「つば九郎」について語った山本キャスター 「つば九郎」について語った山本キャスター

訃報から一夜が明け、悲しい気持ちのまま朝を迎えました。何かしていないと、でも何をしていても頭に浮かんで、「めからあせが」......。重い体をなんとか持ち上げ、パソコンを開いています。この原稿の締め切りは木曜の夕方で、別の内容で入稿を進めていたのですが、昨日のしらせを受け、担当さんのご配慮によりテーマを変更し、少しだけ締め切りを伸ばしてもらいました。

あなたはマスコットの範疇を超えて、そしてチームの垣根を越えて、多くの人に愛される存在でした。チームメイトとの掛け合いも、毒の効いたシニカルなフリップ芸も、おじさんくさい言動も、あの愛おしいお腹やお尻も、すべてひらがなで書かれたブログに記されたユーモアと愛のある文章も。そのすべてが唯一無二の魅力でした。

ヤクルトファンになってから、何年が経ったのでしょうか。

子どもの頃から今日まで、神宮球場に数え切れないほど足を運びました。悔しい時も寂しい時も、喜びの瞬間も、いつでもそこにはあなたがいました。

つば九郎がデビューしたのは1994年で、私が生まれたのは1996年。2学年先輩です。つまり、1年の時の3年生。私のほうが少しだけ後輩だけど、ヤクルトファンとしての私の人生は、いつもあなたと共にありました。

ヤクルトが好きになったのは両親の影響でした。しかし、東京ヤクルトスワローズというチームに惹かれるようになりました。選手や首脳陣、チームスタッフ、そしてファンも含め「かぞく」と呼ばれるその温かさの中心には、いつもあなたがいました。

スワローズの番組を担当していたことで、五十嵐亮太さんやライターの長谷川晶一さんから、グラウンド外でのあなたの様子を聞くこともありました。るーびー(ビール)が好きなこと。ファンと同じようにチームメイトからも「つば九郎、つば九郎」と愛され続けてきたこと。

そういえば私が初めてあなたとお会いしたのも、先の2人と福岡の交流戦で副音声を担当した日で、その夜の打ち上げでは「今頃きっとつば九郎も、中洲の夜を"ぱとろーる"しているね」と話していたのを懐かしく思い出します。

宝物の1枚。昨年の6月、福岡にて。 宝物の1枚。昨年の6月、福岡にて。

当たり前に続くと思っていたものがなくなってしまう。寂しさと、怖さを感じます。ぽっかりと開いた大きな穴は、どんなに月日が流れても、埋まることはないのかもしれません。

あなたとの思い出を確かめたくてぼんやりと画像フォルダを眺めていたら、ある日の姿が目に止まりました。手に持ったフリップには、こんな文字が。

「しごとしろよ」

すみません......。

気を抜いたら涙が溢れ出してくるほどつらいのに、思わずクスッと笑ってしまう......。そうだ、私たちはいつもつば九郎に楽しませてもらい、なごませてもらい、そして救われてきたんだ。今頃は、日本中が悲しみに暮れる現状をも、きっと持ち前の毒と愛で、うまくいじっているはず。

人が行き交う駅前の雑踏で、バッグに大きなチャームをつけている人を見かけました。青のヘルメットに、赤いほっぺと黄色いくちばし。遠目からでもわかるあなたの姿に、また目が潤んでしまうけれど、それと同時に、あなたがヤクルトスワローズの一員として、野球を、スワローズを、つば九郎を愛するすべての人々の心の中に、この先もずっと生き続けるのではないかと気づき、はっとしました。

ヤクルト球団は2月19日、「つば九郎を支えてきた社員スタッフの永眠」とともに、「しばらくの間活動を休止」することを発表しました。つば九郎は自身のブログで常々、「みんな、えみふる」と綴っていました。みんな笑顔で。悔しい時も寂しい時も、楽しい時も嬉しい時も、勝っても負けても、弱い時も強い時も、つば九郎は私たちの希望でした。それはこの先も変わりません。あなたはいつだってチームを照らす存在であり続けるのだから。だからきっと、「またあえる」よね。

昨日はその気になれなかったけれど、今夜はプルタブを引きました。今頃あなたは、そっちでも"ぱとろーる"しているんでしょうか? 深い感謝の思いとともに。るーびーで、けんぱい。

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山本萩子

山本萩子やまもと・しゅうこ

1996年10月2日生まれ、神奈川県出身。フリーキャスター。野球好き一家に育ち、気がつけば野球フリークに。2019年から5年間、『ワースポ×MLB』(NHK BS)のキャスターを務めた。愛猫の名前はバレンティン。

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