PRIDEヘビー級タイトルを争ったエメリヤーエンコ・ヒョードル(上)とアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ。両者ともキャリアの初期はリングスが主戦場だった PRIDEヘビー級タイトルを争ったエメリヤーエンコ・ヒョードル(上)とアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ。両者ともキャリアの初期はリングスが主戦場だった

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第41回 

立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

前回につづき、30年以上にわたりさまざまな格闘技イベントでレフェリーを務め、トレーナーとしても多くの選手に慕われる、和田良覚(わだ・りょうがく)氏をフィーチャー。筋骨隆々な肉体で、自身がMMAの試合に出た経験もある〝最強レフェリー〟の濃厚すぎる人生に迫る!(前回記事はこちら)

■前田日明の「嘆願書」

「いま、食えないだろ?」

そう言いながら、和田良覚に助け船を出したのはリングスを率いていた前田日明だった。UWFインターナショナルの解散と同時に所属選手の大半が後継団体のキングダムに流れたが、最初から資金難で長く続かなかった。

前田の申し出に和田は胸を撫で下ろした。

「キングダムには団体がなくなるギリギリまでいましたね。でも食えなかったので、前田さんに拾ってもらった感じです」

1995年にUWFインターが新日本プロレスとの対抗戦を開始した時点で反旗を翻していた田村潔司は、早々にリングスへ移籍していた。98年3月、和田は金原弘光や山本喧一と共に前田のもとに身を寄せた。

「でも、前田さんに助けられたのはそのときだけじゃない。実はその前にも助けてもらったことがあるんですよ」

80年代半ば、国士館大学を卒業後、世田谷区瀬田のスポーツクラブでインストラクターをしていた頃の話だ。

「そこの雇われ社長が本当にイヤな奴で、社長の特権を利用して、横柄で暴君でしたので、社員は皆、戦々恐々としていました。僕は毎日、人としての最低限の朝の挨拶をするだけで、あとはプイッとしていました。そうなったら、やっぱりかわいがられないじゃないですか(笑)」

案の定、和田は全く違うセクションに左遷された。当時ジムでは前田や髙田延彦の指導を担当していたが、それもできなくなってしまった。和田をかわいがっていた前田は「飛ばされたんだって?」と声をかけ、逞しく盛り上がった和田の肩を叩いた。

「ちょっと待ってろ」

有言実行。前田は和田の現場復帰を願う嘆願書を会員たちに回して、クラブの支配人に提出した。人気絶頂のUWFのエースが起こしたまさかの行動に和田は感謝するしかなかった。

「そこの会員さんは金持ちの社長ばかりだったんですよ。おかげで僕は現場に戻ることができました」

■「このロシア人は絶対トップまで登り詰めるぞ」 

リングスの道場に顔を出すと、UWFインターとの違いを肌で感じた。

「当時リングス所属の選手は総じて若かったじゃないですか。長井満也君が脱退した後、先頭に立っていたのはジョーちゃん(山本宜久)と成瀬昌由さん。彼らが道場を引っ張っていた感じでした」

その一方で、ルーツはUWFという点で重なり合う部分もあると感じていた。

「Uインターは途中からコーチが(競技ごとの)分業制になったという違いはあったけど、練習形態はほぼ一緒でしたからね」

和田がリングスに移籍した頃にはすでに新人として髙阪剛がいた。初期UFCをはじめ、PRIDE、RIZINでも闘った〝世界のTK〟である。

「新人時代からTKは凄かったですよ。もう僕が入った時点でボンゴ飯(特盛りのご飯)を食べていましたから」

大きなどんぶりに五号飯を敷きつめ、その上にゆで卵6個、納豆2パック、さらにシーチキンやキムチを乗せ、一気にかきこむ。

和田は髙阪に声をかけた。

「髙阪君、これ、エサじゃん!?」

キャリア初期はUFCでも闘っていた髙阪剛 キャリア初期はUFCでも闘っていた髙阪剛

腕に覚えのあるアメリカのプロレスラーが中心だったUWFインターの外国人勢とは対照的に、リングスにはロシア、あるいは旧ソ連圏からやってくる柔道やサンボのスペシャリストが多かった。ソ連崩壊から間もない時代で、現地の政情は極めて不安定だった。格闘家たちは海外で闘うことで外貨を稼ごうと躍起になっていた。

リングス・ロシアの興行の度に和田は前田の現地視察のお供を務めるなど、6~7回、ロシアを訪れている。

「ロシアではリングスで闘ってみたいという格闘家を集めてのオーディションもやっていました」

のちにPRIDEヘビー級王者となるエメリヤーエンコ・ヒョードルは、当時リングス・ロシアの活動拠点だったエカテリンブルクで行われたオーディションにやってきた。

「エカテリンブルクはシベリアにあるので、冬になると零下30度なんて当たり前。ヒョードルはそのときのオーディションに来た二十数人の中で合格した2名のうちのひとり。弱冠20歳ほどの、もの静かな青年でした」

もうひとりの合格者はスレン・バラチンスキーというサンボの元世界王者だった。

「バラチンスキーは男前で彫刻のような筋肉を持っていて、誰の目から見てもスター性があった。前田さんも最初は見た目が地味なヒョードルより華のあるバラチンスキーを推したかったと思いますよ。でも、本物の強さを持ったヒョードルを保険にかけた前田さんの眼力は本物でしたね」

案の定、リングスはバラチンスキーをロシア期待のホープとして大々的に売り出そうとした。対照的にヒョードルは日本でのデビュー戦の舞台にリングスの大会としては小規模となる後楽園ホールを用意されるなど、バラチンスキーの補欠扱いだった。

しかし本命のバラチンスキーが大成することはなかった。和田の目から見て、その理由はひとつしかなかった。

「リングスに来た時点で、もうヒザが壊れかけていた。対戦相手にローキックを蹴られたら、もう使い物にならなかった」

そんなバラチンスキーとは対照的に、ヒョードルは踏み込んでのロシアンフックなど強烈なインパクトを残した。デビュー戦では高田浩也を開始わずか12秒でKO。ジャッジとしてこの一戦を見ていた藤原敏男は和田につぶやいた。

「和田、見てろ。このロシア人は絶対トップまで登り詰めるぞ」

藤原は一度動きを見ただけで、こうもヒョードルを評した。「踏み込み、タイミング、パワー。コイツは本当にヤバい」。

現役時代には本国タイ以外の選手として初めてムエタイの二大殿堂のひとつラジャダムナンスタジアムの王者になった藤原の目に狂いはなかった。

UWFインター時代と同様、リングスでも和田は選手と胸を付け合わせて練習する機会が多かった。ヒョードルとも少しだけ組み合ったことがあるという。

「本当に力がありましたね。ロシア人特有というか、なんか岩みたいでしたね。その割に柔らかいし、腰は重いし、『ウワ~ッ』と叫びたくなりました」

■〝霊長類最強の男〟にアポなし突撃 

ヒョードルだけではない。ロシア人ファイターとしてはリングスで初めてトップに立ったヴォルク・ハンとも一緒に練習したことがあった。

「おふざけなしで関節技を極められたことがあります。異常に力が強かったですね」

関節技の「魔術師」と呼ばれたヴォルク・ハンと前田日明の攻防 関節技の「魔術師」と呼ばれたヴォルク・ハンと前田日明の攻防

ハンといえば、いまやあまたの強豪ファイターを生み出すことで有名になったロシア領土内のダゲスタン共和国の出身。ロシア人として初めてUFC王者となり無敗のまま引退した、ハビブ・ヌルマゴメドフも同共和国出身者だ。

和田は意外な事実を打ち明ける。

「実は前田さんはヌルマゴメドフのお父さんと関わっているんですよ。確かそのお父さんって、ハンがサンボの全ソ連で優勝したときのコーチだった。僕の中で、そのへんは全部つながっているんです」

99年2月21日、前田の引退試合の相手を務めた″霊長類最強の男″アレクサンドル・カレリンと来日前にロシアで会ったことも懐かしい思い出だ。

「確か契約寸前のときだったと思うけど、(当時リングスを放送していた)WOWOWのクルーと一緒にロシアのスポーツ省に会いに行ったんですよ。当時カレリンはロシアスポーツ省の大臣であり、レスリング協会の副会長をやっていました。でも、アポなしだったんですよ。僕はどうしてもトレーニング理論についてカレリンに聞きたいことがあった。

受付で『少しだけ会いたい』とお願いしたら、最初にマネージャーとして出てきたのは、なんとUインター時代に何度も僕が送迎したウラジミール・ベルコビッチだったんですよ。彼は『なんでお前がここにいるんだ?』と、何年ぶりかに会っていきなりの、ありえないシチュエーションに驚嘆しながら、ふたりで抱き合って喜びましたよ! まさにミラクル(笑)。

事情を説明したら、ベルコビッチは二つ返事で『わかった。俺がなんとかする』と分刻みのカレリンのスケジュールを調整して、僕のために30分くらい時間を作ってくれました。あのときは、本当に自分は持っていると思いましたね。そう言えば前田さんはカレリン戦の後、『本当にゴリラみたいな異常な力だった。フルネルソンで、マジで首が折れるかと思った』とおっしゃっていました」

オリンピック3大会連続金メダルのアレキサンドル・カレリンと和田レフェリー(写真/和田氏提供) オリンピック3大会連続金メダルのアレキサンドル・カレリンと和田レフェリー(写真/和田氏提供) 前田日明、ヴォルク・ハンと(写真/和田氏提供) 前田日明、ヴォルク・ハンと(写真/和田氏提供) グルジアで、ビターゼ・タリエル(左)らと(写真/和田氏提供) グルジアで、ビターゼ・タリエル(左)らと(写真/和田氏提供) ハンス・ナイマン(中央)らと(写真/和田氏提供) ハンス・ナイマン(中央)らと(写真/和田氏提供) ジェレミー・ホーン(左から3番目)らと(写真/和田氏提供) ジェレミー・ホーン(左から3番目)らと(写真/和田氏提供)

前田の引退後、リングスがKOK(KING OF KINGS)という世界規模のトーナメントを開催するようになると、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ダン・ヘンダーソン、ランディ・クートゥアなど、のちにPRIDEやUFCでトップファイターとなる強豪たちが大挙して参戦するようになった。和田は「あの頃からノゲイラは本当に強かった」としみじみと振り返る。

「リングスは"世界最強はリングスが決める"というキャッチコピーを使っていたけど、本当にそうでしたからね。海外から来る選手はバケモノばかり。PRIDEの王座もリングスから移った選手たちで争っていたようなものじゃないですか」

PRIDEは和田がリングスでレフェリーデビューする数ヵ月前、97年10月11日に東京ドームで始まった。関係者から声をかけてもらったことをきっかけに、和田はこのビッグイベントにもレフェリーとして参加することになる。

(つづく)

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布施鋼治

布施鋼治ふせ・こうじ

1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。

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