【連載・岡山のリアル・ロッキー 倉敷守安ボクシングジム会長・守安竜也(りゅうや)のボクシング人生】(5回連載/最終回)

1年前の2024年1月23日――。岡山のボクシングジムから初の世界チャンピオンが誕生した。無敗の王者、アルテム・ダラキアン(ウクライナ)を下してWBA世界フライ級王座に就いたのはユーリ阿久井政悟。今回の偉業は地方ジムから世界を目指すボクサーにも大きな希望を与えた。

阿久井の所属は倉敷守安ボクシングジム。元日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王者の守安竜也(りゅうや)が38年前、33歳で始めたジムだ。守安は71歳になったいまも会長、トレーナー、セコンドの3役をこなし選手育成に励んでいる。現役時代は日本王座を3度防衛し世界3位にもなった守安。しかし通算戦績は28戦12勝(6KO)16敗――。そこには地方の弱小ジム所属ゆえに辛酸を舐めた歴史があり、それでも夢を叶えた「リアル・ロッキー」と呼べるような物語があった。

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桃太郎ファイトを始めた頃の思いを胸に自主興行を続けた守安。そして1998(平成10)年、守安ジムの秘蔵っ子が初タイトルをもたらす。同年2月22日、ウルフ時光(ときみつ)が東洋太平洋ミニマム級王者ニコ・トーマス(インドネシア)に挑み12回判定勝ち。ジム開設11年目の出来事だった。ウルフ時光は東洋太平洋王座を初防衛後に返上。WBC世界ミニマム級暫定王者ワンディ・シンワンチャー(タイ)に挑戦することが決まった。それは守安にとっても、初めて挑戦する世界戦の自主興行だった。

「世界戦を開くとなると、そりゃもう全然、大変さが違いました。チケットは5000枚も用意したので、どうにか売りさばかなければいけない。チャンピオン側に支払うファイトマネー、渡航や滞在などの経費は2500万円近く準備しました。経費の総額はなんじゃかんじゃで、4000万円はいったんじゃないかと思いますわ」

1999(平成11)年5月4日。初開催から16回目の桃太郎ファイトは初の世界戦、過去最大の観客を集めて開催された。

世界初挑戦まで11連勝と勢いに乗っていたウルフ時光は、素早いフットワークからパンチを繰り出し、のちにライトフライ級でも世界王者になるワンディに、中盤まではほぼ互角に渡り合った。しかし、終盤に差し掛かる9回以降は最大の武器であるスピードが落ちてしまい、戦況はワンディに傾き始めた。

迎えた最終12回、ワンディの右ストレートで動きが止まり、連打を浴びて棒立ちになった所でレフリーストップ。結果は12回2分51秒TKO負け。試合残り時間はあと9秒だった。

■世界戦で抱えた借金2000万円。自宅の田んぼを担保に続けた自主興行

善戦したものの世界タイトルを逃したウルフ時光は、世界再挑戦を目指して現役続行した。そして、連勝で世界ランキング1位まで上り詰めた2年半後の2001(平成13)年11月11日、今度はホセ・アントニオ・アギーレ(メキシコ)相手に、再びWBC世界ミニマム級王座に挑戦した。

「めちゃくちゃ借金したけえ、『これが(世界戦の自主興行は)最後になるかもしれん』と思って試合当日を迎えました。もう死ぬ思いですよ」

アギーレは2年半前にウルフ時光が敗れたワンディに勝利して王座を奪ったさらなる強敵だった。軽量級離れした強打が武器で、同試合までの28戦26勝のうちKO勝利は16度。ウルフ時光にとっては2年半もかけてようやくたどり着いた世界再挑戦だったが、最終12回まで善戦したワンディ戦とは違い、試合は開始早々から苦戦した。

初回、ウルフ時光は長身から繰り出されるアギーレのパワフルな攻撃に対して、最大の武器であるスピードを活かした攻撃を仕掛けるも懐まで潜り込めない。2回、手数の増えたアギーレに圧倒され始め、3回開始早々、強烈な右の打ち下ろしを浴びてダウン。すぐに立ち上がり構えるも一方的に攻撃された所で、世界チャンピオンの夢は消えた。

ウルフ時光が2年半ぶりに世界挑戦した際のポスター(アギーレ戦)。守安は同興行で2000万円の借金を抱えるが、以後も自主興行を続けた ウルフ時光が2年半ぶりに世界挑戦した際のポスター(アギーレ戦)。守安は同興行で2000万円の借金を抱えるが、以後も自主興行を続けた ウルフ時光は世界再挑戦でアギーレ(メキシコ)と対戦するも、王座獲得ならずまたも散った。同試合を最後にウルフ時光は現役引退(写真/産経新聞社提供) ウルフ時光は世界再挑戦でアギーレ(メキシコ)と対戦するも、王座獲得ならずまたも散った。同試合を最後にウルフ時光は現役引退(写真/産経新聞社提供)
2年半前のワンディ戦は岡山県で初の世界戦開催という話題性もあり、4000人近い観客が集まり、赤字も出さずに済んだ。しかし2度目の挑戦となったアギーレ戦は広告集め等も、予想をはるかに超える苦戦を強いられた。

チケット販売も、配布分や無料招待などを除いて実際に売れたのは800枚程度と、営業面も試合同様に惨敗。守安は夢を追いかけた代償として2000万円もの借金を抱えることになった。

「試合は分が悪いと最初からわかっていたので、負けは仕方ないと割り切れました。でも、興行でそこまで大きな赤字を抱えたことは予想外じゃった。前回は後援会に資金面で協力いただきましたが、2度も世話になるわけにもいかん。貯金はたいしてありませんでしたので、実家の田んぼを担保に入れて借金しました」

ウルフ時光はアギーレ戦を最後に引退。

一方、守安は以降も、2000万円の借金を返済しつつ桃太郎ファイトを続けた。しかし1992(平成4)年8月29日に始まり、14年間も続けた桃太郎ファイトは、2006(平成18)年10月22日、第30回を最後に中止した。看板選手だった元日本ランカー、ジャガー哲也の引退がきっかけだった。

「(ジャガー哲也は)目を傷めてしまってね。看板選手がおらにゃ、興行したくてもできん。できんこともねえんじゃけど、あまりする意味もねえいうんか......」

ジムの後援会は解散。90年代の辰吉フィーバーに沸いた頃は120名以上いた練習生は半分以下、30名以上いた所属プロボクサーも数名になった。守安は自主興行はおろか、ジム経営さえ続けられるかどうかもわからなくなってしまった。

守安ジムのプロ第1号ボクサーであり、第1回桃太郎ファイトのメインに出場した阿久井一彦の息子「政悟」が入門したのはそんな頃だった。
政悟の叔父の赤井貴之はテクニックに優れ、のちに世界王者になる飯田覚士にも挑戦した元日本ランカー。引退式は兄のように慕う政悟の父、一彦と一緒に迎えた 政悟の叔父の赤井貴之はテクニックに優れ、のちに世界王者になる飯田覚士にも挑戦した元日本ランカー。引退式は兄のように慕う政悟の父、一彦と一緒に迎えた

■10年ぶりに復活させた桃太郎ファイト。守安の覚悟に応えてくれた阿久井の息子

「中学2年生の時、お父さん(一彦)が、『息子(政悟)にも本格的にボクシングをやらせたい』と話して連れてきました。お父さんから教えてもらっていたようで、基礎は出来とりました。特別、何か教えることもなくて、スパーリングもすぐに始めました。『才能がある子じゃな』と思いましたよ。お父さんと同じで気持ちが強い。スパーリングよりも本番のほうが力を発揮できる。ファイタースタイルいうんか、いまと同じで、闘志を全面に出して相手に向かって行くタイプでした」

入門して1年余り、中学3年生になった政悟は腕試しで出場したU-15ボクシング全国大会で優勝。決勝で対戦したのは現WBA世界バンタム級王者、堤聖也(角海老宝石)だった。

高校はボクシング部のない地元岡山の倉敷翠松高校に進学し、高体連に選手登録だけお願いして、守安ジムで練習しつつ大会に出場した。主な成績は選抜ベスト8が1回と国体ベスト8が2回。大学は東京の強豪ボクシング部監督が守安ジムまで直々に来てスカウトされたものの断り、地元岡山にある環太平洋大学に進学。同年4月20日に守安ジム所属選手としてプロデビューして判定勝利。翌2015(平成27)年12月20日には全日本新人王を獲得した。

守安は当初から政悟に対して、ボクシングの技術についての指導は本人が尋ねて来ない限りはほぼ皆無だったという。政悟は入門時から自分自身で練習内容や試合の作戦を考えて取り組んできた。

父親の一彦や叔父の赤沢の現役時代は、守安も30代と若く血気盛んな頃で、指導はかなり厳しかったそうだ。いまは当時のような向き合い方はせず、政悟に限らず選手自身の考え方や取り組み方を尊重していた。40代半ばで結婚し、ふたりの娘にも恵まれてから、ずいぶん丸く穏やかな性分になったそうだ。

2016(平成28)年4月3日。守安は政悟が8戦目を迎える時、10年ぶりに自主興行の桃太郎ファイトを復活させた。

メインイベントは全日本新人王を獲得し、日本ライトフライ級15位に入ったばかりの政悟の試合。会場は岡山・浅口市健康福祉センターで、観客席はパイプ椅子を並べてこしらえた。

フライ級契約6回戦のリングに上がった政悟は、山地秀明(広島拳闘)相手に初回45秒KO勝利。圧倒的な実力差をみせつけ、赤字覚悟で自主興行を復活させた守安の思いにも応えた。

「『あの子(政悟)はきちんと経験さえ積めれば、日本チャンピオンには必ずなれる』と思って、また挑戦してみようと。自主興行を再開すれば、金銭面で苦労することはわかっておりましたが、あの子の頑張っている姿を見ているうちに、また心に火が付いてしまったんですね。ただ、まさか世界チャンピオンになれるとまでは、最初の頃は思っておりませんでした」

政悟の練習を見守る守安。中2で入門して以来、政悟本人が聞いてこない限り、技術については特に指導することはない 政悟の練習を見守る守安。中2で入門して以来、政悟本人が聞いてこない限り、技術については特に指導することはない 政悟は守安について「そばにいて当たり前の存在」と話す。会話は交わさなくとも安心感を与えてくれる存在が守安だった 政悟は守安について「そばにいて当たり前の存在」と話す。会話は交わさなくとも安心感を与えてくれる存在が守安だった
元号が平成から令和に変わった2019年10月27日に開催された、38回目の桃太郎ファイト。プロ17戦目、日本フライ級1位まで上り詰めた政悟は、中谷潤人(M.T)が返上して空位になった王座を賭けて同級2位の小坂駿(真正)と対戦。通算9度目となる初回TKO勝利で新チャンピオンになった。

守安以来、39年ぶりに誕生した岡山にあるジム所属の日本チャンピオン。それは東京にある大学の名門ボクシング部からの勧誘を断り、大手ジムにも所属することなく守安ジムでボクシングを続ける道を選んだ政悟の夢。そして政悟の可能性に賭けて、赤字覚悟で自主興行を復活させた、守安の夢が同時に叶った瞬間だった。

ふたりの夢物語はここで終わらなかったーー。

■71歳になった元・咬ませ犬が見る夢

昨年1月23日、政悟は無敗の王者アルテム・ダラキアン(ウクライナ)を判定で下して世界王座に就いた。

政悟はリング上の勝利インタビューで、

「(世界チャンピオン誕生は)『守安ジム3度目の正直』ということで、守安会長につけてもらいたいと思います」

と語り、隣で見守る守安の腰に、獲得したばかりの世界チャンピオンのベルトを巻いた。

守安の現役時代とは違い、現在は露骨な地元判定は少なくなった。そういう意味では、大手ジムに所属するボクサーでなくても、実力さえあれば日本タイトル挑戦など大きなチャンスも掴みやすくなったと言えるかもしれない。

ただし世界を目指すとなれば話は違った。実力の拮抗したスパーリングパートナーが見つからないなど普段の練習環境はもちろん、マッチメークに関しても、大手ジムに比べれば圧倒的に不利な立場にある。

政悟はそんな逆境を自らの拳で打ち砕き、「岡山にあるジム所属ボクサーとして初の世界チャンピオン」というさらに大きな夢を叶えた。そしてそこまで辿り着く道のりを支えてくれた舞台こそが、「桃太郎ファイト」だった。

2024年10月13日、政悟は世界王者として2度目の防衛に成功した。守安はチーフセコンドとして戦いを支えている(写真/北川直樹) 2024年10月13日、政悟は世界王者として2度目の防衛に成功した。守安はチーフセコンドとして戦いを支えている(写真/北川直樹)
エディオンアリーナ大阪で世界タイトルを獲得した政悟は東京ドーム、そして東京・有明アリーナで防衛に成功した。

2024年の1年間戦った3試合の舞台はすべて、桃太郎ファイトとは比較にならないほど大きな会場だった。政悟の世界戦を岡山で開きたいという思いもあるが、「守安ジム3度目の正直」と話して世界チャンピオンのベルトを腰に巻いてくれた愛弟子は、プロモーターとしての自分の力では追いつけないほどの大舞台で戦うことが常になった。

現実、桃太郎ファイトの自主興行で政悟の世界戦興行を打つ事は難しくなった。守安はいまの自分にできること、できる方法で支えられたらと考えていた。

「何が楽しくしてなんじゃろうね。やっぱり、ボクシングには夢があるんだろうね。自分も10年間ボクサーとしてリングに上がって、世界には届きませんでしたが日本チャンピオンにもなれた。だから余計、ボクシングが好きになったんじゃろうね」

政悟の練習を黙って見守る守安の姿を見ているうちに、映画「ロッキー・ザ・ファイナル」での、あるシーンが思い浮かんできた。

現役引退して時も経ち、50歳を過ぎたロッキーは、ある出来事をきっかけに現役復帰を決意する。そんな最中、偉大な父親の元に生まれた苦悩を息子に告白された。ロッキーは自身の人生を振り返りつつ、息子に対して、困難に立ち向かうことの大切さをこう説いた。

世の中はいつも薔薇色じゃない 
それなりに厳しく、辛いことも待っている 
気を抜いていたらどん底まで落ち込んで 
二度と這い上がれなくなる 
それが人生だ

人生はどんなパンチよりも 
重くお前を打ちのめす 
だがどんなにきついパンチだろうと 
どれだけこっぴどくぶちのめされようと 
休まず前に進み続けろ 
ひたすら苦痛に耐え前に進むんだ 
その先に勝利がある

1976年に初公開された映画「ロッキー」は30年後、2006年の「ロッキー・ザ・ファイナル」でシリーズに幕を閉じた。

33歳でジム経営を始めた守安は、時に大きな負債を抱えながらも自主興行を打ち続け、ロッキーシリーズよりも長い37年という時を経て、岡山から世界チャンピオンを誕生させる夢を叶えた。

岡山のロッキーは、咬ませ犬と呼ばれた現役時代と変わらず、71歳になったいまも戦い続けていた。

政悟に対して自分の昔話や苦労について言葉にすることはない。練習中もいつも黙ったまま、特に言葉をかける事もなく見守るだけだ。それでも守安の情熱、そしてボクサーとしての魂は、間違いなく伝わり継承されていた。

政悟が都会の大手ジムではなく生まれ育った岡山、いや守安ジムで世界チャンピオンを目指そうと決めた大きな理由のひとつは、守安に恩返しがしたい気持ちが強かったからではないだろうか。ダラキアンに勝利した時、自分自身よりも先に隣で見守る守安の腰に獲得したばかりの世界チャンピオンのベルトを巻いた時、そんな政悟の思いを物語っているように見えた。

「あの子と一緒に『もう少しだけ夢の続きを見たい』という思いはあります。ただ膝が悪くて普段は歩く事も辛い。じゃけどやる以上は、しゃきっとしないと。ロープを担ぐ前にフラフラっとして倒れてしまったら、あの子に心配かけてしまいますから」

会長室の窓越しからシャドーを繰り返す政悟を見つめ、守安は穏やかな笑みを浮かべた。

2025年3月13日――。

守安は政悟とともに、世界フライ級2団体統一をかけてふたたびリングへと向かう。


●守安竜也(もりやす・りゅうや) 
倉敷守安ボクシングジム会長。1953(昭和28)年6月26日、岡山県都窪(つくぼ)郡山手村(現在の総社市)生まれ。1974(昭和49)年11月プロデビュー。1981年8月、日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王座を獲得して3度防衛。WBA世界ジュニアウェルター級ランキングは最高3位。通算戦績12勝(6KO)16敗。30歳で引退した後、1987(昭和62)年4月、33歳の時にジム開設。現在プロボクサーはWBA世界フライ級王者、ユーリ阿久井政悟、元日本スーパーフライ級ユース王者、神崎靖浩などが所属。過去の主な所属ボクサーは、元東洋太平洋ミニマム級王者のウルフ時光、同スーパーフェザー級暫定王者の藤田和典など。

会津泰成

会津泰成あいず・やすなり

1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。

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