佐藤喬さとう・たかし
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。
片や、霊長類学の大家。片や、30代の若手言語学者。世代も専門も違うふたりの研究者が対面した理由。それは、近い時期にそれぞれが、「言語の起源には踊りが関係する」という、一風変わった説を唱えていたことだ。そのワケを尋ねていくと、話は現代社会批評につながっていき――。
ゴリラ研究の第一人者・山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏と文字も暦も持たない狩猟採集民を研究する言語学者・伊藤雄馬(いとう・ゆうま)氏がたどり着いた大胆新説とは?
山極 伊藤さんは、言語学者......ですよね? しかもお若い。私は今71歳ですから、息子くらいの年齢だな。
伊藤 はい、そうです。雪駄(せった)に金髪でそうは見えないかもしれませんが、これでも僕が持っている中で一番きれいな服なんです(笑)。
山極 大丈夫、年や服装は研究に関係ありませんから。
伊藤 ありがとうございます。僕は、タイやラオスの山岳地帯に住む「ムラブリ」という少数民族の言語を研究しています。ムラブリたちは山に住んでいるんですが、狩猟採集の生活を送っていて、しかも文字を持たないんです。
山極 なんでも伊藤さんはムラブリとして生きようとして、ふんどしをはいているとか。
伊藤 今もはいています。それだけじゃなくて、定住をやめて持ち運び式のドームで暮らせないか試しているし、雑草を食べたりもしています。大学も辞めました。
山極 徹底していますね。
伊藤 というのも、フィールドワークをしているうちに、言語の研究だけでは不十分だと思い始めたからなんですね。
山極 そう、そしてそれこそが今、伊藤さんと私という、年齢も専門も違うふたりが話している理由ですね。
私はずっと、言葉を持たないゴリラの研究をしてきたのですが、伊藤さんと関心が重なるところがあるんです。8月にシジュウカラの言語を研究している東大の鈴木俊貴さんと出した共著『動物たちは何をしゃべっているのか?』(集英社)でも触れたけれど、私は人間の言葉の起源は踊りや身体と密接な関係があると考えています。
そんなことを考えていたら、伊藤さんも似たような主張をされているという。それがこの対話が用意された理由です。
伊藤 そうですね。例えば、ムラブリ語を話しているときの僕の身体は、日本語を話しているときとは明らかに違います。
例えば、「日本語の身体」のときの目は今みたいに数十㎝くらいの近い場所を見ていることが多いですが、ムラブリ語のときは、20~30mくらい先を見てしまうことが多い。森に住むムラブリは、そのくらい遠くを見て暮らしているせいかもしれません。
山極 なるほど。おっしゃるとおりで、言語そのものが身体化しているのでしょう。
そして私は、身体化されたコミュニケーションが踊りだと思う。踊りは、話し言葉が生まれる前から存在していたコミュニケーション手段ではないか。よく、ヒトは直立二足歩行を始めたから踊り始めたと語られることが多いですが、むしろ逆で、ヒトは踊るために直立したのではないか、とさえ思っているくらいです。
伊藤 僕も、言葉と踊りは分けられないと思っています。だからムラブリの踊りを習ったりもしていますが、踊ると、日本語の身体から別の身体に変わることを実感できます。
山極 しかしわれわれヒトは、音声言語を手に入れてからは、身体から離れた意味や情報ばかり気にするようになってしまいました。
伊藤 確かにそうですね。今は言語というと文字化された文章ばかりイメージされるけれど、基になったものは身体運動だったはずで、つまり踊りと一体化していたはずです。
山極 私はそもそも、今のヒトの言葉はコミュニケーションの手段として進化したのではないと思う。動物にとっての本来のコミュニケーションは共感や感情のやりとりですが、それは言葉がないほうがうまくいくから。
伊藤 確かに。
山極 私はゴリラと気持ちを通じ合えるのですが、そのときに言葉は邪魔です。ゴリラは表情が豊かで、考え事をしているときは眉を寄せたり、どうしようかなと思っているときは口をぎゅっと結んだりするんですね。それを互いに読み合うんです。言葉はいらない。
伊藤 すごい技術ですね。
山極 そして、共感のために登場したのが踊りだったと思うんです。自分の身体を相手の身体と一体化するのが踊りです。それが言葉がない時代のコミュニケーションだった。
ところがその後、昨日起きた出来事など、今・ここにはないものを伝える必要が出てきた。それが情報です。そして情報を伝えるために、話し言葉が発達した。
伊藤 よくわかります。ところが今は「コミュニケーション」というと、感情のやりとりではなく、言葉を使った情報の交換を指す場合が多いですよね。
山極 そう。だけど、言葉はまだ、昔からわれわれがやりとりしていた共感や気持ち、美を表現できません。だからいろいろ問題が生じていると思う。
伊藤 そうですね。ただ、僕はそこには希望もあると思うんですね。言葉にならない感情や美があるからこそ、それを表現しようとして芸術や踊りにトライできるからです。
山極 ところで伊藤さんはムラブリの研究をなさっているわけですが、私もゴリラの研究の一環で、アフリカの狩猟採集民であるピグミーの人たちとも付き合ってきたんですね。そして伊藤さんの本を読んで思ったのは、ムラブリとピグミーはとても似ているということ。
例えば、ゴリラの調査のためにピグミーの人らを10人くらい雇って、お金を支払おうとしたら断られたことがあるんですよ。
伊藤 なぜですか?
山極 平等ではないから、と言うんです。誰かが調査に同行したときは、村ではその人に代わって別の誰かが働いているわけだから、お金は村全体に払うべきだというんですね。われわれの常識とは全然違うんです。ムラブリには、そういうことはありませんか?
伊藤 あります。彼らは狩った獲物をシェアするんですが、非常に平等に分配するんですね。狩りへの貢献度は人によって違いますから、僕からするとそれこそ不平等なんですが、彼らの考え方は違う。
でも、改めて考えてみると、僕たちの常識が正しいという根拠も弱いですよね。僕は前まで大学教員をやっていましたが、給与の算出根拠はなんだろうと思うと、納得できるものが見つからないんです。
担当した講義のコマ数とか学生からの評価によって決まっているらしいんですが、それが僕の活動のすべてじゃないですからね。
山極 確かに。
伊藤 つまり、閉じた系で見るか、そうでない見方をするかの違いだと思うんです。特定の場面での貢献度だけで測るなら、狩りにたくさん貢献したやつは肉を多くもらうべきだということになるし、大学教員も一部の指標だけ見て給与を決めればいい。
でもピグミーやムラブリは、もっと視座が高いんじゃないですか? 豚の解体作業だけ見れば、大して手伝わないやつがそうでないやつと同じ対価をもらうのはおかしいけれど、それ以外の場面も含めて総合的に考えると、皆大きな差はないですから。
山極 そもそも、完全に閉じた系はないですからね。どこかは必ず開いている。
伊藤 ところで山極先生、これ、お土産です。ムラブリから買ったバッグなんですが。
山極 おお! ありがたい。すごいな、これを作るには時間もかかったでしょう。
伊藤 ええ、とても。2、3ヵ月はかかったんじゃないかな? でもムラブリはそれを500円とかで売っちゃうんです。売ってお金を儲けるという感覚があまりなく、人ごとなんですね。「これ売り物?いくら?」と聞いても、「うーん、まあ、値段は決めてよ」という感じなんです。
山極 狩猟採集民は所有の概念がないんですね。それぞれが弓矢や鍋を持ってはいるんですが、平気で他人のものを使ったりする。どれだけ時間をかけて作った道具でも自分の所有物ではないんです。
そして、所有という概念がないから、価値を決めることもできない。ムラブリはそういう世界にいるのかもしれません。
伊藤 確かに、商取引はまったく盛んではないですね。
山極 しかし、農耕を始めると話が変わります。特定の土地に定住して、しかも時間をかけて雑草を抜いたり害虫を追い払ったりしなければいけませんから、この畑で取れた野菜は自分の大切な所有物だ、という感覚が生まれる。
こうして所有や価値という概念が出てきたんじゃないか。だから、同じくらいの価値があるものと交換しよう、ということで商取引も生まれる。
そこで、文字が登場するんです。私は、文字は、目に見えない価値を表現するために生まれたんだと思う。商取引では契約の記録を残さないといけないからね。こうして確実で、変わることのない書き文字が生まれました。
伊藤 なるほど。
山極 でも、われわれの感情は不確実で、時間とともに変わるでしょう? それなのに、本来は特殊な目的のために作られた文字の論理が、逆にそれ以外の世界を規定するようになってしまった。
伊藤 そうですね。
山極 昔はスケジュールなんて立てなかったのに、今は皆がスケジュールを埋めることに必死になっている。恥ずかしながら、私のスケジュールもずっと先まで埋まっています。でもね、不遜な言い方をすると、それは現在を未来に売り渡しているだけなんだ。
気分なんてコロコロ変わるものなのに、スケジュールを立てたら守らないといけないから。たまに思いますよ。文字のない、気分任せで暮らせる世界に行きたいなと。
伊藤 ぜひ、ムラブリの世界に(笑)。
山極 伊藤さんが大学を辞めたのも、そう考えたからじゃないの?
伊藤 半分はそうです。でも、計画を立てたり文字を書いたりする生活を捨てるつもりもないんです。今日のこの対談だって、ずっと前から楽しみにしていたんですよ。
僕は定住せず、いくつもの場を持っているからこそ、森で暮らす生活とテクノロジーに囲まれる生活との両方を楽しめるんです。
山極 おお、まさにそれなんだ、私がやろうとしているのは。私は"複数の自分"を持つ多地域居住生活を勧めたいんです。
ゴリラにもチンパンジーにもない人間だけの特権は、複数の集団に、同時に所属できることです。彼らは同時にはひとつの群れにしかいられないからね。それを生かして森の生活と、都市の生活を行き来してもいいと思う。
そして、それを可能にしてくれるのが科学技術です。スマートフォンで森の天気を調べて、フリマアプリで必要な道具を安く買い、飛行機で飛んでいく......。ここまで話してきたように、言葉や文字は、私たちの生活や考え方を強く縛ってしまっています。
でも、面白いことに、言葉や文字が生んだ科学技術が逆に、それらの制約からわれわれを解放してくれるんです。
伊藤 なるほど、確かに。
山極 すると、言葉によって切り捨てられてきた共感や美、そして踊る身体を回復できるかもしれない。
伊藤 そう、僕は森で暮らそうとしていますけれど、皆が皆、そういう生活を望むとは思いません。だけど、都市の生活に未来があるとも思えない。ならば、両方を追求すればいいと思う。
山極 ええ、二兎を追っていけない理由はありません。ヒトにはそれができるんだから。
伊藤 今の若い人は、買ったものがいらなくなったらメルカリで売ったり、車を所有せずにカーシェアで済ませたりと、ムラブリ化している面がある気がするんですね。
実はムラブリは、一度は農耕民化したことがある民族なんです。でもその後、再び森に入って狩猟採集の生活に戻った。ならば僕たちだって、もう一度、部分的にムラブリ化するかもしない。そのときには、言葉だけじゃなくて、踊りによって語り合っているかもしれませんね。かつてのように。
●山極寿一(やまぎわ・じゅいち)
1952年生まれ。霊長類学者。総合地球環境学研究所所長。京都大学前総長。アフリカ各地のゴリラなどを研究対象とし、人類に特有な社会のルーツを探っている。著書『動物たちは何をしゃべっているのか?』(集英社、鈴木俊貴氏との共著)ではコミュニケーションの起源を踊りや音楽に求める仮説を提示した
●伊藤雄馬(いとう・ゆうま)
1986年生まれ。言語学者。独立研究者。タイ・ラオスに住む狩猟採集民・ムラブリの言語文化を調査研究している。著書に『ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと』(集英社インターナショナル)、『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』(教育評論社、奥野克巳氏との共著)がある。写真は、タイ仕込みの踊りを披露している様子
フリーランスの編集者・ライター・作家。著書は『エスケープ』(辰巳出版)、『1982』(宝島社)、『逃げ』(小学館)など。『週刊プレイボーイ』では主に研究者へのインタビューを担当。