YouTubeなどで人気コンテンツのひとつとなったASMR(自律感覚絶頂反応)。高感度マイクで収録されたささやきや咀嚼(そしゃく)音などの微(かす)かな音を楽しむコンテンツだ。
ゾクゾクする感覚は"脳のオーガズム"などとも呼ばれ、アダルト業界をはじめとして支持を集めてきた。そんなASMRに、科学的な観点から切り込んだのが、『脳がゾクゾクする不思議 ASMRを科学する』の著者のひとりである慶應義塾大学准教授の仲谷正史氏だ。
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――なぜASMRを取り上げたのですか?
仲谷 ASMRでゾクゾクする、ということ自体はよく言われることです。でも、少し考えるとおかしいと思いませんか? ささやき声のような聴覚の刺激で、ゾクゾクという皮膚感覚、触覚の感覚を得ているわけですから。そこに触覚研究者として興味を持ちました。
実は、2015年にはすでにASMRに関する最初の学術論文が発表されているんです。この論文のために行なわれた調査では、6割以上の人々がASMRによってゾクゾクするような感覚を得ると答えたんですよ。ASMRと皮膚感覚に密接な関係があると示されたわけです。
――ゾクゾクというと、エッチな快感みたいな感じですか?
仲谷 同じ論文で示されたことなのですが、セクシュアルな目的というより、ストレスを解消するためにASMR体験を求める人が多いようです。
――意外ですね。
仲谷 ASMRが登場した2010年頃には、性的刺激と明確に分けられるものなのか熱心に議論されていました。
また、YouTubeがASMR動画に一定の制約を設けたように、性的な一面があることは否定できません。ですが、だんだんとリラクセーションの側面にも目が向けられるようになっています。
――ASMRを聴くとリラックスするわけですね。
仲谷 ただ、誰もが必ずしもリラックスできるわけではないんです。ASMRを体験するには音と結びつくシチュエーションの設定が大切で、これがASMRに対する個人差とも関わっている可能性があります。
例えば、なぜささやき声でリラックスできるか考えてみましょう。そもそも人間は恋人や子供、病気の人にするようにごく親密な人にしかささやきかけたりしません。ささやき声はこの親密な感覚を刺激し、それによって心地よさを引き出していると考えられます。
では、咀嚼音はどうでしょうか。普段の生活では耳元で聞くはずがない音です。不快に感じる方も多い。ですが、映像などを通じて、その音がどういう状況で鳴っているかがわかれば安心感が得られ、心地よく感じることができるみたいなんです。
――音だけではなく、いろいろな要素が絡んでくるわけですね。
仲谷 ええ。そのいろいろな要素を研究してみようというのが、私が専門とする身体性認知科学という分野なんです。
人間が何かを認知するとき、脳や体、知識や周囲の環境といったさまざまな要因が関係しています。例えば、イェール大学のチームが実施した実験を紹介しましょう。
面接前の面接官に温かいコーヒーと冷たいコーヒーを持たせてみたところ、飲み物の温度によって同じ人物に対する評価が変わったんです。嘘みたいな話ですよね?
ほかにも、レストランなどでウエイターがお客さんに軽くボディタッチするとチップが増えるという経験則があるのですが、こうしたものも研究対象に含まれます。
――飲み物の温度やスキンシップは触覚によるものですね。先生の専門も触覚と伺っています。
仲谷 ええ。実は感覚器官でいうと、視覚や聴覚に比べて触覚の研究は未開拓の分野なんです。私が博士課程に入った頃は日本語の教科書が『タッチ』(医学書院)という本くらいしかなかった。このように研究は遅れていたわけですが、でも触覚って相当に大事な感覚なんですよ。
――しかし、視覚は人間が受け取る情報の90%に及ぶくらい重要な感覚っていいますよね。触覚が大事というのはどういうことでしょうか?
仲谷 例えば、触覚を失ってしまった状態を想像してみてください。オリヴァー・サックスの『妻を帽子とまちがえた男』(早川書房)という本の中には、神経炎のために触覚を含む体の感覚を失ってしまった女性が登場します。彼女には視覚も聴覚も残っているので、一見すると何も問題がなさそうです。
しかし、体の感覚を感じ取ることができず、自分が幽霊であるかのように感じてしまうらしいのです。触覚を失うことで、自分と世界をつなぎ留めるものを失ってしまったわけですね。
――なるほど。
仲谷 少し話がずれますが、実は触覚は技術開発としても後発です。視覚や聴覚を再現するという試みはカメラや電話として技術的に早くからスタートしていますが、触覚の再現はここ30年ぐらいでやっと始まったところなんです。
――触覚の再現って?
仲谷 身近なところだと、スマホが触覚再現ディスプレーに含まれます。スマホって振動しますよね。振動という、触覚を使った感覚を再現しているわけです。
今のところ、触覚の再現技術は視覚や聴覚に比べて普及していません。皮膚に物理刺激が伝わらなければならないので、ハードウエアの開発が困難なんですね。
おまけに、触覚は視聴覚と比べて50種類ぐらいしか"錯覚"が見つかっていなくて、聴覚や視覚に比べてだまされにくい感覚であることが開発を難しくしています。
――ということは、聴覚を通して触覚的な感覚を得られるASMRは技術的にも興味深いということですね。
仲谷 はい。触覚だけでリアリティを再現するのは技術的にとても難しい。そこで、視覚や聴覚をうまく使い、触覚がそれを後押しすれば、リアリティが増すのではないかと考えています。
実は、聴覚と触覚の発達は同じ遺伝子で支配されていることがわかっています。聴覚と触覚を処理する脳の部位は別の場所なのですが、感覚器レベルでは共通の基盤があって、互いに影響を及ぼしているのかもしれない。
そうすると、ASMR研究が感覚の謎を解き明かす鍵になりえるのです。今後研究が進み、ASMRが新たに見いだされた感覚となる日も来るのかもしれませんね。
●仲谷正史(なかたに・まさし)
触覚研究者。2008年に東京大学大学院情報理工学系研究科博士課程修了。同年より、民間企業において触感評価技術の開発に従事。2017年4月より慶應義塾大学環境情報学部准教授。教務・学務の傍ら、2007年に立ち上げたメディア「TECHTILE」の活動を通じ、触れることを起点とする価値づくりやその社会展開・普及に携わる。共著書として『触楽入門』(朝日出版社)、『触感をつくる―――《テクタイル》という考え方』(岩波科学ライブラリー)など
■『脳がゾクゾクする不思議 ASMRを科学する』
仲谷正史、山田真司、近藤洋史/著
岩波科学ライブラリー 1540円(税込)
ゾクゾクする感覚を得る音声コンテンツのASMR。人気を博す一方で、そのメカニズムは科学的に不明らしく、そもそも実在を疑う声すらあるという。そんなASMRを真面目に科学しようと立ち上がったのが触覚研究者の仲谷正史氏、音楽と感動に関する研究をする山田真司氏、実験心理学者の近藤洋史氏の3人。それぞれの専門領域からASMRをライトに取り上げ、最終章ではASMR研究の未来についても予測する