布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第38回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回につづき、30年以上にわたりさまざまな格闘技イベントでレフェリーを務め、トレーナーとしても多くの選手に慕われる、和田良覚(わだ・りょうがく)氏をフィーチャー。筋骨隆々な肉体で、自身がMMAの試合に出た経験もある〝最強レフェリー〟の濃厚すぎる人生に迫る!(前回記事はこちら)
ゲーリー・オブライト、スーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)、サルマン・ハシミコフ、ダン・スバーン......。UWFインターナショナルにレフェリー&トレーナーとして在籍した和田良覚にとって、同団体に参戦した大物外国人レスラーとの交流も懐かしい思い出だ。
「ゲーリーなんて、彼の下の奴(レスリングで実績が下の選手)がオリンピックに出て金メダルを獲ったと聞きました。ゲーリーが出ていたら間違いなく金メダルを獲っていたでしょうね!」
ゲーリー・オブライトは身長192cm、体重160kgというスーパーヘビー級の体格ながら、中量級の選手並みの動きを見せることに和田は衝撃を受けた。
「一見太っていて、腕もそんなに太くないように見えるし、脚も外国人選手の割に短い。でも背中の筋肉の大きさや、ケツや脚の太さはもの凄かった。アップのときなんて、あの身体でゴムマリのようにブリッジをしていましたからね。今まで僕が見てきたジャーマン・スープレックスの中で一番凄かったのはゲーリーだと思っています」
同じくスーパーヘビー級のベイダーもモンスターと呼ぶに相応しいレスラーだった。
「だって体重180㎏で当たり前のようにムーンサルトプレスをやっていましたからね」
ベイダーの試合を裁いていて苦い思い出がある。中野龍雄(現・巽耀)との一戦で中野がダウンを喫したので、ダウンカウントを数えていたらベイダーがラリアットを仕掛けてきた。中野と一緒に、オモチャのように簡単に吹き飛ばされてしまったのだという。
「試合中、ベイダーに掌底を張られたこともあります。完全に効いてしまいスタンディングダウンで3分間くらい記憶がなかったと思います。でも、その大会でレフェリーは僕ひとりだったのでKO(退場)されるわけにもいかない。控室に戻ったときには何をやられたか、全然覚えていなかった。ヤバかったですね」
ベイダーはリング上では無軌道に暴れ回り、対戦相手にも敬遠されることが多かったが、その素顔は優しい大男という記憶しか和田にはない。
「僕、外国人レスラーの送迎もやっていたけど、私生活のベイダーはジェントルマンなんですよ。でも、試合になったら別人に変わってしまう。場外でベイダーが暴れているときには新人時代の高山(善廣)と金原(弘光)が怖くて近づけなかったという逸話があるくらい。暴れたら手がつけられないタイプだったので、当時の若手は大変だったと思いますよ」
両雄、並び立たず。私生活でベイダーとオブライトは仲が悪かったという。
「どっちもプライドが高かったですからね。そのあとにはジョン・テンタ(身長201cm、体重210kgのカナダ人。元大相撲力士)が入ってきたり、サルマン・ハシミコフ(100kg超級レスリング・フリースタイル世界選手権チャンピオン)が絡んできたり、もう本当に大変でした」
まさに怪物ランド。レフェリーとして試合を裁きながらビビったことは一度や二度ではなく、「もうガチで怖かった」と吐露する。時にはリングで「なぜ俺はここにいなければいけないのか」と思ったことさえあったという。
「おかげで僕、MMA(のレフェリング)ではビビったことがない。ベイダーやゲーリーのほうが何倍も怖かったので」
レスラーたちとスパーリングもやっていた和田は、時に外国人レスラーとも練習で組み合うことがあった。のちにUFCで活躍するダン・スバーン(100kg級レスリング・フリースタイル・パンアメリカンチャンピオン)もそのひとりだった。
「ダンはいいオッサンだったけど、むっちゃ力がありましたね。ゲーリー同様、彼も確かグレコローマン出身ですよね。ダンと組んだら、もう化け物でした。当たり前ですけどね」
現役ファイターだけではない。UWFインターにプロレス界のレジェンドとして来日したルー・テーズ、ビル・ロビンソン、ダニー・ホッジらとも接触する機会を持った。
「ロビンソン先生にもよく技をかけられました。先生のベースはキャッチ・アズ・キャッチ・キャンじゃないですか。練習の拠点となったビリー・ライレージムではカール・ゴッチさんとも一緒に練習したと聞きました」
どんなレジェンドと接しても和田は実験台にされたが、通算8回もNWA世界ジュニアヘビー級王者となったホッジも忘れられない強さを持ったひとりだった。
「ホッジさんはオリンピックでもレスリングでメダルを獲得している(1956年のメルボルンオリンピックの男子フリースタイル・ミドル級で銀メダル)けど、ボクシングでも実績を残している(1958年全米ゴールデングローブ・ヘビー級王座を獲得)」
テーズもロビンソンもプライドが高く、なかなか同業者をほめようとしなかったが、ホッジに対してだけは別だったという。
「ふたりとも『ホッジはヤバい』と口をそろえていました。僕が接しているときにはいつもニコニコしていたけど、一瞬殺し屋のような目つきになることがある。そのとき『この人、ホンモノだ』と思いましたね」
ホッジといえば、いとも簡単にリンゴを握り潰すパフォーマンスで有名だった。人並み外れた握力には怪力で知られる和田も白旗を揚げるしかなかった。
「当時の僕は握力が100kgくらいある奴に握手されても、握り返せるくらいの握力はあった。でも、ホッジさんに握手されたら、グシャグシャにやられました。その頃のホッジさんはもう70歳を過ぎたおじいちゃんなのに、僕なんて比較になりませんでしたね。リンゴ潰しなんて、ホッジさんからしたら朝飯前だったのでしょうね」
外国人レスラーやレジェンドからも揉まれた和田は少しずつ強くなっていく実感があった。月日が経ち、のちにトレーナーとして選手を教えているとき、安生洋二から言われた「和田さん。強くなったね」という一言がいまだに忘れられない。
かつて和田は安生に「俺は安ちゃんの半分でいいから強くなりたい」と漏らしたことがある。技術が欲しかったからだ。
「でも、いつの間にか(やられているうちに)相手への体重の乗せ方からいろいろ覚えたんです」
苦しくも思い出深いUWFインターの時代はそう長くは続かなかった。大口のスポンサー不在による資金面の脆弱さ、外国人レスラーのギャラ高騰、エース髙田延彦の参院選出馬による離脱などさまざまな理由が重なり合い、95年になると団体存続の危機を迎えてしまったのだ。資金難から所属選手へのファイトマネーの遅配も起きた。レフェリー&トレーナーの和田も例外ではなく、団体の末期には給料が出なくなってしまった。
「いまだにもらっていないですよ。正確な額は忘れてしまいましたけど。でもいいんです。格闘技のスキルを覚えた勉強代の代わりとして(笑)」
お金がなければ、生きていけない。スポーツクラブ時代の大親友で、俳優業のみならず映画制作にも乗り出していた澤田謙也(日本人では稀なジャッキー・チェンの盟友)の伝手を頼り、映画『ホーク/B計画』に傭兵役で出演した。社会的事件を引き起こした宗教テロ組織をモデルにしているという理由で物議を醸し、日本では公開延期となったいわくつきの作品だった。
「1ヵ月ほど香港に滞在して映画に出ました。公開が延期になったときには......もうやってられなかったですよ(苦笑)」
そのまま俳優業に本格的に進出することなど露ほどにも思わなかった。
「ちょっと足を踏み入れたら、そんなに甘くない世界であることはすぐわかるじゃないですか」
その次に和田が足を踏み入れたのは、夜の街のクラブの前に立つ、用心棒稼業だった。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。