【特別編】松岡功祐80歳の野球バカ一代記
九州学院から明治大学へ入学。かの有名な島岡吉郎監督の薫陶を受け、社会人野球を経てプロ野球の世界へ飛び込んだ。11年間プレーした後はスコアラー、コーチ、スカウトなどを歴任後、佼成学園野球部コーチを経て古巣・明治大学へと戻ってきた。その人が松岡功佑、82歳。
2023年12月~2024年6月まで週プレNEWSで連載した『松岡功祐80歳の野球バカ一代記』の特別編として、今週末の六大学野球、東大戦からまた新たな闘いに臨む松岡功祐コーチに、新たな闘いに臨むいまの心境を聞きに行った。
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本連載がスタートしたのが2023年12月。80歳だった松岡功祐はこの2月で82歳になった。
現在は、母校である明治大学野球部で後輩たちの指導に当たっている。肉体的な衰えは少しも感じられない。ノックの打球は鋭く、選手を鼓舞する声は大きい。
「2024年12月から明治大学野球部の寮に住んでいます。その秋に就任した戸塚俊美新監督からのリクエストに応えた形ですね。それまでお世話になっていた佼成学園の藤田直毅監督の理解もあって、10年ぶりに母校に戻ることになりました」
2025年、明治大学が所属する東京六大学野球連盟は100周年の大きな節目を迎える。
「僕は明治大学で育てられ、社会人野球のサッポロビールを経て大洋ホエールズでプレーしました。この世界でずっと戦ってきて、最後に母校に戻ることができました。奇跡だと思います。私の恩師である島岡吉郎さんに『最後の奉公をしろよ』と言われているような気がします」
松岡はコーチ兼寮長をつとめている。
「グラウンドにいる時はコーチ、寮ではおじいちゃん。選手たちには『おじいちゃんと呼んでくれてもいいぞ。でも、ジジイはやめてくれ』と言っています(笑)。選手たちとは祖父と孫くらいの年齢差がありますから、本当にかわいい。
甲子園で活躍したスターが『明治で野球をやりたい』と言って入ってきています。みんな、実力はあるし、性格もいいですよ」
東京・府中にある明治大学野球部のグラウンド。広々として恵まれた環境にある
だが、高校時代に大器と騒がれながら、まだ実力を十分に発揮していない選手もいる。
「瀬千晧(天理)も内海優太(広陵)もそうですけど、いいものを持っていながらレギュラーになりきれていない選手がたくさんいます。
気持ちを入れ替えることはすぐにできると言っています。『変わろう』と思った次の瞬間に変わることができる。素材としては間違いないので、厳しく指導していきます」
松岡の指導はグラウンドの上だけではない。
「ここ3シーズン、明治大学は優勝から遠ざかっています。寮の下駄箱を見ると、汚いんですよ。そのあたりから改善していこうと選手たちには言いました。そんなに厳しくしなくても......という声があるかもしれませんが、整理整頓は本当に大事で、普段の生活からきちんと教育するようにしています。厳しく言ってやらないと、逆に選手がかわいそうです」
昭和の時代、明治大学野球部で島岡御大の指導を受けた選手たちは、YouTubeなどでその破天荒な指導方法を披露している。あれから60年が経ち、理不尽な指導はもちろんない。
「もう昔のようなことはありません。部としては洗練されていると思います。島岡御大が若い頃は本当に怖かった。広沢克己(元阪神タイガース)が面白おかしく言っているけど、あんなもんじゃないですよ(笑)。
御大と同じことはできませんが、いいものは残していかないと。先輩たちが築いた伝統を守るのは選手たち。壊すことはできませんから」
球場内の一室には松岡コーチの恩師・島岡監督の写真も飾られている
昨年はライバル校である早稲田大学に春秋連覇を許した。秋は優勝決定戦で敗れただけに、選手も指導者も燃えている。
「去年の秋に3勝を挙げた毛利海大をはじめ、故障していた投手たちも戻ってきて充実していますし、野手陣にもいい選手がたくさんいます。戸塚監督も言っていますが、やっぱり野球は守りから。守備に関してはとにかく基礎からもう一度やり直しました。基本練習の繰り返し、それが一番です。
守備の練習は地味でキツいけど、しっかりやれば足腰が強くなってバッティングがよくなり、走力も上がっていく。一番打者と二番を固定して機動力を使わないと、好投手のいる早稲田には勝てません」
そんな松岡の起床時間は午前5時。あたりはまだ暗い。
「授業のある日は毎日、5時20分くらいから訓示をして練習スタートです。選手たちはよく走りますよ。今は設備も素晴らしくて、いくらでも練習ができる環境ができあがっています。
僕は高校、大学、社会人、プロとすべてのカテゴリーで野球をしてきましたから、練習のバリエーションはいくらでもあります。選手の気持ちもわかるし、彼らを飽きさせない方法も持っている。選手たちをうまくさせないと僕の価値がない」
明治大学は15年連続でプロ野球に選手を送り出している。勝つことももちろん大事だが、松岡が目指すのはそれだけではない。
「やっぱり勝つだけじゃなくて、きちっとしたしつけ、教育をして、社会に送り出すことが大事だと思います。僕にはその責任がある。
選手たちの進路はプロだけではありません。社会人で野球を続ける選手もいれば、会社員になる者も、指導者になる者もいる。明治大学野球部で受けた教育をその後に活かせるように。そういう指導をしていきたいですね」
この2月に82歳になった松岡は、これまで以上に燃えている。
「球界の大先輩である広岡達朗さんとは10歳違いなんですけど、誕生日が同じなので毎年お祝いの電話を入れています。『90歳を過ぎたらガクンと体力が落ちるから気をつけろ』と言われました。『それまで頑張れ』と(笑)」
『野球バカ一代記』は今回で本当の最終回。ただ、松岡の戦いに終わりはないのだ。
■松岡功祐(まつおかこうすけ)
1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の5年間で21人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチ、佼成学園野球部コーチを経て、明治大学野球部にてノックバットを振っている。