布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第35回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回に続き、総合格闘技のパイオニアのひとり、西良典(にし・よしのり)の格闘技人生に迫る(前回記事はこちら)。
「モーリス・スミスと闘いたい」
全ては格闘技雑誌のインタビューにおける、西良典の一言から始まった。時は1990年。K-1やUFCの出現はこの3年後。ピュアな格闘技のビッグマッチといえば、全日本キックが年に数回日本武道館でやる程度で、他の興行は後楽園ホールでの開催が定番だった。
当時のモーリスは日本では最も有名だったキックボクシング団体であるWKAが認可する世界ヘビー級王者で、立ち技では世界最強の名をほしいままにしていた。
西は故郷の長崎に戻り、数年後には大道塾から独立。新たに慧舟会(のちの和術慧舟會)を設立したが、試合をする機会もなく、腕はウズウズしていた。西の発言が掲載された雑誌が発売されると、全日本キックの関係者から連絡が入った。
「モーリスといきなり対決するのは難しいですけど、その前にロブ・カーマンと闘いませんか?」
カーマンの名を聞いた途端、西は全身の血が煮えたぎる感覚を覚えた。当時のカーマンはオランダ軽重量級の第一人者で、全日本キックでは87年11月のラクチャート戦以降、8戦8勝(8KO)と破竹の快進撃を続けていた。その中にはドン・中矢・ニールセンとの一戦も含まれる。だが90年6月30日、日本武道館で行なわれたビッグマッチで極真空手出身のピーター・スミットに敗れ、WKA世界ジュニアライトヘビー級王座を明け渡すとともに連勝記録もストップしていた。最大の敗因は減量失敗といわれている。
「受けさせていただきます」
そのオファーを断わる理由はなかった。対戦カードが発表されると、西をよく知る大道塾関係者が長崎をわざわざ訪れ、出場辞退を促した。「辞めたほうがいいです。利用されるだけです」
この一戦は3分5ラウンドのヨーロッパルール(ヒジ打ちと顔面へのヒザ蹴りが禁止されたキックボクシングルール)で争われることが決定していたが、世間はキックボクシングというより〝キックボクシングVS空手の異種格闘技戦〟という見方をしていた。
確かに両者のベースを対比させると、異種格闘技戦といえるのではないか。異種競技者同士を闘わせる試合形式は、プロレスの専売特許ではなかった。すでに大道塾を抜けている身とはいえ、この一戦の煽りでも〝覇王〟と呼ばれるなど、大道塾時代の代名詞がしっかりと使われていた。もし敗北すれば、団体の看板に傷がつく。大道塾側から見れば、そう解釈しても不思議ではなかった。
大道塾関係者の説得に西は応じなかったが、喧嘩するつもりはなかったので、「見方によってはそうかもしれない。だけど、俺が勝てば逆に利用したことになる。これはオール・オア・ナッシングみたいなものだから」と自らの見解を述べたうえで反論した。「今回の一戦に対して文句を言うほうがおかしい。リスクを踏まえてやるのが俺の仕事だから」
決戦前、筆者は格闘技専門誌で西のインタビューをしている。そのとき西の口からのちに彼の決まり文句となる「勝たせていただきます」という言葉を初めて聞いた。当時35歳だった西は、こんな本音も漏らした。
「いつまでも空手が逃げてばかりはいられないでしょう。最強の空手というなら、最強の人間(選手)を倒して証明しなければならない。でも本来だったら、自分ではなくて、もっと若い選手に名乗りをあげてほしかった」
当時は極真空手を創設した大山倍達も存命で、極真空手の最強幻想は残っていたが、「もしキックボクシングで空手家とキックボクサーが闘わば」という話になれば、キックボクサーに分(ぶ)があると囁(ささや)かれていた。
その名の通り、フルコンタクト空手は直接打撃制ながら、拳による顔面殴打は反則とされている。そこに慣れていない分だけキックボクサーを相手にすると劣勢にならざるをえないと考えられていたのだ。
そんな世論に一矢報いた空手家もいる。西VSカーマンが実現する3ヵ月前、ところも同じ日本武道館でドン・中矢・ニールセンに壮絶なケンカファイトを挑み、1RKO勝ちを収めた佐竹雅昭だ。
この一戦は大きなインパクトを残した。手応えを感じた全日本キックとしては空手VSキックの第2弾がどうしても欲しい。それが西VSカーマンをマッチメークしようとした裏事情だった。空手界は「顔面あり」の方向へと動いていた。
以前オランダ修行に行った際、西はカーマンが所属するオランダ目白ジムでスパーリングをした経験があった。
「(カーマンは)いまや日本でもポピュラーになった対角線のコンビネーションで来ました。的確にコツンコツンと当てて、最後はローキックを当ててきた」
お互いそのときの感触は覚えていたのだろう。日本武道館で試合開始のゴングが鳴ると、西はいきなり左の足払いをきれいに決め、スリップダウンを奪う。出だし好調のように見えたが、時間が経つにつれ、カーマンは攻撃のピッチを上げていく。そして1Rの中盤に左ジャブで西を大きくグラつかせ、最後は右クロスでとどめを刺した。
大の字となったままピクリとも動かない西を目の当たりにして、レフェリーはすぐ試合を止めた。1R1分51秒、壮絶なKO負け。危険を察知した西のセコンドは口にすぐタオルを入れ、舌を噛まないようにしていた。
あれから34年、西は伝説の一戦を振り返る。
「わたしは柔道出身だから首の強さには自信がある。ところがカーマン戦のときには(相手に体重を合わせたので)13㎏も減量しなければならなかった。その間首は鍛えていなかったので、弱くなっていたのでしょう」
カーマンの右の衝撃を物語るかのように、試合直後、西の記憶は完全に途切れていた。セコンドに「なんで俺、負けたの?」と何度も聞き返し、試合内容を伝えられると、「俺、負けたんだ。弱いんだ」と肩を落とした。
決戦前は「勝たせていただきます」と宣言していたせいもあり、一部の関係者からは「それみたことか」と酷評された。「もともと西は組み技(柔道)の選手。打撃は下手くそだから」という声も耳にした。反論したかったが、「格闘技は結果が全て」だとわかっていたので言い訳はしなかった。しかしながら、軽重量級で世界最強といわれていたオランダのキックボクサーに日本人として真っ向勝負を挑んだ勇気と行動力は称賛されるべきではないか。
数年後、西とカーマンは正道会館の道場で再会した。近い将来の総合格闘技進出も視野に入れていたのだろうか、カーマンは寝技によるスパーリングを申し出た。
「総合でやったら、俺には勝てないよ」と念を押したが、カーマンにもプライドがある。西のアドバイスに耳を傾けることなく、寝技で組み合うと西の圧勝だった。ルールによって勝者と敗者は簡単に入れ代わる。元祖・立ち技と組み技の二刀流ならではの、知られざるリベンジマッチだった。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。