布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第32回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。(西良典編の前回はこちら)
長崎県から西良典(にし・よしのり)が上京し拓殖大学に入学した1974年は、ブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』がヒット。ボクシングではガッツ石松や輪島功一が世界チャンピオンとして君臨していた年だった。
プロレス界に目を向けてみると、〝燃える闘魂〟アントニオ猪木の活躍が際立ち、ストロング小林、大木金太郎ら超大物との一騎討ちを制して気勢を上げていた。
漫画界では梶原一騎原作の『空手バカ一代』が連載4年目を迎えていた。前年度に作画がつのだじろうから影丸譲也にバトンタッチされ第4部・昭和武蔵編がスタート。ケンカ十段こと芦原英幸が主人公として登場していた。このとき、すでに柔道で鍛えた西の体は出来上がっていたので、極真会館の創始者、大山倍達は西の入門を手放しに喜んだ。
「大山館長は拓大柔道部のキャプテンが来た、とふかしていたようです」(西)
拓大柔道部の顔だった木村政彦と大山には少なからず接点があった。それゆえ木村の息のかかった西の入門がうれしかったのだろう。しかも、同年10月開催の第6回全日本選手権では柔道出身の佐藤勝昭が初優勝を果たしている。ちょうど極真と柔道がシンクロしているときに西が入門したことは決して偶然ではあるまい。
入門当初、西は全日本4位の肩書を持つ者と組み手をする機会に恵まれた。足払いを仕掛けると、対戦相手は簡単に転んだ。『空手バカ一代』の影響を思い切り受けていた西は首を捻った。
「なんだ、漫画と違うじゃん!」
『空手バカ一代』には、逆に空手家のほうが鮮やかな足払いを決める場面があっただけに拍子抜けしたのだ。
その一方で、極真の洗礼も受けた。まだ打撃1年生だった西の視界に対戦相手の上段回し蹴り(ハイキック)は全く入ってこなかったというのだ。まともに食らった西は「ああ、これが上段回しか。見えないな」と感心するしかなかった。
結局、極真には1年ほど在籍した。試合に出場することはなかった。その後は拓大柔道部にUターンする。なぜ柔道に戻ったのかといえば、前述した足払いの一件がどうしても腑に落ちなかったのだ。
「柔道をちゃんとしておかないと、どちらも中途半端に終わると思ったんですよ」
簡単に戻れるとは思わなかったが、意外とすんなりOKが出た。
「あとからマネージャーに聞いたところによると、当時監督を務めていた岩釣(兼生)さんに『西は空手をやりたくなって極真に行った』と説明すると、『面白いじゃないか。戻せ、戻せ』という話にすぐなったそうです」
出戻りはむしろ歓迎されていたのだ。だからといって打撃への興味が失せたわけではない。土曜の夜、合宿所では東京12チャンネル(現テレビ東京)系で放送されていたキックボクシング中継を見るのが好きだった。
「藤原敏男さんの試合をよく見ていました」
気が向けばキックの会場にも足を運んだ。1977年11月14日、日本武道館で行なわれた『格闘技大戦争』。メインイベントは、翌年にタイ人以外で初めてムエタイ二大殿堂のひとつ、ラジャダムナンの王者となる藤原敏男とムエタイ戦士による国際戦だったが、セミファイナル前に組まれた佐山聡(新日本プロレス)対マーク・コステロ(米国)の2分6回戦が印象に残っているという。そのあとにはリングサイドの顔ぶれも気になった。
「ウイリエム・ルスカが来ていたんですよ。そのとき『柔道は怖くない。俺に打撃があれば、絶対ルスカを倒せる』と思いましたね」
柔道やレスリングなど組み技系格闘技ならば組み技の道を、空手やキックボクシングなど打撃系格闘技ならば打撃の道を突き進む。それが当たり前の時代だったが、西は既存の価値観に縛られていなかった。だからこそ前年度にアントニオ猪木と異種格闘技戦で二度も闘ったルスカに関心を抱き、「仮想・異種格闘技戦」をイメージしたのだろう。
柔道や空手だけをやっている者からすれば「どっちつかず」というふうに見られても不思議ではなかったはずだ。しかし、この西の価値観こそが日本の総合格闘技の息吹ではなかったか。
1970年代、この世に総合格闘技はなかった。いや、正確にいえば、1920年代からブラジルには総合格闘技の原型となるバーリ・トゥードが存在しており、果たし合いやサーカスの余興として行なわれていたが、世界的に知られているわけではなかった。
増田俊也著『なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか』によれば、昭和50年代に岩釣は日本の地方都市で開催されていた非合法のバーリ・トゥードのチャンピオンとして活動していたというが、ちょうどその時代に岩釣から柔道の指導を受けた西は師の非合法活動など知る由もなかった。
「ちょうど我々が1年生の頃、岩釣先生が(全日本)プロレスに行くという噂は聞いていました。『木村先生の敵討ち』という話もあったけど、実際にはどうなんですかね。生活のためにやるという部分もあったんじゃないですかね」
その後、西は拓大柔道部員としてのキャリアを全うした。木村政彦とは顔を合わす機会は何度もあったが、拓大柔道における木村の立場は天皇に等しく、言葉を交わすなどもってのほかだった。ただ、こんなシーンは覚えている。鹿児島実業出身で現在は地元で県会議員を務める部員が木村に尋ねた。
「先生、力道山さんとの試合はどうだったんですか?」
力道山との試合。それは1954年12月22日、蔵前国技館で行なわれた「昭和の巌流島決戦」を指す。試合形式はプロレスだったが、世間では「柔道が勝つか、相撲が勝つか」という見方をされ大いに盛り上がった。勝負は力道山が張り手の連打で木村をKOしたが、のちに「ブック(台本)破りだったのではないか」と言われ、いまだ物議を醸している。
力道山との一戦に触れられると、木村はムッとした面持ちでそのまま腕立て伏せ1000回を命じた。
そのとき西は思った。
「やっぱり力道山との試合は聞いちゃいけないことだったんですね」
卒業後は東京にとどまり、以前から興味のあった柔道整複師の資格がとれる柔道専門学校に進む青写真を描いていた。しかし、大学4年のある日、岩釣の一言で西の人生は決まる。
「仙台の柔専が、柔道が強い奴を欲しがっているから行け」
アスリートファーストの「ア」もない時代。体育会に身を置く者にとって指導者の命令は絶対だった。西は縁もゆかりもない杜の都へ行く決意を固めたが、新天地ではどうしてもキックボクシングをやりたくなった。調べてみると、仙台には地方のジムながらあまたのチャンピオンを輩出している「仙台青葉」というジムがあるではないか。整体の勉強をしながら、西は初めて挑戦するキックの練習に没頭した。
「スパーリングはあまりしなかったですね。サンドバックを相手に(ひとりで)ガンガンやっていました」
西の階級はヘビー級だった。ある日、仙台青葉ジムの瀬戸幸一会長に告げられた。
「西、今度、『ゴング』に載るランキングにお前も入っているから」
『ゴング』とは、当時プロレスやボクシングと共にキックも報じていた格闘技専門誌だ。後日、その『ゴング』を手にすると、西は隅から隅までヘビー級のランキング表に出ているはずの自分の名前を探した。しかし、何度目を上下に走らせても見つからないので、瀬戸に尋ねた。
「どこに載っているんですか?」
「コイツだよ」
瀬戸が指を差した先には「長崎大作」の文字があった。長崎出身だから長崎大作。想像を遥かに超えるリングネームだった。
「このセンスは何?」
西は心の中で苦笑いするしかなかった。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。