが集団で囲み、「キサマ、わかっているのか?」という決まり文句からヤキは始まった。

「やられるのは決まってお腹でした。お腹を打たれたら、ウワッと大げさに倒れる。要するに痛いふりをしなければいけない。中には腹に漫画雑誌を隠して衝撃を和らげようとする者もいましたね。自分がそれを真似したら、すぐバレてしまいましたけど(笑)」

先輩からの理不尽な要求も今となっては楽しい思い出だと笑う。

「夜、五円玉をわたされ、豚足を買ってこいといわれるわけです。仕方ないので、茗荷谷駅前の派出所のお巡りさんに『すいません、豚足を売っている店を知りませんか?』と聞く。それで買いにいくわけだけど、五円で買えるわけないじゃないですか。結局、自腹を切れということなんですよ(笑)」

このエピソードには続きがある。

西が「買ってきました」と豚足を差し出すと、その先輩は何食わぬ顔で言った。

「西、お釣りは?」

隣の空手部とケンカになって、両部入り乱れてバトルロイヤルの様相を呈したこともあった。

「指導者もわかっているけど、『あっ、ケンカしているんだ』と静観していましたね。すごい時代だったと思います」

4ヵ月後、西は柔道部を退部した。別に先輩からの理不尽ないじめに嫌気がさしたり、柔道が嫌いになったわけではない。どうしても極真空手をやりたくなったというのだ。

実は西は、『空手バカ一代』が「週刊少年マガジン」で連載開始する前から、梶原一騎の空手漫画に思い切り影響を受けた世代だった。

「『空手バカ一代』の前に『虹を呼ぶ拳』という梶原一騎原作の空手漫画があったんですよ。その中に川から流れてきた丸太を正拳で割るというシーンがあった。小学生の頃に読んだので、『拳を鍛えたら、打撃がすげえぞ』ということになったわけです」

近所に同級生の父親である伝統派らしき空手家が住んでいたことも大きかった。

「本職は郵便局員だったけど、猫背でなんか変な雰囲気を醸し出していた。長崎には精霊流しという伝統行事があるけど、そのときに何かトラブルがあったらそのオヤジが間に入って止める。『空手をやっていると、こんなこともできるのか』と感心しましたね」

幼い頃から地元長崎で柔道と空手の先達から受けた薫陶の先に、『空手バカ一代』の影響で人気沸騰中だった極真空手があったということか。すでに柔道で体が出来上がっていた西を極真は喜んで受け入れた。

(つづく)

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布施鋼治

布施鋼治ふせ・こうじ

1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。

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