1961年4月12日、旧ソ連のボストーク1号が宇宙に飛び立った。世界初の有人宇宙飛行を成功させたユーリ・ガガーリンは言った。「地球は青かった」と――。
あれから60年。アメリカ、ロシアを中心に着実に歩みを進めてきた宇宙開発の壮大な歴史を、宇宙飛行士ファイナリストの内山 崇(うちやま・たかし)氏と共に振り返る。
* * *
■宇宙開発は60年でどれほど進歩したか?
――1975年生まれの内山さんは、アポロ計画の終了で人類の到達距離としてはいったんピークを過ぎた後に育ったことになりますが、何をきっかけに宇宙開発に興味を持ちましたか?
内山 僕は子供の頃、米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故(1986年)で宇宙開発の最先端を知りました。
乗組員7名全員が亡くなる悲劇でしたが、アメリカはその後、事故から立ち直り、あんなカッコいい宇宙船を何度も飛ばして地球と往復させていた。自分が大人になる頃には誰もが宇宙に行く時代になるだろうと思い、宇宙開発を志すようになりました。
――ガガーリンの初飛行からの60年間の進歩は、妥当なものと考えますか? それとも、まだまだ遅いのでしょうか?
内山 一般の誰もが宇宙に行く時代はまだ来ていません。サブオービタル(弾道飛行)の宇宙旅行さえ、もうちょいもうちょいと言われていて、いまだに実現していませんからね。歩みが遅いと感じられても無理はないと思います。
ただ地上400kmの軌道上にある国際宇宙ステーション(ISS)には、ここ20年の間、宇宙飛行士が入れ代わりながら、常に誰かしら滞在しています。地球から物資を補給しながら、飛行士自身が被験者となりつつ、人間が宇宙に滞在することに対して、さまざまなデータを取得しています。ただ単にちょっと宇宙へ行って帰ってくるのではなく、宇宙で生活する時代になっているんです。
――記念碑的な冒険の旅から、開拓のための旅や滞在へと変わってきているのですね。
内山 はい。それに宇宙空間の利用者を考えてみると、低軌道なら国の機関や大企業に限らず、民間企業、スタートアップ企業が進出できるようになっています。宇宙は着実に身近になっています。
――内山さんは著書『宇宙飛行士選抜試験』で、「種の保存のために宇宙に進出する準備を進めていかなければならないと本気で思っている」と書かれていましたが。
内山 今後数十年程度のスパンで人類が地球に住めなくなる、とまでは思っていません。ただ、種の保存のためのリスク管理として、人類が生き残るために宇宙へ出るのはひとつの選択肢としてあるのかな、と半分は本気で考えています。
また、地球でよりよく暮らすための宇宙開発という考え方もできます。つまり、宇宙で生活できる技術というのは、自給自足的にエネルギーを使う技術であり、それを地球で使えば環境を守る技術に還元できるんです。
例えばISSでは水をものすごく大事にしていて、循環して使ったりしているんですね。そういう技術は地上でも活用できるでしょう。
――ちょうど今、われわれはZoomを使って話していますが、こうしたビデオ通話の技術も、宇宙船と地球をつなぐものとしてはとっくに使われていたものでしたよね。宇宙で暮らす技術は外出自粛にも応用できそうです(笑)。
内山 宇宙を目標にすることで、非常に大きな制約のなかで暮らす技術が当然必要になり、磨かれます。その技術が地球の環境問題や食糧問題を解決する糸口になるのは大いにありうると思っています。
――地球のための宇宙開発ですね。大賛成ですし、戦後の宇宙開発には米ソの軍拡競争だけではなく、地球観測もモチベーションとなっていた事実があります。また、人々の意識の面でも、地球の素晴らしさを知るため宇宙へ行く、という動機はついて回るように思います。
内山 一回地球を出て宇宙から地球を見たり、宇宙から宇宙を見たりするって、ものすごい体験だと思います。
宇宙時間で考えると非常に短い期間なのかもしれないけど、こういう緑とか水とか非常に豊富な星というのが、今この瞬間には確かに存在して、「地球っていうのは特別なんだ」という気持ちは、少なからず持てるでしょうね。僕も行ったことないので想像ですけど。
将来、もし子供たちが修学旅行的に宇宙に行って帰ってくるという時代が来れば、子供の頃にみんながそういう気持ちを一度味わって、それで大人になるわけですよね。「地球を大事にしよう」という意識が根っこの部分で持てる人が増えるんじゃないでしょうか。
■「宇宙酔い」があるから、1週間以上は滞在したい
――宇宙旅行とひと口に言っても、弾道飛行で数分間無重力状態を体験するものや、実業家の前澤友作氏が計画している、月の裏側を回って帰ってくるものなどさまざまです。内山さんが望むのはどんな宇宙旅行ですか?
内山 僕はもし行くとしたら、1週間以上は行きたいですね。というのも、「宇宙酔い」があるから、1日、2日くらいだと、苦しんでるうちに時間がたって、そのまま帰ってくることになってしまうかもしれない。それだと楽しめないから、1週間くらいいて、慣れてから帰ってくるのが正しい宇宙旅行かなと思います。
――では、もし宇宙で1週間滞在できるとしたら、どんなことを体験したいですか?
内山 まずは無重力状態を堪能したいです。ISSに日本の「きぼう」モジュールが初めて着いたとき、僕は管制官としてモニターで船内の様子を眺めていました。そうしたら宇宙飛行士たちがまだ何もないモジュール内に入ってきて、まるで子供のように遊び始めたんです。
直径約4mのかなり広い空間で、真ん中に仲間のひとりを置いて、もがいてももがいてもどこにも触れないで「助けて~」って(笑)。あれはすごく楽しそうでしたね。
あとはスーパーマンのようにシューッと飛んでゆくとか、液体が丸くなるとか、地上では絶対にできない体験がたくさんありますよね。地上の常識が通用しない、「これってこうなるのか!」という発見の連続になると思います。いろいろやってみたいですね。
――夢を大きくして、月着陸の旅行が一般的になったとしましょう。私がぜひ味わいたいのは、地球の6分の1の重力です。
内山 楽しいでしょうねえ。宇宙服もきっと、もう少し発展して、着やすく、動きやすいものになっていると思います。そしたらスポーツができますね。野球でもゴルフでも、6分の1の重力と、空気抵抗がない環境だとどうなるのか。思いっ切りジャンプしたらどこまで行くのか。
――いろいろと体験して、帰ってきて地球の素晴らしさを再発見する。そこまで込みで宇宙旅行、という時代になるのでしょう。楽しみです。
■宇宙開発史の名場面ベスト3!
――最後に、内山さんが選ぶ"宇宙開発史名場面ベスト3"をお聞かせください。
内山 3つですか? そうですね......迷いますが、ひとつはやはり、アポロ計画ですね。
1960年代にジョン・F・ケネディ大統領が「10年以内に月に人類を送り帰還させる」と宣言し、実際に達成した。しかも、計画初期に地上での不幸な事故はありましたが(編集部注:1967年1月27日、アポロ1号の司令船で訓練中、火災に見舞われて宇宙飛行士3名が死亡)、宇宙では死者を出していないですからね。当時の技術で、あれはものすごいブレイクスルーです。
――では、ケネディの「簡単だから目指すのではなく、困難だからこそ目指すのだ」というあの演説も名場面に含まれるのですね。
内山 はい。やっぱり宇宙開発って、短期スパンの費用対効果を考えてやるぐらいなら、やらないほうがいいものだと思うんです。そうではない論理をつくって実現させたのは、本当にすごかった。
ふたつ目は、スペースシャトルです。今でも有翼ファンは多いんですよ。カプセルではなく、滑走路に着陸する。カッコいいじゃないですか。日本でもHOPE(日本版無人シャトル)をやりかけて、何度か実験もしていましたね。
僕は最初、石川島播磨重工業(現IHI)に就職したときに「HOPEやりたいです」って言ったんですけど、「いや、それは先日凍結されました」って(笑)。悲しかったです......。
NASAのスペースシャトルもいろいろと問題があって、当初の計画どおり飛行機のようにバンバン飛ばすまでにはいきませんでしたが、それでも30年間運行した。ものすごい技術だと思います。
――スペースシャトルは広告塔としても効果絶大でした。実際は打ち上げ時のどでかい燃料タンクは使い捨て、左右の固体燃料ブースターはパラシュートで回収、と決してスマートではないこともやっているけど、宇宙から翼を広げて帰ってくる本体の勇姿がすべてをチャラにする。圧倒的な説得力がありました。
内山 間違いなく一時代をつくりましたよね。
3つ目は、私自身が携わっていることもありますが、国際宇宙ステーションの開発です。
長く宇宙に人が滞在できる半恒久的な施設を、15ヵ国の協力の下で、平和的に造ったのがすごいなと。しかもそこに、さまざまな国の宇宙飛行士が行き、数々の実験をやり、宇宙に滞在する術(すべ)を学んでいます。関わる国が多くなるほど開発は遅くなりがちですが、協力したからこそ可能になったこともあり、人類の大きな遺産になるんだろうなと思っています。
――私としては宇宙における国際協力の原点として、アポロ・ソユーズ・ドッキングもつけ加えたいところです。
内山 ああ、僕はその年に生まれたんです。あれはすごかったですね。アポロ計画が終わり、あれだけ競い合っていた米ソの人々が宇宙でつながるっていう、平和の象徴ですね。
――これからも平和な競争や協力が続くことを願います。
●内山 崇(うちやま・たかし)
1975年新潟生まれ、埼玉育ち。2000年東京大学大学院修士課程修了、同年IHI入社。2008年からJAXA。2008~2009年第5期JAXA宇宙飛行士選抜試験ファイナリスト(10名)。宇宙船「こうのとり」フライトディレクタとして2009年初号機~2020年最終9号機までISS輸送ミッションの9機連続成功に貢献。現在は、日本の有人宇宙開発をさらに前進させるべく新型宇宙船開発に携わる。昨年12月に『宇宙飛行士選抜試験 ファイナリストの消えない記憶』(SB新書)を上梓。