豪快なバッティングフォームの長嶋茂雄(写真:時事) 豪快なバッティングフォームの長嶋茂雄(写真:時事)
昭和33(1958)年に読売ジャイアンツに入団して以降、日本中を熱狂させてきた"ミスタープロ野球"長嶋茂雄。現役を引退したのが昭和49(1974)年、巨人の監督の座を退いたのが平成13(2001)年だ。昭和11(1936)年生まれの長嶋は、2025年に89歳になった。

1994年生まれの大谷翔平世代が球界の中心にいる今となっては、彼の活躍を思い出すことは難しい。昭和の名シーンを再現するテレビ番組さえつくられることが少なくなった。しかし、このレジェンドの存在を抜きにして、日本のプロ野球を語ることはできない。

生涯打率.305。プロ17年間で通算2471安打、444本塁打を放ち、6度の首位打者、2度の本塁打王、打点王は5回。5度のMVP、17回もベストナインに輝いている。

しかし、1974年10月にユニフォームを脱いでから50年が経った。彼のプレーを実際に記憶している人は少なくなっていく......現役時代の長嶋茂雄はどれだけすごい選手だったのか――チームメイトや対戦相手の証言から、"本当の凄さ"を探る。

今回は年齢、リーグは違えど、長嶋とともにチームの主軸として昭和のプロ野球界を盛り上げ、日本シリーズでは3度対戦するも苦杯をなめつづけた阪急ブレーブスの強打者・長池徳士に、同じ「右の4番バッター」の立場からみた"長嶋の凄み"について聞いてみた。

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――2025年、佐々木朗希(千葉ロッテ→ロサンゼルス・ドジャース)や小笠原慎之介(中日→ワシントン・ナショナルズ)が海を渡りました。今から60年ほど前、長池徳士さんはメジャーリーグと日本プロ野球の差をどのように感じていましたか。

長池 僕がアメリカの野球を意識したのは、1964(昭和39)年の東京オリンピックです。デモンストレーションとしてアメリカと日本が対戦することになりました。法政大学3年生の僕が選ばれたんですけど、大学生同士だったのでそれほどのレベル差は感じませんでした。

――互角に戦えたということですね。

長池 はい。しかし、プロ1年目のオフにアメリカのフェニックスで行われた教育リーグに参加した時にはレベルの差を痛感しました。日米野球界の橋渡し役として活躍されたキャピー原田さんという方がおられて、日本の各球団から3人ほどが派遣されたんです。

――そこでマイナーリーグの選手たちと対戦したんですね。

長池 メジャーリーガーではなく、3Aのチームで戦う選手たちだったと記憶しています。まず、アメリカの球場の広さに驚きました。使用するボールが大きく、昔のソフトボールくらいにやわらかかった。日本の選手が打っても全然飛ばないのに、アメリカの選手たちはオーバーフェンスを連発していました。パワーの違いは歴然としていましたね。

――もちろん、体のサイズも違ったでしょうね。

長池 体も大きかったですね。とにかく、ピッチャーが投げるボールが速かった。当時はスピードガンがなかったので正確なスピードはわかりませんが、日本の投手よりは明らかに速かったんです。おそらく、日本でも鈴木啓示(近鉄)や村田兆治(ロッテ)などは150キロを超えるボールを投げていたと思いますけどね。

――粗削りながら才能あふれる選手がたくさんいたんでしょうね。

長池 顔を見てもどこの誰だかわかりませんが、とにかく速いボールを投げるピッチャーがたくさんいました。サンフランシスコ・ジャイアンツのウィリー・メイズがふらっと球場に来たことがあります。あれには驚きましたね。

ウィリー・メイズ(1931~2024)。首位打者1回、本塁打王4回、盗塁王4回、MVP2回。走攻守を兼ね備えた伝説的プレイヤ―として語り継がれる名選手(写真:cGlobe Photos/Globe Photos via ZUMA Wire/共同通信イメージズ) ウィリー・メイズ(1931~2024)。首位打者1回、本塁打王4回、盗塁王4回、MVP2回。走攻守を兼ね備えた伝説的プレイヤ―として語り継がれる名選手(写真:cGlobe Photos/Globe Photos via ZUMA Wire/共同通信イメージズ)
――通算3283安打、660本塁打を放ったメジャーリーグを代表する名選手ですね。

長池 あまり体は大きくなかったんですが、「この人があのウィリー・メイズか」と思いました。僕らが名前も知らないような選手でもパワーがすごい。もう半端じゃなかったですね。

――そんな選手の中から選りすぐりの選手がしのぎを削るメジャーリーグのすごさを体感してどう思いましたか。

長池 マイナーの選手でも本当にすごかったですから、それよりも優れたメジャーリーガーと対等に戦えるとはとても思いませんでした。僕は、メジャーリーグを目指そうなんて、気持ちはまったくなかった。ただ球団に「行け」と言われてフェニックスに行っただけですから。

――それぐらい日本との差は大きかったということですね。

長池 たとえば、日本で実績のある長嶋茂雄さんや王貞治さんがメジャーリーグで戦っていたら、レベルの違いやどうすれば追いつけるかが少しはわかったんでしょうけど、日本とは別世界の野球だと感じました。

パ・リーグでいえば、野村克也さん(南海ホークス)、張本勲(東映フライヤーズ)さんも行かないのに「俺なら!」とは思えません。僕としたら、国内の野球で頑張るので精一杯でした。

――シーズンオフにメジャーリーガーたちが日本にやってきて「日米野球」を行いました。実際に出場してみて、どんな感触を得ましたか。

長池 雲泥の差がありましたね。彼らは遊びに来ていたようなものでしょう。10試合以上戦って、日本は数試合しか勝てないほどでした。彼らが本気を出していたら、もっと差がついていたと思います。当時は「●●はいい選手だからアメリカに連れて帰りたい」といったような社交辞令も一切出なかったですよ。

――それほどの差があったということですね。1995年に野茂英雄さん(ロサンゼルス・ドジャース)がメジャーリーガーになり、イチローさん(シアトル・マリナーズ)など日本人野手が続きました。

長池 2000年以降、メジャーリーグでプレーする選手が増えましたね。あのレベルで活躍するために大事なのはスピードに慣れること。それが克服できれば、日本人選手でも通用すると思います。

メジャーでは、150キロ後半、160キロ台のスピードボールは珍しくありません。おそらく重さも日本とは違うでしょう。だから、それに負けないためにはパワーが必要です。

――大谷翔平選手(ロサンゼルス・ドジャース)も鈴木誠也選手(シカゴ・カブス)もアメリカに渡ってからパワーアップしていますね。

長池 スピードを維持しながら、パワーをつけなければいけない。そのためには相当なトレーニングが必要になりますね。普通なら、パワーがつけばスピードが落ちますから。日本人選手の技術はメジャーでも通用すると僕は思います。

――もし長嶋さんや王さんがメジャーリーグに挑戦していたら、どれだけ活躍できたと思いますか。

長池 それは想像つかないと思う。うん、想像できないなあ。たとえば王さんだったら、あの一本足打法は珍しいから絶対に話題になるはず。でも、日本と同じように活躍できるかどうか......やっぱり想像できません。

――打者の手元(ホームベース付近)で変化するボールが主流の現代では、一本足打法は有効ではないかもしれませんね。イチローさんもメジャーリーグに行ってから"振り子打法"を封印しましたから。

長池 ただ、王さんほどのバッターであれば、一本足打法とは別の形に変えて対応するかもしれません。

――長嶋さんはどうでしょうか。

長池 長嶋さんの感性は独特ですから、メジャーリーグでもおもしろかったんじゃないでしょうか。スピードもパワーもあるし。走ること、守ることはまったく問題ないでしょう。長嶋さんの最大の魅力は打つことですから、やってくれたんじゃないかと思います。そこは夢の部分ですね。

次回、藤田平編<前編>の配信は3月15日(土)を予定しています。


■長池徳士(ながいけ・あつし) 
1944年、徳島県出身。法政大学時代に六大学野球リーグで3度の優勝を経験した後、日本プロ野球初のドラフト制度によりドラフト1位で阪急ブレーブスに入団。左肩にアゴを乗せる独特のフォームからホームランを量産、本塁打王3回、打点王3回、MVP2回の輝かしい記録を残し「ミスターブレーブス」と呼ばれた。現役引退後は西武、南海、横浜、ロッテなどでコーチを歴任。その指導力には定評があった。

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元永知宏

元永知宏もとなが・ともひろ

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、出版社勤務を経て独立。著書に『期待はずれのドラフト1位』『敗北を力に!』『レギュラーになれないきみへ』(岩波ジュニア新書)、『殴られて野球はうまくなる!?』(講談社+α文庫)、『トーキングブルースをつくった男』(河出書房新社)、『荒木大輔のいた1980年の甲子園』『近鉄魂とはなんだったのか?』(集英社)、『プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話』(東京ニュース通信社)など

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