ボタンひとつで目的地までひとっ走り! そんな夢の自動運転車の実現を目指し、多くの自動車メーカーが安倍政権の成長戦略の下、「2020年の実用化」を目標にしのぎを削っている。
しかし、新技術の到来を手放しで喜ぶばかりで本当にいいのだろうか? その前に議論すべきことが置き去りになっていないか?
自動運転車の最大の課題といえるのが、事故が起きた際、その「責任」は誰にあるのかという問題だ。
「自動車事故の原因の多くが、人間のミスによるヒューマンエラーだから自動運転化すれば事故が減る」と、国やメーカーはアピールするが、自動運転車だって100%壊れないということはあり得ない。
例えば、エレベーターに乗っていてなんらかの事故に遭ってしまったら、基本的にその責任はエレベーターのメーカーや保守管理会社にある。
では、自動運転車で事故が起きてしまった場合、その責任は運転操作をしていなくてもドライバーにあるのか? それとも自動車メーカーや整備工場が負うのか? こうした問いに対する法整備や社会的なコンセンサスの形成は決して簡単ではないはず。
だが、もっと面倒なのが通称“トロッコのジレンマ”といわれる問題だ。
これは「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という倫理学上の命題で、「制御不能になったトロッコの線路が前方で分岐していて、右に曲がれば5人、左に曲がればひとりをひいてしまう時、左に曲がる判断は許されるのか――」。そんな究極の問いかけで知られている。
これを自動運転車のケースで考えてみよう。例えば、自動運転で走行中にどうしても事故が避けられない状況に直面した場合、「そのまま直進すればドライバーが危険だけど、右に曲がれば5人の子供を、左に曲がると子供をひとりひいてしまう」という場面で、自動運転車のコンピューターはどちらの道を選ぶべきか?
この選択について、人間がハンドルを握っているのなら、社会は「その人の判断」ということで理解するしかないが、コンピューターなら…?
某自動車メーカー関係者の本音
この「どちらの命を優先すべきか」なんて倫理的な問題を、誰かがコンピューターにプログラムしなければならないのか? そして機械が冷徹に下したその判断を社会は受け入れられるのか?
東京モーターショーで出会った某自動車メーカーの関係者は、次のような本音を語ってくれた。
「例えば、年間で約4千人といわれる交通事故の死亡者が将来、自動運転の普及で2500人に減り、そのうち自動運転車による死亡事故が500件あったとします。その時、社会は『自動運転のおかげで1500人の命が救われた』ととらえるのか? それとも『自動運転車のせいで500人の命が失われた』ととらえるのか? そのあたりが実に難しい問題です。我々としても社会の側でそうした議論が深まってほしいのです」
このように、自動運転車の実用化には簡単には結論が出そうもない難題が待ち受けている。そのことが正しく理解されないまま「技術」への過信や「夢」ばかりが先走っている状況を心配している人は業界内にも少なくないはずだ。
週刊プレイボーイ47号では、さらにこの問題を「誰のための自動運転なのか?」と、推進する政府やメーカーの思惑を徹底検証しているのでお読みいただきたい!
(取材・文/川喜田 研 撮影/山本尚明)