会津泰成あいず・やすなり
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。
岡山県にあるジム所属ボクサーとして初のボクシング世界王者になったユーリ阿久井政悟――。地方ジム希望の星は世界2階級王者、寺地拳四朗とのフライ級2団体統一戦に挑む!
なぜ岡山から世界を目指したのか、自身のボクシング人生の振り返りや拳四朗との戦いについて聞いた。
1年前の2024年1月23日。岡山県倉敷市にある倉敷守安ボクシングジム所属のユーリ阿久井政悟は、無敗の王者アルテム・ダラキアン(ウクライナ)を判定で下してWBA世界フライ級王座に就いた。岡山県にあるジムから初の世界王者誕生で、阿久井の偉業は、地方ジムから世界を目指すボクサーにも大きな希望を与えた。
リングネームの「ユーリ」の由来は、知人から90年代に活躍した同じフライ級の名ボクサー、勇利アルバチャコフに「顔が似ている」と言われたことがきっかけ。
WBC世界フライ級王座を9度防衛した本家ユーリに迫るべく、昨年は王座獲得も含めて世界戦3連勝。今春3月13日には寺地拳四朗とのフライ級王座統一戦(WBA/WBC)が決定するなど、いまや日本ボクシング界の顔のひとりだ。
「プロボクサーを目指したのは中1のとき、長谷川穂積さんの試合を見て憧れたことがきっかけでした。でも思い返してみれば、小学校の卒業文集で『ボクシングの世界チャンピオンになる。ボクシングジムを開く』と書き残していました」
阿久井の父、一彦も元プロボクサーで、守安ジムの第1号選手。叔父も守安ジム所属で、後に世界王者になる飯田覚士(さとし)の持つ日本タイトルに挑戦した赤沢貴之というボクシング家系に育った。ふたりに勧められることはなかったが、幼い頃から自然とボクシングに親しむことのできる環境に育ったことも影響したに違いない。
中2で守安ジムに入門し、中3で出場したU-15全国大会で優勝。高校はボクシング部のない地元・岡山の倉敷翠松高校に進学し、選手登録だけして守安ジムで練習を続け選抜&国体で8強入り。
実績が評価されて東京にある大学の名門ボクシング部監督が直々にスカウトに来たものの断り、高校卒業後は地元・岡山の環太平洋大学に進学。同年4月、守安ジム所属でプロデビューした。
「岡山に残った理由は『守安ジムが好きだから』というのが一番です。ただ当時は、『全国からボクシングエリートや猛者の集まる東京の大手ジムで続けられるだろうか』と自信もなかったように思います。東京でプロデビューしていたら、もしかしたら埋もれてしまっていたかもしれないですし、世界チャンピオンにもなれなかったかもしれないです」
阿久井のボクシング人生を語る上で欠かせないのは守安竜也(りゅうや)会長の存在だ。現在71歳の守安は、21歳のとき、当時岡山に唯一存在したボクシングジム、平沼ジムからプロデビュー。日本ジュニアウェルター(現スーパーライト)級王座を3度防衛し、農協職員と二足の草鞋を履いていたことから「農協のチャンプ」と呼ばれたりもした。
ただし通算戦績は、28戦12勝(6KO)16敗と大きく負け越している。地方の弱小ジム所属ゆえ常に敵地で戦い、内容は勝っていても"地元判定"で負けになることも日常茶飯事。
世界戦を控えた有力ボクサーの「咬ませ犬」役のような扱いをされることも多かった。それでも困難を乗り越えて千載一遇のチャンスをつかみ、大番狂わせを演じて日本チャンピオンになった。
「父や叔父から『(守安)会長の現役時代の試合はすごいぞ』と聞いて、過去の映像を見ました。いまの自分とは比較にならないほど厳しい環境でボクシングを続けて日本チャンピオンになった。それは本当にすごいなと思います」
守安は30歳で引退後、33歳でジム経営を始めた。「自分が育てる選手は、咬ませ犬にしとうなかった」という思いから「桃太郎ファイトボクシング」と名づけた自主興行を打ち、チャンピオン含めて多くのプロボクサーを育てた。
その過程は現役時代と同様に苦労の連続で、99年と01年に秘蔵っ子のウルフ時光(ときみつ)が世界挑戦するも失敗し、2度目の世界戦では2000万円もの借金を抱えた。いつしか看板選手もいなくなり、14年間続けた桃太郎ファイトも中止に追い込まれ、ジム経営自体も危うくなりかけた。そんなさなか、中2の「政悟」が入門した。
「ジムOBの先輩は『会長は、昔はすごく怖かった』と言います。練習を休めば電話をかけてきて、家まで訪ねてきたりもしたそうです。会長自身、現役時代は体が壊れるほどがむしゃらに練習していたので、昔はその考え方を選手にもぶつけていたのかもしれません。
スパーリングを終えた選手が帰ろうとしたタイミングで別の選手が来ると、『おう、おめえスパーリングせえ!』と言い始めて、急遽また相手をやらされたりもしたらしいです(笑)。当時と比較すればいまはとても丸く穏やかです。40歳半ばで結婚して、ふたりの娘さんに恵まれてからずいぶんと変わったようですね」
政悟の才能を見いだした守安は、政悟が全日本新人王を獲得してライトフライ級で日本ランキング入りしたことをきっかけに、10年ぶりに桃太郎ファイトを再開させた。
以後、政悟は桃太郎ファイトのメインイベンターとしてリングに上がり続けた。19年10月に開催された38回目の桃太郎ファイト。政悟は日本フライ級王座決定戦で同級2位の小坂駿(真正)と対戦。
初回TKO勝利で、日本王座を獲得。赤字覚悟で自主興行を再開させた守安の期待にも結果で応えた。
「守安会長は家族のような存在ですかね。いつもそばで黙って見守ってくれる。良くも悪くも昔気質な人ですが、誰に対しても偉ぶらないところが好きですね。
OBの先輩も皆『守安会長に夢を見させたい』という思いで、ボクシングをしていたように思います。世界戦の興行で大きな借金を抱えたこと、それでも選手のために自主興行を続けたことを知っているので、自分も恩返ししたい気持ちは強いです」
昨年1月、WBA世界フライ級王座に就いた阿久井は、リング上の勝利インタビューで、「(世界王者誕生は)『守安ジム三度目の正直』ということで、守安会長につけてもらいたいと思います」と話し、獲得したばかりの世界チャンピオンのベルトを、自身よりも先に守安の腰に巻いた。
あの行動にはそんな気持ちがあったことを知ると同時に、なぜ地元に残ってボクシングを続けたのかも理解できたような気がした。
今春3月13日、阿久井はWBC世界フライ級王者の寺地拳四朗(BMB)と2団体統一戦に挑むことが決定した。拳四朗は、ライトフライ級時代は世界2団体統一王者で圧倒的な強さを誇った。
長らく保持したタイトルを返上して挑んだフライ級転向初戦でもいきなり世界戦に挑み、11回TKO勝利で2階級制覇を達成するなど、日本軽量級史上に残る名ボクサーのひとりだ。
そんな拳四朗と出稽古でスパーリングを重ねたことも阿久井が強くなれた大きな理由のひとつだ。昨年11月中旬、守安ジムで取材した時点では、両者の対戦は「もう少し先になるのでは」と思われていた。しかしそのときは、予想よりも早く訪れることになった。
「5年前、初めて三迫(みさこ)ジムにお邪魔して拳四朗さんとスパーリングをしたときはボコボコにやられました。ジャブは正確で、かつ力強い。何を仕掛けてもペースを奪われてしまう。『どうにもならねえな』と絶望しました。でもその日から、自分が目指すべき強さの基準は『寺地拳四朗』になりました」
拳四朗は、当時すでにWBCライトフライ級王座を5度防衛。対する阿久井は、日本フライ級4位と、実績の差は大きく開いていた。阿久井はそれでも臆することなく、東京遠征のたびに三迫ジムに顔を出し、「目指すべき強さの基準」である拳四朗に挑み続けた。
「拳四朗さんは自分のボクサー人生にとって、ラスボスのような存在。2回目にスパーリングをしたとき、『拳四朗さんとの差も少しは縮まったかな』と思いました。
でも、3回目、拳四朗さんが矢吹(正道、緑)さんと再戦する直前にスパーリングをしたら、ファイタースタイルにモデルチェンジしていて、さらに強くなっていました。『あのスタイルで勝負したら絶対勝つだろうな』と思っていたら、マジでそれをやって矢吹さんを倒した。あの試合はすごかったですよね」
阿久井は拳四朗と19年4月に初めてスパーリングをして以来、23年12月、ダラキアン戦の前まで合計4回重ねた。その間の試合は6戦6勝(3KO)で、日本そして世界王座への階段を上り続けた。
一方、拳四朗はその間、8戦7勝(6KO)1敗。21年9月の矢吹戦での不運な敗戦はあったものの、再戦では圧倒的な強さで王座を奪い返した。以降フットワークを駆使したうまさだけでなく、激しい打ち合いもいとわないファイターとしての強さも身につけた。
拳四朗にとっても阿久井とスパーリングを重ねたことは、ボクサーとしてさらに成長する大きなきっかけになったはずだ。
阿久井が昨年1月にWBA世界フライ級王者になった直後、拳四朗も同級への転向を表明して世界2階級制覇を目指し始めた。それからは、ふたりのスパーリングは実施されていない。「成長するきっかけを与えてくれた相手との対戦は、やりにくくないか」と質問すると、思いがけない言葉が返ってきた。
「尊敬する相手だからこそ思い切り殴れる。でも試合が終われば恨みっこなし。自分はそう考えています」
阿久井は、同じフライ級の世界チャンピオンとして「ラスボス・拳四朗」と拳(こぶし)を交えるとき、何を思うのか。いずれにしろ、日本ボクシング史に残る名勝負になることは間違いないはずだ。
●ユーリ阿久井政悟(あくい・せいご)
1995年9月3日生まれ。岡山県倉敷市出身。本名は阿久井政悟(あくい せいご)。現WBA世界フライ級王者。父親と叔父も元プロボクサーという環境に育ち、中2から倉敷守安ジムで本格的にボクシングに取り組む。中3で出場したU-15大会で全国優勝。同大会決勝の相手は、現WBA世界バンタム級王者の堤聖也。高校時代は選抜&国体で8強入り。2014年、環太平洋大学(岡山)進学後、同年4月プロデビュー。翌年、全日本新人王獲得。19年10月、中谷潤人(M.T)の返上した日本フライ級王座決定戦で初回TKO勝利して日本タイトル獲得。24年1月、無敗の王者アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に判定勝利し、岡山県にあるジム所属として初の世界王者になった。通算戦績24戦21勝(11KO)2敗1分け
1970年生まれ、長野県出身。93年、FBS福岡放送にアナウンサーとして入社し、プロ野球、Jリーグなどスポーツ中継を担当。99年に退社し、ライター、放送作家に転身。東北楽天イーグルスの創設元年を追った漫画『ルーキー野球団』(週刊ヤングジャンプ連載)の原作を担当。主な著書に『マスクごしに見たメジャー 城島健司大リーグ挑戦日記』(集英社)、『歌舞伎の童「中村獅童」という生きかた』(講談社)、『不器用なドリブラー』(集英社クリエイティブ)など。