![布施鋼治](/author/images/d2a8ff839627ef200fd0976cf38544f84bd571ae.jpg)
布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第39回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回につづき、30年以上にわたりさまざまな格闘技イベントでレフェリーを務め、トレーナーとしても多くの選手に慕われる、和田良覚(わだ・りょうがく)氏をフィーチャー。筋骨隆々な肉体で、自身がMMAの試合に出た経験もある〝最強レフェリー〟の濃厚すぎる人生に迫る!(前回記事はこちら)
1990年代中頃、香港で映画俳優に挑戦したあと、和田良覚は生活費を得るために、週末になると夜の街でクラブのドアボーイに就いた。主な仕事はケンカを止めたり、店にとって不都合な客の来店を拒むこと。いわゆるバウンサー(用心棒)である。
「実は世田谷のスポーツクラブでインストラクターをやっていたときにも同じ仕事をちょっとだけやっていたことがあります。当時は今みたいにセキュリティー会社もなかったので大変でした」
バウンサーのノウハウは自分たちで構築しなければならなかった。何もなければそれに越したことはないが、何度も騒ぎが起こる日もある。客層も十人十色。すでにバブルの時代は終焉を迎えていたが、得体の知れない外国人もいた。
「イタリア系の常連客で顔馴染みになった人がいたんですよ。ある日、『良ちゃん、いいものを見せてあげる』と口にするや、トカレフを見せてくれました」
まさに東京アンダーグラウンドの世界。バウンサー業は酒を口にして気持ちが大きくなっている者を相手にするため、いつも危険がつきまとっていた。
「クラブの入り口に立っているんですけど、暴れるヤツもいましたからね。僕は運良くケガしなかったけど、他の同業者の中には刺されたりするヤツもいましたから」
刃傷沙汰を起こすのは外国人が多かったと記憶している。
「120kg近くありそうな巨漢の白人に後ろから不意に殴られ、何日間も記憶喪失になった仲間もいましたね」
暴れる輩の制し方を聞くと、和田は羽交い締めが有効と即答した。
「それ以外だったら、裸絞めだったり、ボディへの膝蹴りだったり、持ち上げてドーンと落としたり。その頃はまだ時代背景的にも、そういう手荒いことも結構できましたね(照れ笑い)」
仕事先は当時、夜の街では一世を風靡していた東京・青山のクラブ「PYLON(パイロン)」だった。
「自分の知り合いの選手たちはみなVIP待遇。長蛇の列なのに自分が門番なので、みんなスルーして顔パスで入っていました。もちろん、VIP席で無料でシャンパン飲み放題、遊び放題でした(笑)。おこぼれで一杯? いやいや、仕事中なので僕は一滴も飲まなかったです。『いいな、コイツら』とは思ってましたけど(笑)」
同業者には日本で修行中のニュージーランドのキックボクサー、ジェイソン信長(ジェイソン・サティー)と、500万円程かけてカスタマイズしたハーレーに乗っていた「ボブさん」という長身のドイツ系アメリカ人がいたという。
和田にとってはふたりとも頼もしい仲間だった。和田は、酔っぱらった客とジェイソンが対峙したときの攻防を忘れることができない。
「南アフリカ系の相手が、ナイフを出す仕種をした段階で、ジェイソンはミドルキックとヒジとヒザで畳みかけ、ボコボコにしてました。もうそれだけで相手は血まみれですよ」
ダメージもひどく、よほど頭に来たのだろう。やられた客はすぐさま警察を呼んだ。
「そのときのジェイソンはK-1でのデビュー戦を控えた身だったので、これはヤバいことになると思って、早々に逃がしました」
現場に急行した警察官に「ここにもうひとり外国人がいませんでした?」と聞かれても、和田は「いや、知らないですね」とシラを切った。バウンサーと客の揉め事ではなく、外国人の客同士の揉め事と見なされたことが唯一の救いだった。
「見つかって警察にしょっぴかれたら、(正当防衛かどうかの判断をされるまでに時間がかかるので)K-1に出られる可能性はなくなってしまいますからね」
何事もなかったかのように1996年9月1日、『K-1 REVENGE』のリングに立ったジェイソンはアーネスト・ホーストの兄弟子としても知られる伝説的なキックボクサー、イワン・ヒポリットからダウンを奪った末に判定勝ちを収めるという金星をあげた。
「ジェイソンはサモアの血が入っているニュージーランド人でした。母国のケンカ番長だったけど、儒教の教えのように、両親には絶対服従で、やさしくていいヤツでしたね」
ケンカにはめっぽう強く、和田は本人からこんな自慢話を聞いたことを覚えている。
「この間、ふたりのレスラーをヒジでぶっ倒したよ」
ジェイソンは武勇伝に事欠かない。他のクラブでは日本刀を抜いて暴れ回る暴漢を徒手空拳で制したという話も耳にした。
「僕も短刀を抜いた人を相手にしたことはあったけど、日本刀を相手にしたことはさすがにない。すごいですよね」
その後、PYLONにはエンセン井上やジェラルド・ゴルドー(オランダ)も出入りするようになった。完全なカオス状態に思えるが、トラブルになることはなかったという。
「まずゴルドーとジェイソンが仲良くなって、それからジェイソンの従兄弟がエンセンに弟子入りするなど、みんな仲間になっちゃったんですよ。すごくないですか? オランダのケンカ番長、ハワイのケンカ番長、ニュージーランドのケンカ番長が仲間ですよ(笑)。だからそんじょそこらの悪そうなヤツがきても、邪魔だよと言いたげにそいつらを蹴散らしていましたね」
若かりしエンセン井上(右)と(和田氏提供)
ジェイソン信長(右)、ジェラルド・ゴルドー(左)と(和田氏提供)
その後、ジェイソンはニュージーランドに帰国。ヘビー級の選手として活動するようになるが、今はもう付き合いはない。「今頃、何をしているんですかね」と和田は懐かしむ。
バウンサー業の仕事はケンカの仲裁だけにとどまらない。経営者から信頼を得ていた和田は途中から、その日の売り上げを金庫に入れる際のセキュリティーも頼まれていた。
「儲かっていたので、反社によく狙われていたようです。実際同じ仕事をしていた僕の友達は狙われていたみたい。それで僕に最後までいてくれということになって」
96年、K-1はフジテレビで放送され4年目を迎えており、翌年からは名古屋、大阪、東京とドームツアーをスタートするなど絶好調だった。一方、総合格闘技のほうも『バーリトゥード・ジャパン』を中心に徐々に浸透している時期だったので、当時の格闘技界は賑やかだった。
その熱を和田はバウンサーをしながら肌で感じていた。
「店にピーター・アーツやホーストが来たら、他のお客さんが『ウワッ~』という感じで群がっていました。翌日は練習が休みになる週末や大会後になると、彼らはよく顔を出していましたね。そのボスの石井(和義)館長や芸能界の有名プロダクションの社長さんたちも、よくおいでになられてましたよ」
ピーター・アーツ(右)ら人気選手もよく遊びに来たという(和田氏提供)
バウンサーを兼業とした期間は2年弱ほどと短かった。それでも、常在戦場を経験することで、和田は「クソ度胸がついた」と明かす。
「ぶっちゃけ、暴れても日本人は大したことはない。外国人のほうが危なかったです。ヒョロッとしていてマジメそうでも、キレると途轍もなく力があったりするヤツもいましたからね」
刃物を持っている者、あるいは今にも刃を抜こうとしている者への対処は?
「いや、もう速攻ですよ。『とりあえず相手の様子を見て』なんて流暢なことはやってられない。問答無用です。そうしないと、こっちがやられるので」
UWFインターナショナルの道場で格闘技のスキルを磨き、夜の街で「クソ度胸」をつけた和田レフェリー
和田は地下格闘技系のイベントでレフェリーを務めたこともあるが、判定に不満を抱いた選手が和田に暴言を投げかけてくることも一度や二度ではなかった。そんなときは即座に「お前、その口の聞き方はなんだ? そんなんじゃ世の中では通用しないぞ。やるんだったらやるぞ」と一喝した。
「地下格闘技の若い選手たちをスカウトに来ていた反社の人たちがそれを見て、『おっかない私立の体育教師みたいだ!』って大笑いしながら喜んでいました。そこで僕は『おたくらの世界だって礼儀や言葉遣いは一番大切でしょう』って諭して納得させてましたね(笑)」
たとえどんなケンカ自慢にスゴまれようと、和田は「全然平気」と断言する。
「怖くもなんともない。向こうはイキがっているだけだから。僕は死ぬ思いをして、(UWFインターナショナルの道場で)血ヘドを吐いてスパーリングを毎日のようにしていたわけだから」
ちなみに、礼儀や言葉遣いに厳しかったという和田の父親は、第二次世界大戦では凄惨を極めたニューギニア戦線から生還し、戦後は地元茨城で校長を務めるほどの人格者だったという。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。