「量子コンピュータの活用は単にパフォーマンスだけでなく、省エネルギーの面でも大きな貢献が期待できるのです」と語る西森秀稔氏

高性能コンピュータよりも「1億倍速い」ことが確認されるなど、近頃はメディアでも盛んに取り上げられている「量子コンピュータ」。

すでにカナダのベンチャー企業によって実用化され、米グーグルやNASA(米航空宇宙局)も導入しているというが、その実現を支えたのはなんと日本の研究者なのだ。

そして、その最前線をひもとけばAI(人工知能)の進化や新薬の開発など、“夢のコンピュータ”が貢献できる分野は幅広い。『量子コンピュータが人工知能を加速する』の著者のひとりで、その原理を提唱した東京工業大学理学院の西森秀稔(ひでとし)教授を直撃した!

* * *

―スーパーコンピュータの性能をはるかに上回る計算能力を発揮する「量子コンピュータ」が、すでに実用化され、「市販」されていることに驚きました。

西森 量子コンピュータを世界で初めて実用化したのは、カナダのD-Waveシステムズというベンチャー企業です。ジョーディー・ローズという人物が1999年にこの会社を立ち上げ、10年に最初の量子コンピュータ「D-Wave One」を売り出しました。アマゾンのCEO、ジェフ・ベゾスやCIAも出資をしているといいます。

―実用化は「数十年先」などといわれていた量子コンピュータが、この数年で一気に実用化に至ったのは、何か大きな技術的ブレイクスルーがあったのでしょうか?

西森 いえ、何か技術的な革新があったというよりは、地道な努力の積み重ねが実用化に向けた「特異点」を超えたといえるのではないでしょうか。

ただし断っておく必要があるのは従来、量子コンピュータと呼ばれていたのは「量子ゲート方式」という理論に基づく、既存のコンピュータに対する「上位互換」のようなものでした。D-Waveが開発したマシンは、それとは異なる「量子アニーリング方式」に基づくもので、既存のコンピュータと比べて「できることが限られる」のです。

この量子アニーリング方式というのは、われわれが1998年に世界で初めて提唱したものですが、「量子コンピュータの定義」については専門家の間でもいろいろな論争があり、D-Waveのマシンについても、これを量子コンピュータと呼ぶべきか否かについて異論を唱える人もいます。

しかし、誕生から6年がたった今、その理論や実績に関する外部からの第三者の検証を経て、量子コンピュータとしての最低限の要件は満たしていると認められるようになりました。

D-Waveのマシンはわずか3立法メートル

―現在の最新マシンの性能は、既存コンピュータの何倍ぐらいといえるのでしょうか?

西森 2015年にグーグルやNASAが発表したD-Waveのマシン性能は、既存コンピュータに比べて「最大1億倍」ということでしたが、最新モデルは2000ビットまで高性能化していて、理論上のポテンシャルでいえば2の2000乗倍で……単位がないですね(笑)。

―もうひとつ驚いたのは、実用化された量子コンピュータが信じられないほど「小さい」ことです。「京(けい)」などのスーパーコンピュータといえば、システム設置のために巨大な体育館みたいな空間を想像しますが、D-Waveのマシンは小さな部屋ほどの大きさで、その中にわずか数mm角の電子チップがひとつあるだけで、まさにガランドウですね。

西森 D-Waveのマシンはわずか3立法メートルほどで、その中にある小さなチップにCPUとメモリーが収まっていて、そのチップの部分だけを絶対零度に近いマイナス273℃に冷やす必要があるのですが、そのために必要となる電力はせいぜい20kW。一般家庭の数軒分くらいです。

ちなみに現在、世界でITに使われるエネルギーは、エネルギー消費全体の1割を超えるといわれています。また、今、計画されている次世代スパコンの「ポスト京」を既存技術の延長線上でつくると、必要になる電力は「原発1基分」などといわれていますから、量子コンピュータの活用は単にコンピュータのパフォーマンスだけでなく、省エネルギーの面でも大きな貢献が期待できるのです。

―なるほど。それでは今、どんな人たちが量子コンピュータを使い始めているのでしょう?

西森 2011年にD-Waveの一号機を買ったのは、F35戦闘機などで知られるアメリカの航空機メーカー「ロッキード・マーティン」で、彼らは航空機の開発を進める上での膨大な「バグ取り」(飛行制御プログラムの誤りや欠陥を取り除く作業)に量子コンピュータを取り入れていて、大きな成果があったと明らかにしています。

最新の航空機の運用には数百万行を超えるコンピュータプログラムが必要になる。バグ取りは重要かつ、膨大な時間がかかる作業なのです。仮に開発費が1兆円のプロジェクトなら、わずか1%の効率アップでも100億円のメリットが望める。

ほかにも、グーグルが検索や広告表示の「最適化」に取り組んでいますし、フォルクスワーゲンは、都市の渋滞解消の研究に活用し、成果があったことを発表しています。

日本は北米の「2周遅れ」

―AIの分野でも、量子コンピュータの実用化は大きなインパクトを与えているのでしょうか?

西森 そう思います。先ほどもお話ししたとおり、量子アニーリング方式の量子コンピュータは、既存のコンピュータや、まだ実用化されていない量子ゲート方式のマシンに比べてできることが限られています。

その「できること」というのは「最適化問題を解く」という作業で、これを既存のコンピュータでやろうとすると、膨大なパワーと時間が必要になる。ところが、AIの開発で非常に重要な「機械学習」というのは、かなりの部分が「最適化問題」に属しますから、それに特化した量子コンピュータを使うことで、AIの技術進化に大きく貢献できるのです。

また最近では、量子コンピュータがAIの「ディープラーニング」(深層学習)に欠かせない「サンプリング」という作業にも有用であることがわかってきました。

―量子コンピュータを実用化に導いた、量子アニーリング方式を発見したのは日本の研究者で、西森先生はそのおひとりなわけですが、今後、日本はこの分野で世界をリードする存在になれるのでしょうか?

西森 うーん残念ながら、現実には今、北米の「2周遅れ」という感じでしょう。確かに1998年に世界で初めて量子アニーリングに関する論文を書いたのはわれわれですし、そのわれわれの理論をハードウエア上に焼きつけたのがD-Waveのチップです。

しかし、この理論がこうして「現実」のものになったのは、D-Waveの創業者、ジョーディー・ローズという人物がいたからだといえます。彼は長年、周囲から偽者だ、詐欺師だ、インチキだと言われながらもこの理論の可能性を信じ続け、出資を募って開発を続けたからこそ、こうして量子コンピュータが日の目を見た。これはローズ氏の圧倒的な個性と情熱なくして、実現できなかったことだと思います。

一方で、量子コンピュータはハードウエアとしての潜在能力をまだ生かしきれていないのも事実。そのためにはこのマシンの性能をフルに活用できるソフトウエアの開発が欠かせません。

今後、日本はこのソフトの開発の分野で、重要な役割を果たすことができるのではないかと思っています。

(インタビュー・文/川喜田研 撮影/有高唯之)

●西森秀稔(にしもり・ひでとし)1954年生まれ、高知県出身。東京工業大学理学院教授。77年、東京大学理学部物理学科を卒業。81年、カーネギー・メロン大学で博士研究員となる。82年、東京大学大学院博士課程を修了し理学博士を取得、ラトガース大学博士研究員に着任。90年、東京工業大学理学部物理学科の助教授に就任。96年より現職。手に持つのは、D-Wave社から贈られた量子コンピュータのチップ。これは失敗作で、もし本物だったら10億円とか!

■『量子コンピュータが人工知能を加速する』西森秀稔、大関真之 (日経BP社 1500円+税)カナダのベンチャー企業によってすでに実用化が進み、NASAやグーグル、フォルクスワーゲンなどの企業も活用に動きだした「量子コンピュータ」。夢の次世代コンピュータなどといわれてきたが、なぜこの数年で一気に実用化にこぎつけることができたのか? いったいどんな仕組みなのか? この原理を世界で初めて提唱した日本人研究者が、AIへの活用なども期待される最新テクノロジーの全貌を明かす