
布施鋼治ふせ・こうじ
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。
日本人格闘家にとって高い壁だったグレイシー一族を次々と撃破し、「グレイシー・ハンター」と称された桜庭和志
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第42回
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。
前回につづき、30年以上にわたりさまざまな格闘技イベントでレフェリーを務め、トレーナーとしても多くの選手に慕われる、和田良覚(わだ・りょうがく)氏をフィーチャー。筋骨隆々な肉体で、自身がMMAの試合に出た経験もある〝最強レフェリー〟の濃厚すぎる人生に迫る!(前回記事はこちら)
1997年10月11日は日本格闘技界にとって大きな転換点となった。東京ドームで行なわれた『PRIDE.1』で髙田延彦がヒクソン・グレイシーと激突。1R4分47秒、ヒクソンの腕ひしぎ十字固めによって髙田は一本負けを喫してしまう。それまでプロレス界で〝最強〟の名を欲しいままにしていた髙田が完敗したことで、プロレス最強神話は大きく揺らいだ。
この大会に和田良覚はレフェリーとして参加。ゲーリー・グッドリッジVSオレッグ・タクタロフ、キモVSダニエル(ダン)・スバーン、北尾光覇(光司)VSネイサン・ジョーンズの3試合を裁いている。
「ギャラはすごくよかった記憶があります。ただ、2回目以降は激減しました。どうしてそうなったかはわかっていますけど......(含み笑い)」
『PRIDE.1』ではゲーリー・グッドリッジvsオレッグ・タクタロフ戦を含め3試合、レフェリーを務めた
すでに前年12月にUWFインターナショナルは崩壊していたとはいえ、かつて同じ釜の飯を食った髙田の敗北には大きなショックを受けた。
「僕は髙田さんのパワーやスピードはトップ級の外国人選手並みにあることを知っていた。みんなわかっていないと思うけど、UWFインターの中で安ちゃん(安生洋二)はテクニカルだった。でも、その安ちゃんも練習で髙田さんの強さに凌駕されることが多かった。それくらい髙田さんは強かったんですよ」
敗因については「頭の中でヒクソンのイメージがあまりにも大きくなりすぎていたのでは?」と分析する。
「髙田さんは必要以上に意識しすぎたというか、警戒しすぎた部分があったと思う。もちろんヒクソンはテクニカルだったし、それが敗因になったところもあったと思う。でも髙田さんがもうちょっといつも通りの感じで闘っていたら、展開もまた違っていたんじゃないですかね」
そして、こう推測する。
「すでに格闘技専門誌にも出てるし、時効なので言いますが、ヒクソンと闘うにあたりブラジルから著名な柔術家を招いて練習したことも逆効果になってしまったのでは? それで(柔術に対して)頭でっかちになってしまったんですよ。そのせいで萎縮していたのかな、とも思います」
その柔術家とはセルジオ・ペーニャ。現役時代はヒクソンと激闘を繰り広げ、ブラジルでは〝ヒクソンのライバル〟ともいわれたレジェンドのひとりだ。現在もアメリカで柔術の普及に努める身だが、当時、ペーニャの存在はシークレットとされ、髙田の周囲でも知っていたのは和田を含めてごく少数だった。
「公に名前が出たら、同じ柔術家として母国ブラジルで裏切り者扱いされてしまうので、ずっと内緒にされていたんですよ」
ブラジルから招かれた柔術家、セルジオ・ペーニャを囲む元UWFインターの面々(提供/和田氏)
髙田VSヒクソンの2ヵ月後、彗星のごとく救世主が現れた。
97年12月21日、横浜アリーナで行なわれた日本初のUFC大会『UFC-J』で行なわれた「UFC JAPANトーナメント」で優勝した桜庭和志だ。
当初は先輩の金原弘光が出場する予定だったがケガで欠場となり、急遽代役として出場することになった。4人制トーナメントで、初戦となったマーカス・コナン戦は無効試合に終わったが、もう一方のブロックで安生洋二に勝ったタンク・アボットが負傷棄権したため、決勝はコナンとの再戦となり、桜庭が腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。試合後、桜庭は「プロレスラーは強いんです」という名言を残した。
髙田がヒクソンに敗れた直後だっただけに、プロレスファンは溜飲を下げた。
優勝した直後、UWFインター勢はリング上に集結。桜庭の快挙を讃えたが、その中にはうれしそうに微笑む和田の姿もあった。
当時、グレイシー柔術を筆頭にブラジリアン柔術の強さは底の見えない底なし沼のような神秘的な強さを漂わせていた。そう、当時立ち技格闘技の世界では日本人キックボクサーの多くが辿り着きたくても辿り着けなかったムエタイの頂きのように。
すでに新日本プロレスの若手との対決などで桜庭は注目されつつある存在だったが、闘いの舞台が総合格闘技、特にグラップリングの展開になると、無類の強さを発揮した。
こんなエピソードがある。98年2月に髙田道場が設立されると、ブラジルからある柔術家が招聘された。すでに髙田VSヒクソンの再戦も決まっていたので、打倒ヒクソンを果たすために呼んだことは明白だった。
しかし、このブラジル人コーチを桜庭はスパーリングで何度も極めてしまったという。
「逆にそのブラジル人の先生からサク(桜庭)は『教えてくれ』と頼まれていましたよ(笑)。あの頃、少なくとも国内の総合格闘技界で一番強かったのは桜庭でしょう。僕はみんなとスパーリングをやっていたので断言できます。まさに無双状態でした」
当時、国内ではプロ修斗の佐藤ルミナ、桜井〝マッハ〟速人、朝日昇、エンセン井上が「四天王」として台頭していたが、グレイシーやブラジリアン柔術の壁は高かった。その中で、柔術黒帯のブラジル人ファイターから初めて一本を奪ったのは、97年1月にヒカルド〝リッキー〟ボテーリョを下したルミナだった。
歴史を紐解いていくと、この97年がいかにエポックメーキングな1年だったかがよくわかる。この時代、ピュアな格闘技から派生した修斗と、プロレスをベースとするUWF系団体は激しく対立していた。プロレス側からみれば、総合格闘技やグレイシー柔術はなんとしても越えなければならない〝外敵〟だった。
それにしても、UWFインターの中で髙田や安生が黒星をつけられる中、なぜ桜庭だけ結果を残すことができたのか。和田は、「サクには超負けず嫌いな性格とクソ度胸があったから」と分析する。
和田は、田村潔司、金原、桜庭が「三強だった」とした上で、桜庭の強さをこう語る。
「とにかく極めが強かった。骨格が太く、おそらく筋繊維が優れていて、腱が強く、だから見た目とは裏腹に、異常に力が強いんだと思います。もうひとつ言えるとするならば、ベースがレスリングだったことも大きいかもしれないですね」
桜庭が秋田商業高、中央大学とレスリングのキャリアを重ねてきたことは広く知られている。とりわけ中央大ではレスリング部の主将を務め、東日本学生新人戦優勝、全日本学生選手権4位などの戦績を残す。
和田はUインターの選手は各分野の技術吸収に貪欲だったと振り返る。
「金原なんて大橋ボクシングジムに行ってボクシングを学んでいた。たむちゃん(田村)は日体大に通ってレスリングの技術を学んでいた。そうした中でレスリングに関していえば、キャリアのあるサクに一日の長があった。サクは大学生のとき、のちに五輪で銅メダルを獲得する選手に勝ったことがあるくらいですから」
続けて和田は話しながら思い出したのだろう。ヒザを叩くように、桜庭の強さのカギを語り始めた。
「サクは闘い方が変則じゃないですか。レスリングもそうだった。闘い方が個性的だったから、何かに当てはまらない。そういうのってMMAにピッタリだと思うんですよね。ベースがレスリングで、しかも闘い方が変則だったので、柔術家たちを相手にしても通用したんじゃないですかね」
『UFC-J』の後、闘いの場をPRIDEに移した桜庭はビクトー・ベウフォート、ホイラー・グレイシーとブラジリアン柔術の猛者たちを次々と撃破。そして2000年5月1日、東京ドームで行なわれた『PRIDE GP2000』2回戦で、桜庭はホイス・グレイシーとの90分にわたる死闘を制した。
その後もヘンゾ・グレイシー、ハイアン・グレイシーを相手に連勝。グレイシー姓の柔術家を相手に4連勝をマークし、自他ともに認める〝グレイシーハンター〟となった。和田の目に狂いはなかった。
(つづく)
1963年生まれ、北海道札幌市出身。スポーツライター。レスリング、キックボクシング、MMAなど格闘技を中心に『Sports Graphic Number』(文藝春秋)などで執筆。『吉田沙保里 119連勝の方程式』(新潮社)でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『東京12チャンネル運動部の情熱』(集英社)など。