布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第37回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
今回は、30年以上にわたりさまざまな格闘技イベントでレフェリーを務め、トレーナーとしても多くの選手に慕われる、和田良覚(わだ・りょうがく)氏をフィーチャー。筋骨隆々な肉体で、自身がMMAの試合に出た経験もある〝最強レフェリー〟の濃密な人生に迫る。
「和田さん、新しい団体を作るんだけど、レフェリーをやってくれない?」
1991年1月、和田良覚は髙田延彦から意外な仕事を打診された。
「えっ!? レフェリーなんて僕、経験ないですよ」と当惑するしかなかった。それでも髙田は引き下がらない。和田の気持ちを押し切るかのように「大丈夫。勉強すればいいんだから」と、もうやることがすでに確定しているかのように受け流した。
正直、レフェリーはやりたい仕事ではなかったが、プライベートにおいても世話になっていた髙田の気持ちを無下にしたくなかったのだと和田は言う。
「わかりました。やれるところまでやってみます」
その一言から始まった和田のレフェリー稼業はもう30年以上も続いている。現役レフェリーの中では最古参の部類に入る。昨年還暦を迎えた和田は「やりたくてやり始めたわけではない」と振り返る。
「レフェリーって、人の人生というか、命に関わる仕事じゃないですか」
髙田との付き合いは1980年代半ばまで遡(さかのぼ)る。当時勤めていた東京・世田谷のスポーツコネクションというスポーツクラブでインストラクターをやっていたとき、そこに髙田が前田日明と共に練習に訪れたのだ。
1963年生まれで、中学時代からブルース・リーと大山倍達に心酔し憧れていた和田が、当時のUWFを引っ張る前田と髙田の顔を知らぬわけがない。プロレスラーらしい華やかなオーラを放つふたりは眩しく見えた。
「僕にとっては、前田さんも髙田さんもスーパースターでしたからね」
独特のユーモアを持ちながら、選手に対するリスペクト精神を忘れない和田を、ふたりとも可愛がったので、その後も付き合いは続いた。88年にスタートした新生UWFが軌道に乗ると、前田と髙田のラインからUWFのフィジカルトレーナー就任の依頼が来た。和田は喜んで引き受けたが、その直後に新生UWFは解散。UWFインターナショナル、リングス、プロフェッショナルレスリング藤原組の3派に分裂してしまう。
それに伴い人も3派に割れたので、スポーツクラブには髙田しか来なくなった。そんな矢先、冒頭のように声をかけられたのだ。格闘技歴は高校時代に極真空手を齧(かじ)った程度だったが、少年時代からスポーツは万能で、茨城県常陸太田市の中学時代は野球部に所属し「エースで4番」という絶対的な存在だった。
「いまと比べたら全然細かったけど、足が速くて筋肉質の運動バカでしたね。球も速かった。公式戦になったら、スピードは一番だけど、ノーコンで有名でしたけどね(笑)」
極真との出会いは中学校のグラウンドだった。
「そこでシャドーボクシングをしている人がいた。『うわっ、すげぇ、キックボクサーかな?』と思ったら極真の本部道場に通う人だった。話を聞いたら、完全にハマってしまいましたね」
野球では高校のスカウトもきたが、和田はその誘いを断り地元の高校に進学し陸上競技部に入った。跳躍の走り高跳びでは県大会で2位に入るなど、そのポテンシャルは高かった。
「みんなからはバネがあるといわれていたけど、自分に全国で一番になるほどの素質があるとは思えませんでした」
その一方で、日立市にあった極真の支部に通うようになる。和田は「僕はヘタレだったので、そんなに強くなかった」と謙遜するが、地上最強の空手といわれ、最強幻想を身にまとっていた格闘技を経験したことはのちの和田に大きな影響を与えたはずだ。学校には片道15kmの山道をロードレース用の自転車で通学した。
「変なガキだったと思いますよ。大山倍達さんの影響で、学校に行く前に朝練習で指立て伏せや懸垂をやっていましたね」
その流れで大学は体育を専攻しようと考えたが、高3の夏、大きな転機が訪れる。学校に行く道すがらの山道で乗っていた自転車がスリップ、転倒して左ヒザの内側靱帯を切断、10ヵ月間も足を引きずる生活を余儀なくされたのだ。和田は体育学科への進学を断念し、仕事をしながら一浪したのち、一般入試で国士館大の政経学部に進学した。
「ひとつ歳上の先輩には国士舘大学体育学部体育学科教授で、陸上競技部の前総監督、岡田(雅次)先輩がいました。いまの僕のトレーニング理論は岡田先輩の教えがベースになっている」
岡田は現役時代、100m走は10秒台、専門の槍投げでは80mを超える記録を持つなど、″陸上界の怪物″と一目置かれる存在だった。和田のトレーニングのノウハウは見様見真似で身につけたわけではない。陸上競技から始まる専門的な知識を積み重ねることによって成り立っているのだ。
UWFインターナショナルは「フォールは3カウント」「反則は5秒以内ならOK」などといった従来のプロレスのフォーマットを採用していなかった。決着は関節技や絞め技による一本、あるいは打撃によるKO勝ちが推奨されていた。
UWFインターへの加入が決まると、和田は選手たちと一緒に練習するようになったという。受け身、ヒンズースクワット、四股踏み、縄跳び、ロードワーク、そしてスパーリング。和田に課せられたメニューは選手たちと一緒だった。「試合をするわけでもないのに、なぜレフェリーが選手と一緒に練習しなければならないのか」という疑問を抱いたが、和田は次のように解釈した。
「当時、鬼コーチだった宮戸(成夫=現・優光)さんの『プロレスラーは舐められたら困る』という考えが大きかったんじゃないですか。もうひとつは『痛みを知らなければレフェリーはやっていけない』という考えもあったと思う」
すでに和田はレスラー並みの体付きをしていたが、レスリングの経験があったわけではない。案の定、スパーリングでは、まさにボロ雑巾のようにされた。
「ホントにグシャグシャにされました。やられるたびにギャーギャー叫んでいましたよ」
スパーリングの先生は、若手時代から周囲の評判が高い安生洋二だった。和田は親しみをこめ、「安ちゃん」と呼ぶ。
「みんな強かったけど、その中でも安ちゃんはメチャクチャ強かった。(UWFインターで成長した)田村潔司、金原弘光、桜庭和志は本当にみんな強かったけど、彼らの先生もまた安ちゃんだったんですよ」
団体のエースである髙田には別格の強さを感じた。
「髙田さんはフィジカルの化け物でした。そのフィジカルに加えて、スピードと持久力もあった。あんな人はいないっすよ」
スパーリングは主に午前中に行なわれた。その時間帯、和田の立場は新弟子に等しかったが、午後のウエートトレーニングの時間になると、トレーナーに変身した。それが合宿のように延々と続く日々。当時まだ独身だった和田は、用賀駅近くの風呂なしアパートに住みながら道場に通った。
「いや、給料は安かったし、理不尽な扱いも受けるし、本当に何度も辞めたくなりましたよ。練習もきつかったけど、人間関係もきつかったですからねぇ。いまだからいえるけど、うつ病にもなりました」
ハードな練習に耐えきれず次々と逃げ出す新弟子を尻目に、なぜ和田はUWFインターに居続けることができたのか。
「僕はヘタレだし、優柔不断な男です。だから精神的にも肉体的にもギリギリだったけど、それでも続けることができたのは髙田さんと男の約束をしちゃったからです。あの人に『やってみます』と言っていなければ、とうの昔に夜逃げして辞めています。男の約束だけは守ろうと、首の皮一枚でつながっていた感じですね」
この時の苦労がのちに活かされるようになるとは、和田は夢にも思っていなかった。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。