布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第33回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回に続き、総合格闘技のパイオニアのひとり、西良典(にし・よしのり)の格闘技人生に迫る(前回記事はこちら)。
西良典は拓殖大学を卒業後、柔道整復師の資格を取るため東北柔道専門学校(現・仙台接骨医療専門学校)に通う傍ら、学校の近くにあったキックボクシングジム「仙台青葉ジム」に入門した。
「船木鷹虎という、のちに日本チャンピオンになる選手がまだ19歳の頃です。地方のジムだったけど、仙台青葉はけっこうチャンピオンを輩出しているんですよ」
しかし時代は80年代初頭。キックボクシングブームはとうの昔に終わっていた。〝キックの鬼〟沢村忠の人気で68年9月30日からTBS系でスタートした日本キックボクシング協会の試合を中心とした定期放送は、80年3月28日を最後に打ち切られていた。最後の1年は昭和のキックファンなら誰でも記憶している月曜午後7時からではなく、深夜帯に追いやられるほど人気は凋落していた。
82年4月3日、同協会の興行で西はプロ2戦目を迎え、横須賀米軍基地に勤務していたジミー・ジョンソンとの日本ヘビー級王座決定戦に臨んだ。当時アントニオ猪木やモハメド・アリに挑戦表明をしたことでも知られていた元同級王者を相手にデビュー2戦目でタイトル挑戦とは厚遇としかいいようがない。だが驚くべきことに、会場に到着するまで西は自分の試合がタイトル戦であることを知らされていなかったという。
「デビュー戦は負けていたので、仙台青葉ジムの瀬戸(幸一)会長からは『次、お前、絶対勝てるよ』と言われていたけど、行ってみたら王座決定戦。タイトルマッチの文字を見たとき、ハメられたと思いましたね(苦笑)」
キャリアの差を考えると、正攻法で挑んだら勝てるわけがない。柔道出身の西はクリンチの際、バックに回りバックドロップで投げるという作戦を立てた。いまでこそキックボクシングはパンチとキックなどスタンディングの打撃に限定されているが、黎明期は頭突きや投げもOKだったので、一発の投げくらいだったら許容範囲と思ったのだろう。
「でも、試合が始まったらジョンソンはロープを掴んで投げさせてくれなかった」
奇襲ができなければ、結果はいわずもがな。2R1分19秒、西は壮絶なKO負けを喫した。この一戦は東京12チャンネル(現テレビ東京)で放送されている。日本キックボクシング協会のテレビ放送はTBSが撤退後、テレビ朝日での不定期放送で首をつなぎ、最後は当時地上波の中では〝番外地〟と揶揄されていた弱小局で、かろうじて放送されていたのだ。
しかも、ジミー戦が組まれた大会が最後のテレビ収録だった。この局での日本キック系の放送はわずか4回ながら、西は70年代のキックボクシングブームの最後に立ち会ったともいえるのではないか。
キックボクサーとしての西の試合記録は84年夏まで確認できるが、残っている資料が少なくわからないことも多い。そもそも西だけではなく、キック界全体が〝空白〟というべき時代だった。
当時、西はのちにプロレスラーとして大成する者とも出会っていた。仙台の東北柔道専門学校の後輩、武藤敬司だ。
高校を卒業して入ってきた武藤は西の7歳下。ふたりは時間があれば異種格闘技戦やプロレスごっこに興じていたという。
「柔道の帯をロープに、人をコーナー代わりに四方に立たせてやっていましたよ。俺が猪木だったら、武藤がアリをやったりしてね」
のちに新日本プロレスに入門すると、武藤は新弟子の誰もが根を上げる寝技のスパーリングに対して「怖くなかった」と驚きの発言をしている。なぜそんなことを口にできたかといえば、仙台で入学当初は寝技でぼろ雑巾のようにやられていたからにほかならない。
「武藤と同期で入ってきた早乙女という東海大柔道部出身者の寝技がムチャクチャ強かった。『たぶん日本一強いんじゃないか』と評判になるくらい。武藤は早乙女にガッチャンガッチャンやられて強くなったんですよ」
武藤は新日本プロレス入門前の82年、全日本ジュニア体重別選手権95kg級で3位になっている。
さらに西は「もう武藤は忘れていると思うけど」と前置きしたうえで、とんでもないエピソードを話し始めた。
「まだ武藤が19歳の頃、何かの拍子に仙台のチンピラと揉めたことがあったんですよ」
武藤は高校を卒業したばかりで見た目は紅顔の美少年だったが、腕に覚えはあった。西はその場にはいなかったが、武藤が攻勢に出ると、連中は『お前の学校に行くから覚悟しておけ』と捨て台詞を残して立ち去っていったという。
西は、拓殖大時代に切った張ったの類のトラブルは何度も経験している。キャバレーで大立ち回りを演じたときには、逆にそっちの筋から「兄さん、俺、こういう者だけど、ウチに来てくれないか」と声をかけられたほどだ。
武藤はまだ未成年だ。相談を受けた西は腹を括(くく)った。
「俺が代わりにやっちゃる」
柔道衣に袖を通し黒帯を締めた西は道場で襲撃を待ち構えた。ちょうどそのとき古武術をやっている達人も道場におり、事情を話すと、「だったら俺も一緒に待ってやるわ」と、日本刀を手にした。
「俺の刀で斬ってやる」
襲撃を待ち構える徒手空拳の武道家と日本刀を懐に差した古武術家。杜の都で起こった実話である。そのとき道場に張りつめた空気を想像しただけでもワクワクするではないか。80年代の格闘技界には、今とは全く違う種類の風が吹いていた。
「でも結局、連中は来なかったんですよね」
西は残念そうに事の顛末を口にした。
キックボクシングでは自分の体格に見合ったスパーリングパートナーがおらず練習相手はサンドバッグという環境だったので、なかなか結果を残せないでいた。それでも、西はまだ名前すらなかった総合格闘技の道を自覚なく突き進んでいた。
そうした矢先、仙台で産声をあげたばかりの大道塾に出会った。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。